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後悔をし続けると決めた。

最近だが一人称を「ぼく」としている。文章をかくときは
自然にでてくるので、無理に「わたし」と云わないことにした。

ぼくは社会から逸脱してしまって、病気のせいもあるかもしれないが
最近つくづく生きてる世界を間違えてしまったんじゃないか。思う。

例えば、植物のように感情が無い生き物ならもっと真面目に咲いただろうし、ゴキブリだったら潔く殺されに行っただろう。

面倒な性格が他人に触れて、不快にさせたり迷惑をかけないか、
いつも考えてしまう。

記憶の仕組みは「 嫌なこと > 良いこと 」


うつのときは主に「虚無」だったり、衝動的になにか仕掛けてしまう
のだけど、少し元気がでると言葉が溢れてしまって
嫌なことも、良いことも考えてしまう。
嫌なことと、良いことは比べると、嫌なことの方がパンチがきくので考えも傾いてしまう。
 
彼と食べたクレープがおいしかったこと、
帰り道の夕暮れが沁みて泣いてしまいそうだったこ、
そのとき、ひとりじゃなかったこと。
 
こんなぼくにも、生きててよかったと思える体験が時々あって、なのに辛いときはそんなことが思い出せないのが悔しい。

だから、ぼくはInstagramをよく更新(記録)していて、
忘れたくないことや日常のメモ?手帳のように使っている。

ぼくのInstagramは、ぼく用のInstagramなので、自由にやっていい。
(他人に危害を与えない範囲で)

だが最近、そんなInstagramのスクショが、X(旧Twitter)で
晒されているのを見た。

ぼくのInstagramは、ぼくの単なる手帳が誰かにそんなふうに
使われたら嫌だなと思って鍵をかけてしまった。(今は外している)
 

ぼくは昔から、X(旧Twitter)が大好きだ。


Instagramは情報過多な気がして「見る」には苦手だ。
TikTokは急に音がでてびっくりするから、苦手だ。(設定の仕方もわからない)
ここで、ツイッターのコンセプトを思い出してみよう。
 
*Twitterとは「小鳥がさえずる」「ぺちゃくちゃしゃべる」と
 いった意味の英語。
 基本は、「What's Happening?(いまどうしてる?)」などの
 つぶやきを  140文字以内で投稿すること、
 自分や他人のつぶやきを時系列で自分のページで閲覧すること。
 つぶやきをツイート、閲覧することをフォローという。
 フォローし合うことでコミュニケーションをはかることができる。

 
日本語でいうと「独り言」でよくて、ぼくは自分の気持ちを直接だれかに話す・理解してもらうことが苦手だし
頭の回転の仕方が人よりおかしい(ぐちゃぐちゃなんだ)から、
なにをするにも声にだしながら、「~~か」「~~~しないと」「しんど」と、他人に渡さなくても外にだす作業が
必要な人だった。
そこでTwitterのコンセプトに惹かれたし、X(旧Twitter)となっても住み続けている。
(Twitterでできた友だちもいるし、サークルだってできた)
色んな仕組みや見え方が変わって思うところはあるけれど、ぼくの中で青い鳥がチュンチュン囀ってみえるから
まあ、それはそれでいいんだ。ぼくは引っ越さない。
 

「バズったほうが勝ち」みたいな文化


SNSは、バズったほうがいいのか。
そもそもぼくにとってのインターネットとは、
普通に生きてて出会えないような出会いを果たせるものだった。

たとえば中学時代にサブカルチャーに出会って、
ぼくが本当にすごいと思うひとの文学や映画、音楽の話をしたって
みんなは「V6」の誰がすきとか、モー娘を踊っていた。

ぼくもいいと思うものもあったけど、みんながいいというからって、
ぼくも「本当に好きです」ってフリをするのは両方を汚す気がした。

アニメも大好きだけど、クラスのアニメ好きな子たちは
「だれがかっこいい」とか「カップリング」の話に結局なって、
それが悪いとかじゃないけど
「自分がそうだからって、他人もそう」みたいな「話し方」が
当時は凄く嫌だった。

漫画が大好きで、漫画家になりたい子たちが集まって
イラストを描いて見せあってるのをみて「全然、漫画描かないね」
って悪口も云った。

そんなことをしていると、ぼくは実生活で話す相手を失った。

それでも変わらずCDをかけた、
映画をみてすきな音楽を聴いた、
鞄には大好きな本が入ってる、毎日は悪くなかった。

ぼくが中学生のころは、インターネットが当たり前ではなくて、
ガラケーだったし、パケット通信費も高かった。
だから、パソコンを使う部活の手伝いをして放課後は
学校のパソコンでインターネットを使った。

TSUTAYAで視聴したバンドを調べたり、
好きな作家の好きな作家を調べたりした。少しずつ世界は広まった。
 そんな経緯もあり、ぼくはインターネットというものが好きだ。

しかし、最近は「バズったほうが強い風潮」とか、
自分が正しいと思ったなら実名をだして袋叩きにしてもいいみたいな
よく分かんないことになっている。
いいか、悪いかは別として。
自分はそれでいい気分になれるのだろうか。と、

ぼくはメンタルがクソ弱いので、自動的にネガティブなスイッチが押され
悲しくなって泣きながら布団に籠ったりする。
(他人のことでも、そうなってしまう)
 
そして今日ふと気づいた。自分がそんなことにどう向き合えばいいのか。

・      「天才は、完全ではない」
・      「ネット上にたっただけで、凡人のままだ」 

この2つである。我ながら口の悪いもの云いだが、
 
芸能人・アーティスト・作家など、
天才と呼ばれるひとたちは、完全ではない。


「天才は、完全ではない」


自分にとって得意としたことに、めちゃくちゃ努力して、
結果をだし、それ以外がまるで出来ない人が多くいると
ざっくりとした知識を前提とする。

天才ができることの裏側には、できないことが必ず隠れている。
会社員として、毎日決まった場所で、指示された仕事ができない。

世間一般でまともとされるコミュニケーションが分からない、等。
できないので、できることを頑張った人たちとも云える。
(=裏返せば、天才にはなれないので普通に働いてる。
  も、同じなんだ、ぼくらは)
 

「ネット上にたっただけで、凡人のままだ」

 
報道や週刊誌の情報、悲しい知らせがあっても
正義を刃に、凡人が戦場へでても「実名」も「顔」も「声」も出さない。
くだらないし、覚悟がないくせによく(戦場にきたね)社会見学かよ。と
ぼくは思ってしまうんだ。

ぼくらは、天才たちのできないことを、
「自分ができなくて悔しいことぐらい」
思いを重ねることはできないのだろうか。
 
うまく話せなかったな、
本当は違うと思ったのに声に出していえなかったな、
誰かがやると思ってそこまで行動しなかったな、
自分が責任取ることじゃないな、、、

なんてな失敗を僕らは毎日しているのに「凡人」をいいことに
都合いいこと調子良くいえるな。
ってぼくはなんか辛い気持ちにしかならん。
 
だから、僕にとっての向き合い方を考えた。

きっかけは、自死の知らせをきいて
どう心の中を整理していくべきか、
他人の考え方をどう受け取るか考えたことだった。

ぼくたちがするのは「後悔」だけでいい。


 
ぼくたちがするのは「後悔」だけでいい。

あのとき、なんて云えばよかったのか。
あのとき、どうすればよかったのか、と。
ごめんね、と語りかけて、もう誰も自分の意志で死なせない

世の中を(社会を、業界を、)どう作るか、必死になって考えることだ。
ぼくはたくさん後悔する、記憶して、忘れない。
それでよかろうか。


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