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『ゴジラ-1.0』が反戦に思えた理由

『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督)が米国アカデミー賞でアジア映画初の視覚効果賞で最優秀賞をとったという凄いニュースが流れてきた。

公開日すぐに観に行って翌週2回目鑑賞するくらい面白かったのだが、「戦争を肯定的に描いている」という否定的意見をちらほら耳にしたりSNSでも見受けられたので、自分はどう観たのかを書いておく。あくまで自分はこういう構造に見えたという話であり、実際に創作者の方々の頭の中を覗いたわけではないので悪しからず。

まずネタバレなし(たぶん)で言いたいこと。
① 「日本の戦後」を表現した映画だと思う(「戦争のやり直し」ではなく「戦争から脱却する生き方のやり直し」)。高い技術力や庶民の生きようとする力で敗戦から見事に復興した日本の戦後の姿をゴジラ映画として描いている。(山崎貴が好きなテーマなのかも)
② 「国」が押し付けてきた戦争と違い、「民間」が家族を守るために自分たちの意思で災いを跳ね除けるさまが強調されている。全体主義から民主主義への移行が「アメリカの押し付け」でなく「自然発生的に生まれた」庶民の物語として描かれている。(アメリカ軍がほとんど出てこないのが不自然だと批判があるが、上記を描きたい理由に自分は思えた)
③ アメリカ人は自国以外でも「民主主義が勝利する健全な愛国心の物語」が好きなのだと思う。だからこの映画が米国でもハマったのではないか。
④ 庵野が描く「官僚や国などの組織」が中心になって活躍する物語よりも、民間人が集まって活躍する山崎ゴジラの方が思想的に好きだ。感性では庵野ゴジラも大好き。
⑤ 「自分の人生には他の可能性があった」「やるべきことをやってこなかった」という暗い気持ちを抱えて生きる人は、神木くん扮するシキシマのキャラが刺さると思う。で、刺さった(笑)村上春樹の「35才問題」に通ずる。
⑥ ゴジラは物語上のリアリティとして「ただの生物の縄張り意識で東京に来た」として説明されている。ただし、シキシマにとっては戦争のトラウマそのものである。程度の差はあれトラウマはシキシマだけにとどまらない。最後にゴジラに対し民間人たちがなぜ敬礼するのかというと、彼らは空に昇る青い光を見て「戦争から帰ってこれなかった自分たちの仲間」をそこに合わせてしまったのではないか。つまり彼らにとってのゴジラは「戦争で死んだ無念さの集合体」に見えたのだ。ゴジラが国会議事堂を攻撃し、黒い雨を降らしたのは「戦争を始め、命を粗末にしてきた日本人に戦争を忘れさせない怨念」として目に映ったのだと思う。ゴジラから戦死した者の魂が還る時、彼らは戦争のトラウマからようやく解放された気持ちになったのだろう。(ただし、映画はそんな露骨にメタファーは使ってないので僕の印象である)。山崎貴はこの、戦争を生き残り戦後復興させた「戦後」の人々の複雑な心情を群像劇として描きたかったのではないか。
⑦ 主人公のシキシマは、周囲が民主主義化していき一人の命の大切さを重んじるように変化していく中で、逆転していく。最初は「戦争 < 生き残る」という考えの青年だったのが小ゴジラ襲撃時に「自分が命を惜しんだせいで自分以外がほぼ全滅した」というトラウマを抱えてしまい、つまり彼は終戦後にゴジラ(戦争であり、戦死した兵士の怨念)に取り憑かれてしまい、戦争PTSDに悩まされ、狂っていく。家族を守るためとはいえ「次こそは特攻で死ににいく」と逆戻りするように戦時中の思想に取り憑かれ、戦争の怨念と化していく。つまり人間でありながらゴジラと合せ鏡のモンスターとなって対峙する。ただし、周囲は民主化していくので孤立していく。ガクシャが言う「この作戦は一人の犠牲者も出さないことを誇りにしたい」という熱い想いに対しシキシマは目を背ける。観客はシキシマの変化にハラハラする。この辺の脚本は上手いなぁと思う。ここでシキシマに手を差し伸べるのが、同じく小ゴジラ襲撃の生き残りであり、シキシマに罪悪感を植え付けた当人でもある整備兵タチバナである。シキシマがタチバナにこだわるのは彼しか飛行機を直せないのではなく、彼に自分の特攻姿を見て欲しいからだ。根っこの心情は「許されたい」のだ。これに気づいたタチバナは彼をある方法で許す。戦争から開放してやる。だから自分は特攻礼賛には全然見えなかった。それは観客をハラハラさせるミスリードで、実は空を飛んでる段階でシキシマはチームプレイの一員へと意識が変わっていることが後にわかる。
⑧ 実際に戦時中に使われた射撃兵器はことごとくゴジラの前で失敗に終わっている。特攻も本来の姿ではない。ゴジラの青光線避けに戦艦をあっさりオトリに使うのも「戦争兵器」を脱構築してる。つまり最後の作戦は「戦争で使われた兵器」を脱構築してズラしている。別の意味を与えている。そこにテーマがあると思った。

反戦映画に見えた理由は以上だ(横道にそれた話もあるが)。
戦争をやり直したいのでもなく、民主主義をやり直す映画なのだと思う(政府中心から庶民中心の民主主義へ)。
リセットできない過去の過ちを認め、考え方を訂正して生きていくしかない。悲しい現実はあった。人間はそれを教訓に変えて、前を向いて生きていける生き物だ。そういうテーマの映画に思えた。

以下、時系列で見ていく。ちょいネタバレあり。

【終戦直前から終戦】
神木くん(なぜ何歳になっても神木「くん」と呼んでしまうのだろう)扮する主人公シキシマは特攻隊なのに命が惜しくて帰ってきてしまう。迎える整備兵タチバナは「特攻なのに死なずに帰ってきたこと」に批判的な表情。隣人スミコも戦場から帰ってきたシキシマに対し、死なずに帰ってきたことを大声で非難する。
この段階では、主人公シキシマは命が惜しくて特攻に否定的。これは現代人と感覚が近いので観客としても共感しやすい。逆に周囲の登場人物の多くは戦争に対して「好戦的」とまでは言わないが「上から押し付けられたのだから仕方ないだろ」という感じで諦めつつ受け入れている。

【戦後すぐ】
シキシマに「生きて帰ってこい」と言った父母は空襲で死んでしまっていて、なんのために生きて帰ってきたのかと、特攻を否定してきたシキシマのアイデンティティが揺らぐ。またシキシマは戦時中に小ゴジラと出会っていて、その際に自分の命が惜しくて小ゴジラを迎撃できず、無力な整備兵たちをほぼ全滅させてしまったと悔いながら戦争PTSDに悩んでいる。
このことで、ゴジラはシキシマにとって「戦争の記憶」そのものとなる。(ちなみにシキシマはPTSD発症時には戦時中の記憶から敬語になる。そのキャラ設定の芸が細かさも好きだ)。

そこに浮浪者のようなノリコと赤ん坊のアキコが偶然に彼の家にやっかいになる。追い出そうとするも、「娼婦(パンパン)でもなれというのか」と怒るノリコ。「今は仕方ないだろ」と言い返すシキシマだが、彼は二人を追い出さない。彼には「世の中そうだから仕方ない」という価値観になりきれない、現代人的な優しさが備わっている。憐れみの感情は隣人スミコにも伝播し、シキシマにも周囲にも人間らしい前向きな価値観へと変化が起こっていく。このように、物語の初期のシキシマは現代人的な感覚の人物で、共感の受け皿となる。

ちなみにシキシマとノリコとアキコの家族は性的な関係を介さない「助け合い共同体」で、男女だが対等の意識。男女差別が普通だった時代設定で、この辺りも上手く現代的にできてる脚本だなと思う。

【就職】
シキシマが機雷撤去という危険な職に就く。この時ノリコは大反対する。ノリコにとっては「生きる(命を重んじる)」ということが何より大事だから。だが仕事は順調にいき、生活が安定する。周囲も復興が進み、戦争から変わっていく。ノリコも自立を考える。だがシキシマは戦争PTSDゆえに「自分の中で戦争が終わってない」とこぼし、周囲のように変化できず、内面的には取り残されていく。古い人間という描写が始まる。観客にとってシキシマは共感しにくい人物へと進んでいく。一番共感しやすい現代的な弱さをもった人物だったはずが、ゴジラのせいで過去にばかり目をむけ、態度も強い人物へと変化していく。周囲の変化と逆転していくのだ。

【ゴジラ遭遇】
アメリカの核実験でゴジラは巨大化する。シキシマたち機雷撤去のボロ船チームは軍艦「高雄」の応援が来るまでゴジラの監視(さらには足止め)を国から命じられる。チョーさん、ガクシャ、コゾウのボロ船チームは戦時中と変わらない「国」の理不尽さを嘆く(この後の「民間チーム」との対比としてもこのエピソードはある)。

ゴジラと遭遇。圧倒的な破壊力を見せつけられ、「高雄」も撃沈。
シキシマたちは撤去した機雷でなんとかゴジラから逃げ切る。
その際、ゴジラは口内が弱いとわかるが、破壊された箇所から細胞が復活するので局所破壊じゃどうしようもないともわかる。(この体験の理解の差で、後にシキシマは口内への特攻作戦に取り憑かれ、ガクシャは一気に全身を破壊する作戦へと舵を切る)。

【ゴジラ上陸】
シキシマはある日、ささやかな自分の家族の幸せな光景を見て「もう過去に囚われるはやめよう」と決意する。しかしゴジラの襲撃があり、あんなにも「生きる」ことを大事にしていたノリコはシキシマを助けて瓦礫と共に吹き飛ばされ跡形も無くなってしまう。戦争(ゴジラ)というものの理不尽さでシキシマも観客も打ちのめされる。そこにキノコ雲がのぼり、黒い雨が降る(このときの神木くんの説得力ある芝居がすごくて鳥肌立った)。
シキシマは「過去は自分を逃してくれない」という思いにますます取り憑かれ、闇落ちしていく。

【民間チーム発足】
対ゴジラの民間チームが発足する。彼ら民間人はもちろん数年前に戦争から生き残った人々であり、自分たちの過去の過ちを修正したい、修正できる機会だ、と捉えている。それは「技術や知恵を正しいことに使う」「民間による国からの命令ではない組織」「命を大切に」「自分の意志を大切に」など民主主義への変化であって、ここで「もう一度戦争をやり直したい」と捉えるのはうがった見方だと思う。なぜならそもそも彼らは行きたがってはいない。災いを仕方ないから退けたいのだ。

ここでのガクシャの作戦がまさに「戦後の日本」を象徴するような「産業技術と知恵を使う」という感じで面白いのだが、シキシマはすでに「特攻」に取り憑かれてしまっていて、ガクシャたちがいう「命を粗末にしない」「犠牲を出さない」というポリシーに目を背ける。
ますます世間の民間人の変化に対し、逆行していくシキシマ。

【最後】
ゴジラを倒す作戦(大ネタバレゆえに書かない)を決行。
シキシマは戦争トラウマのスイッチでもあったタチバナと再会するが、タチバナはシキシマが戦争に囚われてることに気づき、開放してやる。
シキシマは作戦を遂行する。そしてゴジラは倒れる。
その際、青い光がいく筋も天に昇っていくように見える。
それを見た民間人の作戦チーム全員が、まるで戦争で死んでいった仲間の魂がようやく空に還るように感じて敬礼する。
彼らの戦争PTSDは終わったのだった。
そしてシキシマの戦後がようやく始まる。(終)


もちろん自分も「ん?」て思うセリフもあったりする。全肯定ではない。でもこんなクオリティの日本映画は初めて見た。感動した。
自分にも「スポーツで日本が優勝した」とかでちょっと嬉しくなる程度の愛国心はあるようなので、山崎貴監督のアカデミー賞での喜びようには感動した。

感想は人それぞれで、僕も周囲の高評価に対して「なんで?」と思う作品はある。たくさん。
ただ、批判する時に考えるのは、予算がかかる映画制作は人々が人生を賭けるレベルの行為なので、そもそもの批評態度として、そのことへの最低限のリスペクトを持っていたいと思う。20世紀に多く見た罵詈雑言型の映画批評も考え方を訂正する時なのではないか。

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