「形ないものと形あるものの関係性」

 エネルギーは意味の形相だと言って良い。
物質の取り得る形態、気体、液体、個体、これらがマクロな領域で顕現したもの、それが空、海、大地である。空と海と大地は、物質の取り得る三つの形態の象徴的なものと言って良い。

 物質というのは、エネルギーの一形態であるのだが、エネルギーの一形態であるが故、エネルギーが物質に転化したとしても、エネルギーが消えるわけではない。エネルギーはいわば潜在的に存在している。物質というのは、エネルギーが凝固し、現れたものであるから、全ての物質は、それぞれエネルギーの多様な現れだということが出来る。石なら石の在り方、水なら水の在り方、火なら火の在り方、それぞれの在り方は、エネルギーの現れである。この在り方が意味だと言えるなら、意味の形相とはエネルギーのことなのである。

 雰囲気というものを私は散々考えてきたのだが、雰囲気というのはつまり、物質が物質で在りながら、潜在的にエネルギーでも在るので、エネルギーは物質の内に閉じこもっているだけではなく、いわば纏うように在る。雰囲気はそれに照応するようにして在る。

 世界は理という、意味の世界でありながら、事という、物の世界でもある。形而上的でありながら、形而下でもある。形而上的な世界というのは、阿頼耶識の世界のことだ。形而下の世界とは表層意識の現れである。阿頼耶識というのは、凡そ世界の潜在的な可能性が全て含まれている。表層意識というのは、その阿頼耶識にある潜在的なものが、現れた領野である。しかし、興味深いのは、ただ単に阿頼耶識と表層意識が、二重性を持ち世界が成立しているのではなく、物質的な世界においても、エネルギーという、潜在的な世界の可能性そのものと、現れである物質が、二重性を持って世界が成立しているところだ。

 事態は心的な世界の二重性と、物的な世界の二重性とが、さらに二重性を持っているということになる。ややこしいのが、理という意味の世界と、事という事物の世界とが二層で存在するだけではなく、事の世界にもエネルギーという、理の世界に照応するものが存在しているので、真にどこまでも重々無尽な世界なのである。

 始めに言ったエネルギーとは意味の形相である、ということは、私たちは無根拠に意味を把握しているわけではなく、物質の在り方、エネルギーの様相に沿って、私たちは物質を意味付けしているということだ。しかし、よくよく考えると、これほど分かりやすいこともない。つまり、意味の世界というものを、事物から超越的な次元のものとして、語る論者は数多く存在すると思うのだが、そうではなく、意味は物質の在り方と照応関係に在るのである。

 しかし、ここにある、いわば意味に対する超越的な立場と、私が今考えている立場との違いはなんだろうか。ここで、私は井筒が提起したM領域、換言すれば、中間領域という存在を有効なものとして推したい。通常、形而上的な世界は、形而下的な世界を超越しているから、概念的に成立するものだ。しかし超越という概念は、形而上的な世界と形而下的な世界が、まるで無関係なものであるかのような意味合いをもたらした。有体に言えば、主客二元論と同じような弊害だ。

 しかし、これが案外大きな弊害をもたらしていて、哲学的な概念における問題群は、初発として、形而上的なものと形而下的なものを峻別することから始まるのだが、ここに重層的に哲学的な諸問題が生成された。例えば心と物の関係、そこに伴い、主観が客観を認識する問題、そこに伴い他我問題、戻ってしまうが、心と物の関係に伴い、自由の問題、等々。

 私はなんとなく自分の印象として、物質と心という、全く無関係な存在がなぜか象徴的な在り方をしている、という不思議さに魅了されて、そういう類のことを考え続けてきたので、そこに力点が置かれているが、皆重なるところを問題としているように思う。

 そこで形而上的なものと形而下的なものが、ただ隔絶された存在なのではなく、関係性を持っているのだ、という考えを提起し、その関係性を中間領域、或いはM領域と井筒は呼んでいる。ただ、少し反省すると分かるのだが、哲学者はほとんどこの関係性を論じようとしている。しかし、具体的にその領域に名前を付けたという功績は大きい。ちなみに、M領域というのは、イスラム神秘主義の研究者である、アンリ・コルバンの影響が大きいらしい。

 このことをもう少し考えてみると、面白いのは、先ほど私は阿頼耶識というのは形而上的な世界だ、と言ったのだが、阿頼耶識というのは少し調べれば分かる通り、心の深層の方に存在する。阿頼耶識というのは、末那識という個人的な意識より深みに存在していて、これは現代的な科学観からは想像しにくいが、意識や無意識と言っても、個人的な領域に留まるとされるのだが、阿頼耶識はそれを超えている、というのだ。分かりやすいのはユングの集合的無意識をイメージすればいいのだが、阿頼耶識という概念は全然それに留まらず、一切の現象の原因を内包しているという。つまり、心的な射程だけではなく、存在論的な射程も持ち合わせている。むしろ、それらが統一されたようなものが阿頼耶識になる。

 そしてその奥底には心王という、神のような存在と言えば、やや神秘主義的傾向が強いが、決して現れることのない主体が在ると言ったら、一般的な哲学らしくなるだろうか。ここに全て包摂される形で、世界が存在するという世界観だ。すでにイメージされた方もいるかもしれないが、西田の絶対無という概念はこのようなイメージを持たれているだろう。

 永井均の〈私〉の哲学は、個人的な私を超越する形で〈私〉というものが考えられていて、この議論を分かるためには詳論されていて良いと思う。しかし当然、その体系は思想によって様々で、ただ世界の開闢地点のようなもの、そこだけに焦点を合わせれば、この類の議論は哲学史上でも散々為されている。井筒で言えば意識のゼロポイントという呼び方をしている。

 ここが私は判断しかねているのだが、このゼロポイントを、物理学で言えば事象の地平面と言ってよいのか迷っている。また考えてみようと思う。

 そして、このゼロポイントから先には、無限の可能性が含まれていると私は考えている。私がよく出す「揺らぎ」というもの、この揺らぎに重々無尽に意味が内包されている。そして当然、物理的な宇宙もそうなっている。宇宙の始まる前にも揺らぎがあり、この単なる揺らぎから、現在の多様な世界が出来上がっているのだから。

 揺らぎというものには、二項対立が在る。 ~ ← このように、一方の弧と他方の弧が、それぞれ違うベクトルを持っていることが分かるだろう。確かに対立はしているのだが、この ~ はただ単に矛盾しているわけではなく、相互作用しながら、お互いの存在を保っている。すなわち、他方の弧がなければ、他方の弧は成り立たない。これを意味付けるなら、向かう方と引く方とすることも出来るだろう。

 私は以前、愛というのは惹かれ合うものであると言い、それは引かれ合う働きを持つ引力が象徴していると言った。そしてこの惹かれるものに、私たちは向かって行く。そこには意志の力も働いている。愛と意志というのは、一つの力の両側面である。

 当然、ただ引かれる力がそのまま愛になる、というのは無理がある。しかしただ純粋に形相のみを捉える場合、したがって元型を求めるならば、引力の働きは愛の最たる形相であり、元型である。ただ、私たちの愛の意味は、他の意味との数多の連関により、質料を持ち、したがって中身のある、豊かなイマージュを持っている。

 向かう方と引く方には、客体と主体の形相も存在する。向かうところに客体が在り、手前の方に主体が在る。ここに自己と他者も重ねられる。主体と客体という意味には、認識する方とその対象という意味で、心と物も重ねられる。そしてここに先ほど挙げた、哲学の諸問題における語の意味も重ねられる。揺らぎの持つ意味は抽象的だが、抽象的だからこそ、非決定的であり、そこに重々無尽に意味が存在することが有り得るのである。

 ところで、形相や元型という存在は、井筒によれば阿頼耶識に存在する。そして私が愛の元型を、引力という働きに見出せたのは、井筒のいうM領域や、中間領域が在ってこそ可能なのである。つまり、私は愛の元型という理の世界におけるものを、事の世界における物に働く引力に見出した。この両者の関係は象徴的に結びついている。この関係性こそが形而上と形而下の中間領域である。中間領域の名前のもう一つのM領域というのは、mundus imaginalisというアンリ・コルバンの提起した概念が元になっている。ラテン語の概念で、訳すと「想像的世界」になる。

 この想像的世界は、その名の通り想像することによって辿り着く世界であり、例えば私が言う愛と引力の関係というのも、この想像力によって考えられたものだ。私はこのような考え方が大好きで、想像力によってのみ辿り着く世界、純粋な思惟の世界に浸っていたいと常々思っている。

 ところで、私たちは愛というものをどうやって知るのだろう。もしこの事物の世界、すなわち形而下の世界に全く関係のない、超越的な世界、すなわち形而上的な世界にのみ、愛が存在するなら、私たちはいくらこの世の中で経験をしても愛を知らないはずである。しかし事態はどうだろう。私たちは確かに惹かれ合うことと、引かれ合うことを、その想像力によって結び付け、愛について少し知ることが出来る。事物が存在する世界と形而上的な世界は、確かに関係性を持っているのだ。

 実は前著の『心の研究』における、五感の対象と、形而上的なものとの照応関係というのも、このことを考えたことだった。言い換えれば、阿頼耶識における存在と、表層意識における五感の対象を関係づけたのだ。このような想像が私は大好きだ。

 阿頼耶識に存在する大元というのは、揺らぎというものだった。以前、私はむげさん(前はすっぺらこっぺらさん)という方にならって、阿頼耶識をグツグツ煮え滾る湯に喩えた。阿頼耶識にはまさに、エネルギーがダイナミックに蠢いている。

 意味の形相同士が働き合って、練り込まれ、凝固したものが、事物の世界における意味になる。 ~ と ~ が働き合えば ~ は重なり合いながら、ズレ、デリダの言う差延のような働きをし、意味の元型を多様化していくのである。例えば、主体であったものが自己になり、客体であったものが他者になる、というように。

 阿頼耶識ではどこまでも働きそのものが存在する。働きとは述語的なものである。それは対象ではない。例えば、引かれ合うということと、惹かれ合う、ということは、もっと純粋にその形相だけを取り出せば、ひかれあう、ということになる。つまり、漢字で引かれ合うと書けば、それは物理においてのみ適用される概念であるし、惹かれ合うと書けば、それは心理においてのみ適用される概念になるだろう。

 しかし、日本語というのは面白く、ひらがなは対象が分節されていないような表現形態を取る。日本語が述語論理的であるというのは、よく為される議論だが、もっとこの述語論理を純化させていけば、私たちはひらがなに辿り着くのだ。ひらがなは異なる対象を包摂する働きを持っている。惹かれ合うことと、引かれ合うことが結びつけられるのは、そもそもこのひらがな的に考えることが背景にあるのである。

 かなり最初の方に戻ろう。阿頼耶識というのは、心の深層の方に存在すると述べた。そして阿頼耶識は揺らぎという形で、世界に現れる無限の意味を、重々無尽に持ち合わせている。東洋的な考えでは、阿頼耶識というのは西洋で言う形而上なのだが、それはどこまでも世界を内包している場である。それに対して形而上という言葉の通り、西洋では世界の超越的な場として形而上が考えられてきた。私はここで東洋だけを見習おう、とか言いたいのではない。意味の超越性、理の世界の超越性というのは確かに在るだろう。しかしそれだけで終わるのではなく、超越的である意味が同時に内在的であること、これを踏まえなければ、世界の真相は掴めないのではないか、ということを言いたいのだ。そこで中間領域やM領域という領域の有効性を今回書いてみた。中間領域やM領域と言ったものは、私は始めて知った時、そんな領域無いとも言えるのではないか、と考えた。しかし形而上と形而下というものは、その概念からして、一方がなくては他方が成り立たないのだから、その関係性である中間領域という場は、必然的に要請されるのである。

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