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バンド活動開始~前編~

こんにちは。

『音楽家として生き続けること』を永遠の課題としている、だいぞう(坂本大蔵)と申します。

前回は『社会経験と暗黒期』について書かせて頂きましたが、今回は同じ時系列順で、バンド活動のことを書いて行きたいと思います。

1.初めてのライブハウス

本格的に仕事をやり始めた同時期、ギターの練習と創作時間を増やして行きました。

この頃になると、『バンドでプロを目指すしている』という人との出逢いも増えて、まずはヴォーカルとギター(ツインギターを欲していた為)との出逢いからはじまりました。

母体となる3人での活動をスタートし、曲を合わつつ残りのメンバー探し。

最初はドラマーが見つからなかったり、人間関係が上手く行かずに脱退するベースがいたりと中々定着しなかったものの、妥協なきメンバー探しの末、やっとプロ志向のメンバーが集まりました。

初めてかっちり合うバンドの音。

初めて利用した本格的なスタジオ。

初めてオリジナル曲をバンドで演奏する感動。

ギターを背負ってバイクに乗って、毎週スタジオリハーサルに行く日が待ち遠しく、楽器を持たずに集まるミーティングも、全てが熱く楽しい日々でした。

そして、何度も練習を重ね、いよいよライブハウスでの初ライブ!

オリジナル曲とコピー曲を混ぜた演目による初ライブは、最高に気持ち良く、それまでに味わうことのなかった高揚感に包まれました。

初ライブの快感と緊張感は今でも覚えていて、音楽で生きて行きたい!という気持ちが、更に高まる一日となりました。

2.1500人規模のホールライブ

初ライブから数ヶ月後、当時通っていた楽器店の店長から、ホールライブのお誘いをいただきました。

人生2回目にして、1500人規模のホールライブはそうそうできる話ではない。

もちろん、有名なバンドが出る訳ではないので、1500人を埋め尽くすことは困難な話。

その分、各バンドの演奏時間を短くすることで、出演バンドを多くし、極力全バンドには動員を頑張ってもらうという内容で、若いバンドに大ホールライブを経験させてあげたいという、店長の粋なはからいでした。

「出演させてください!!」

断る理由はありませんでした(笑)

実際のホールライブは、これまでに経験したことが無い解放感で、過去にホールで行ったピアノの発表会とは、一味違う感覚に包まれました。

残念ながら、その2回目のライブを経て脱退したメンバーもいたけど、活動を止めている場合ではなかったので、再び3人に戻って創作活動をしつつ、メンバー探しを始めました。

初期投稿では、ホールの収容人数を2000人と書いておりましたが、のちのち調べたところ1500人収容のホールでした為、数字の訂正をさせていただきました。
25年前の記憶はあてにならないです、すみません(苦笑)

3.新たなメンバーとの出逢い

新メンバーを探している中、自分に会いたがっているバンドマンがいるという情報を楽器店の店長から入手しました。

どうやら、同じ様にプロ志向で活動をしているが、メンバーが集まらず足踏みをしているらしい。

相手方のバンドのメンバーは、ドラムとギター。

すぐにコンタクトを取らせてもらうことにしました。

後日、楽器店に全員で集まり顔合わせミーティング。

これまで出逢って来たバンドマンとは、明らかに志向も思考も違うことが分かりました。

この時点でツインギターとして活動して来たメンバーは、丁度ベースに転向したいという話もしていたので、パートチェンジを経た上で、全員で課題曲も決めて後日スタジオで試すことに。

『面白いことになりそうだ!』

根拠はないけど、この5人なら面白いことができる!そんな期待を膨らませていました。

4.新バンド結成

スタジオ当日。

実際に音を出したら、今まで演奏した同じ曲のクオリティーも、今までと違うモノになっていることが分かりました。

このセッションの時間を経て、合併という形で新たなバンドの始動です。

やるからには本気。

曲は、全てオリジナルのみで勝負。

バンド『TIARLIS』としての活動をスタートさせました。

まず一発目のアクションは音源制作。

初めて経験するスタジオレコーディングは、何もかもが新鮮で緊張もあったけど、何より自分達の作った音が商品化できることにワクワクしました!

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当時、CD制作は高額で気軽に作れる物ではなく、カセットテープが生きていた時代なので「デモテープ」という形で商品化しました。
(当時はインディーズバンドのデモテープがたくさん出回ってました)
量産はメンバーで手分けして、自宅のオーディオを使ってマスターCDからカセットにダビングするアナログ方式手。
名刺代わりという事もあり、1曲入りの作品でしたが、当時はこれを作るのに総額30万近く掛かりました。
また、パソコンが家庭にあることは一般的ではなく、こんなシンプルなジャケットでも業者に頼むと結構高額な時代でした。

5.インディーズデビュー

デモテープ完成後は、プロモーション活動にも力を入れて行きました。

メンバーのドラムが、地元で一番大きなCDショップの店長と仲が良く、作品を店頭に並べて販売してくれるという話をいただいたので、早速出来上がった作品を持って挨拶に。

すると、ライブが出来るスペースもあるので、そこで発売記念ライブをしないか?というお誘いもいただきました。

早速デモテープが店頭に並べられ、当時は地元のインディーズバンドとして売り出しているバンドが少なかったこともあり、話題性だけでもテープが売れていました。

毎日の売れ行きを確認しに行くのも楽しく、更にプロモーション活動に力を入れる為、ポスターとチラシも作りました。

今でこそ、自宅のパソコンで簡単に作れますが、当時は自宅にパソコンが無く、その手の物は業者に頼むのが一般的でした。

その後は、できあがった広告物を町中を歩き回って配ったり、様々な店とコンタクトを取って貼ってもらったり、地元のラジオに出演させてもらい、生演奏でプロモーションしたり!と、着実にPR活動を進めて行きました。

地元では少しずつ名前が知れ渡る様になり、ライブをやる前から知らない人に声を掛けられる様にもなりました。

そして迎えた、CDショップでのライブ当日。

『TIARLIS』の初ライブは、ライブ活動をしていないにも関わらず、話題性だけで80名位の動員がありました。

全て手作りで、憧れていた世界が一つずつ実現して行く喜び。

セルフプロデュースの楽しさを知り、同時にプロモーション活動の重要性を知る機会にもなりました。

6.初の野外ライブ

インストアライブ直後、再び楽器店の店長から、YAMAHA主催の『TEENS MUSIC FESTIVAL』という、いわゆる10代のバンドだけでブッキングされる、バンドコンテストがあるので出てみないか?というお話をいただき、出場することを決めました。

このイベントは、部活のシステムに似ていて、まずは市の大会があります。

審査員は、3名位のプロミュージシャンが審査してくれる本格的なコンテストでした。
(この時はゲストに『夏の日の1993』という、当時オリコンで上位を獲得した曲が代名詞のユニット『class』さんなどがいらっしゃいました)

バンドの総合力で点数が加算され、1位のバンドは県大会に進み、そこを勝ち上がると更に関東大会、全国大会へと駒を進めて行くイベントです。

『TIARLIS』としては2回目のライブで、初の野外ライブとなりました。

結果は...

バンドとしては敗退、各パートのベストプレイヤー賞として、僕が『ベストギタリスト賞』をいただく形となりました。

この時は、嬉しさもありましたが、バンドで勝てなかった悔しさの方が勝っていた記憶があります。

7.歌

野外イベント後、自分の中に少しずつ違和感が芽生えはじめました。

“自分の書いた曲を自分で歌いたい”

心のどこかで、そう思う様になっていたのです。

当時から歌も好きで、新曲をメンバーに聴いてもらう段階での仮歌は、自分が録音していました。

また、楽器店の店長にも新曲を作る度に持って行き、意見や感想などをもらっていました。

そんな感じで、次のバンド活動が決まらない中、新曲ができたのでいつもの様に店長に持って行くと

「だいぞうが歌った方が良いんじゃない?」

この言葉が返ってきました。

店長は、嘘を言わない人であることは分かっていました。

そして、ズバズバと物事を言ってくれる人で、その理由も全て話してくれました。

数日考えて悩んだあげく

『ソロで作品を出してみたい』

そう思う様になったのです。

後編につづく

8.おまけ(当時使用していた機材達)

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今はパソコンによる録音が主流ですが、当時はこの様なマルチトラックレコーダー(以下MTR)が一般的でした。
初めて買ったMTRは、カセットテープを使用してレコーディングを行う物で、音数を増やす程に音質が劣化して行くこともあり、商品として出すことはできず、メンバーに新曲を聴いてもらう為のデモテープ制作として使用していました。

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当時使っていた、エレキギターで色々な音色を出せる様にする、マルチエフェクターです。

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こちらはリズムマシーン。
曲を作る時のドラムは、これで全て打ち込んでいました。

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当時、ドラムにも興味があり、この様な練習パッドのフルセットを部屋に置いて叩いていました。



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