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事務所に所属したあとの活動

こんにちは。

『音楽家として生き続けること』を永遠の課題としている、だいぞう(坂本大蔵)と申します。

前回はストリートライブや、野外イベントに焦点を絞って書いた為、ヒストリーの時系列が飛んでしまいましたが、ここでは時間を巻き戻し、今回は事務所加入後の話から進めて行こうと思います。

・・・

1.事務所に所属

上京後、しばらく活動を重ねて行く内に、RED-Zoneのオーナーから

「『Daizo』を売り出す為のレーベル兼、事務所を立ち上げ、あらゆる面でサポートをして行きたいと思っているんだけど、どうだろう?」

そんな、ありがたいお話をいただきました。

条件としては

今後の楽曲制作や活動方針において、基本的には変わらず僕が制作、考案したものをベースとするが、内容によってはクオリティーを上げる為の口出しはする。

というものでした。

僕のメリットとしては

・音楽活動においてかかる経費は全て事務所負担

・サポートメンバーのギャラも負担

・所属料として10,000円を毎月支給

というものでした。

活動においての売上は、僕に入る金額が10%、事務所が90%という割合でしたが、ソロスタイルでバンドの様な活動をして行くには、莫大な経費が掛かることは熟知していました。

一見、この割合だとアーティスト側が不利に見えますが、妥当な数字だと判断し、精力的に活動して行く上ではメリットの方が大きく、何より活動に集中できる環境はとてもありがたい条件でした。

何より、上京前から僕の楽曲を聴いてくれていたし、上京後の活動もちゃんと見た上で判断してくれたので、信用もありました。

上京してから半年、レーベル兼事務所は会社として登録もされ、僕は『クリスタルビッグレコード』というレーベルの第一弾アーティストとして契約をし、活動して行くことが決まりました。

事務所設立の決定打となったのは、上京後に作ったこの2曲が社長にとって面白かったらしく、所属後にはすぐにこのCDのリリースが決定し、レコーディングが初めての仕事となりました。
今聴くと、荒削りで音質もアレですが(笑)
漂流舟』は、上京後に一歩間違えたら漂流しそうな生活の中で描いた曲で、特にこの曲が刺さった様です。
※『漂流舟』は当時レコーディングした音とは異なり、荒々しさを強調する為にリミックスした音となります。
キミだけの向日葵』は、一つの愛情表現をテーマに書いた曲です。
この曲を初ワンマンで演奏した時、ファンの方々がサプライズで造花の向日葵を持参してくれて、会場にはたくさんの向日葵が咲き感動しました。

「絵も得意なら、ジャケット絵も描いてみては?」
社長からの案で、2曲のイメージを描きジャケットにしました。
両曲A面扱いとなる、Wシングルとして発売しました。

DMを登録していただいた方には、年賀状の発行もしていました。

2.アーティストと事務所の関係性

『アーティストと事務所』

これについては、この業界にいると様々な話を聞きます。

中には、契約したら搾取だけされ続けて、一向に売り出して貰えない!なんて話も、少なくありません。

今は、時代の変化と共にこの関係性も変わって来たことと思いますし、個人でも売り易い時代になりました。

もしこれから、事務所との契約を考えているアーティストの方は、十分調査してから契約されることをおすすめします。

この話については、ワールドスケープ社代表 海保けんたろー氏が、とても役立つ情報を発信されているので、ご興味ある方は↑のリンク先をご覧ください。

ちなみに、海保けんたろー君には、以前僕のソロプロジェクトにドラマーとして参加いただいていた時期もあり、当時の潜在写真にもしっかり写っていただいてます(笑)
早い時期から音楽で生計を立て、音楽業界に革命を起こそうと活動し続けている起業家です。
※チラシの活動名義が変わっていますが、その話はまたこの後で。

3.ブランクからの脱却

初ワンマンに向けて活動を進めて行く中で

『ファンと一体感が持てる楽曲制作』

このテーマで、制作を進めていた時期の話です。

ストリートライブも継続している中で、一瞬で人を巻き込める様な曲ができたら、今後の武器になる!と考えていました。

色々なバンドのライブを見たり、ボイストレーニングにも通い始めていた時期でした。

あれこれ参考にしつつ、自分の中で消化してはアウトプットの繰り返し。

しかし、中々しっくり来る作品が作れませんでした。

そんな中、これまた事務所の社長案で

「息抜きも兼ねて、沖縄に旅行へ行こう!」

と誘っていただき、沖縄へ飛びました(笑)

初の沖縄はとても心地良く、慌ただしい日々を送っていた僕にとっては、とても有意義な時間となりました。

沖縄を数日満喫したのち、社長はまだ沖縄に残るというので、一足先に東京に戻った僕は、帰宅してすぐに沖縄の背景をテーマとした楽曲『般若笑島』を描きました。

結果、この楽曲はライブで一体感を生み出し、ストリートでは通行人を巻き込む起爆剤となり、すぐにリリースすることにしました。

社長、ファインプレー(笑)

上記の動画は、制作から何年か経過したのちにリメイクした音源となります。
コーラスには、総勢20名のミュージシャンが参加してくれてます。

右の絵が、『般若笑島』のジャケットの原案として描いた絵で、この絵の背景に沖縄で撮影した風景を合成しました。
左は『漂流舟』の原画案の内の一つです。

『般若笑島』のカップリングとして収録した『オトギの裏』は、自主制作ソロ一作目となる『aim』にも収録した曲で、これを再度レコーディングして収録しました。
事務所の社長は、僕の上京前にこの曲を聴いて『面白い!』と感じてくれ、声をかけてくれた様です。

4.活動名義の変更

ソロ2度目のワンマンライブを終えたあとは、『ソロだけどバンドスタイル』という見せ方を、毎回初見の人に伝えて行くのはいかがなものか?

この理由から、バンドスタイルでの活動名義を『Daizo』から『Daizo with INFINITE INVADER』に変更しました。

元々、『無窮』というテーマを掲げて活動していたので、これを英訳して『INFINITE』とし、これからこの世界を侵略して行くぞ!という意気込みから『INVADER』を付け加えました。

とりあえずバンド名が長いので、ファンの方からは『インベーダー』と呼ばれていました(笑)

2度目のワンマンに向けて作ったテーマ曲
Desperately ~なりたいものがあるならば~

『Daizo with INFINITE INVADER』として活動開始した立ち上げメンバー。
現在『UNCROCKLOVER』として活動している頼田陵介氏は、当時は第2弾アーティストとして、同事務所に所属していたこともあり、お互いのソロプロジェクトをサポートし合う関係性でした。
(僕はドラムとして参加させていただいてました)
当時、東京で出逢った人達の中で、心から信頼&気心知れた友人は彼だけだったかもしれません。
リハーサル帰りは、屋台などで2人で一杯やるのが日課でした(笑)

メンバーは徐々に増え、この活動名義での最終形態は7人となり、どのメンバーとでもステージに立てる状況を作りました。

弾き語りライブを行う時は『Daizo』として、名義を使い分けて活動をしていました。

5.最後に

今回は、事務所に所属した後の話を中心に書いてみました。

アーティストと事務所は、WIN×WINの関係性であれることが望ましく、結果アウトプットしたコンテンツで、ファンの方に喜んでいただければ、3WINになれると考えております。

ただ、当時はがむしゃらに活動していたので、覚えていないことの方が多いかもしれません(笑)

高校の学園祭に出演させていただいたり、雑誌のインタビュー、音楽雑誌のコラム掲載、ラジオ出演など、活動に繋がることは何でもやりました。

また、当時はモバイルサービスで『着うた』というコンテンツもあり(Youtubeがモバイル端末などで見れない時代の話)、ハドソンで配信された僕の楽曲が『5週連続で1位と2位を独占!』なんてこともありました。
(ライブでめっちゃ宣伝していた効果ですね)

いやはや、懐かしいです。

さて、次回はプライベートで起きたことをきっかけに、更に変化して行く活動!をお届けしたいと思います。

皆さんの毎日が、心豊かなものになります様に。






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