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儀式の話

 僕は友達が少ない。こんな文章を書くような奴に友達がたくさんいてたまるか、と読者同志諸君もお思いだろう。しかし申し訳ないながら友達の幅は広い。大学の頃から僕の周囲にはそれぞれの属すべきとされるコミュニティから流れ出した流れ者、ハグレ者、ハミダシ者が集まってくる。まあ奴らにとっては僕の方が彼らの友達の1人なので、僕が彼らにとって唯一の常識人という可能性も捨て切れない。あえて類は友を呼ぶ、という表現は避けることにしよう。
 そのうちの1人、かつて僕の大学に留学していたスペイン人の友達と今日久しぶりにメッセンジャーを通して話した。簡単な近況報告の応酬でも海と大陸と時間を超越して思い出し合う友達がいるというのはいいものだ。日本語とスペイン語(の主に教科書には決して載っていない表現)を教え合っていた日々が脳裏に浮かんだのと同時に、点過去・線過去という僕がかじってきたいかなる言語にもなかった概念に強烈なタックルを食らいスペイン語の勉強に挫折した苦い味もしっかり思い出すあたりが僕のペシミスティックさを表していると思わないだろうか?そして、それをネタにして文章を書き出そうとする僕のオポチュニスティックさも?
 これから書くのは線たる僕の思考を現時点で切り出した1つの点だ。2019年の旅行からテーマとして考え続けていることのごく一旦だ。色々なところで書いたり話したりしているのでもうすでに聞いた人もいると思う。これから何度も話すことにもなると思う。すなわち、新部族主義と儀式の話だ。まだまだ考え途中、フィードバックが欲しいなどと言う気はないが、まあ僕が新部族主義だ儀式だと話し出したら一瞬で話題を変えようとせずにちょいとだけでもノっておくんなさいよ。

 さて、こんな状況である。友達とは直接会わずネット上で会話することが増え、映画館に行く代わりに家の小型プロジェクターで映画を観る日々が続いている。いや、嘘をついた。こんな状況になる前から映画館にはあまり足を運んでいない。白屋襤褸の文系クズレにチケット代1800円プラスポップコーンと飲み物代はちょっと痛いというのもあるが、何よりも僕の奇妙な自己防衛規制が強くはたらいているからだろう(それにしても映画館のポップコーンはなぜあんなに美味しいんだ?変なモノでも入っているのかしら?)。
 映画は好きだ。子供時代にテレビがなかった僕にとって娯楽メディアと言えば本、ラジオ、そして映画だった。映画が好き、というと少し語弊があるかもしれない。僕は映画を観ることが好きなのだ。エンドロールが流れ出してノビをしながらあー、おもしろかった!と言うのもあー、つまんなかった!と言うのも僕にとっては等価値なのである。もちろん、素晴らしい映画というのはある。しかし、と言うかだからこそと言うべきか、僕はB級Z級ジャンル映画やクソ映画を好んで観る。なんの期待をしないで観れば失望もしない。つまらない前提で観ればつまらなくてもあー、つまんなかった!とノビができるし、面白ければミッケモンである。こんなクソ映画をきっちり最後まで観た!といういわゆる実績解除感もあるかもしれない。
 逆に前評判の高い映画や個人的に期待している映画はどうも後回しにしてしまう嫌いがある。ピカピカおニューのスニーカーをおろすのは特別な日にしたいのと同じように、期待した映画を観るのはまだ今日じゃない、今日はその日じゃない、なんて考えてしまう。挙句その日を待っているうちに上映期間が終わってしまう。そうなると今度はお目当ての映画を観逃してしまうストレスから逃れるために、新作映画の情報をなるべく入れないようになる。何かしらの運命的な瞬間を待ち続けた結果後になって後悔するのは映画に限らず僕の悪い癖だと思う。実際のところ今では大好きで何度も観返す映画たちも映画館でかかっている時には観れていなかったものも多い。

 というわけで家でなるべく知名度の低いホラーやSFのウンチ映画ばかりを観る僕だが、先述のように映画に対するハードルは極めて低い方だ。そもそも映画にはヌキどころというやつがある。これさえカバーしていれば大満足。プロット、メッセージ、世界観といった線的要素。キャラクター、絵作り、プロップといった点的要素。前者を持ってして素晴らしいと言いうる映画を見つけることはなかなかの観賞量を必要とする。しかし後者の点的要素に関しては、僕の好むジャンル映画を観散らかしていれば案外簡単に充足される。だから、全体的に僕の観賞後の満足度は高い。
 具体的に言おう。僕を満足させる映画内の点的要素とは、異形の怪物、(時に前者を模した)被り物やマスク、そして(主に前者2つが主体及び客体となる)アヤシイ儀式だ。

 昨年(2020年)、前年(2019年)に他界した祖母の家でVHSをかつて子供時代に何度も観た映画、『インディ・ジョーンズと魔宮の伝説』を久しぶりに観た。映画自体の政治的正しくなさやそれすら含めた面白さ、僕の食に対するよく言えば寛容な、悪く言えばゲテモノイカモノどんと来いな態度や嗜好に少なからず影響を与えたであろう宴会のシーンは全く色あせず素晴らしかったのだが、何よりも中盤、主人公たちが目撃する邪教タギー教の生贄の儀式のシーンには改めて目を見張った。薄暗い洞窟。炎の光が舐め回す骸骨や異形の神が並ぶ祭壇。鳴り響くドラムと一心不乱に祈りを捧げる上裸の信者たち。以前Facebookの投稿にも書いた通り、この儀式のシーンを僕は強烈に内面化していたらしく、小学生の頃には弟と2人風呂上りに全裸で儀式を再現して遊んでいたし、今でも数多い無意識の独り言ラインナップの1つは映画内で邪神とされるカーリー神を崇める祈りの言葉だった。
 異形のメイクや仮面をした野蛮な連中が火を囲んでズンドコズンドコなドラムの音にキャッホキャッホと狂乱状態になる。たとえプロットやキャラクターがどんなにお粗末でもこれさえ観られればその映画は僕にとって百点満点だ。文明崩壊後の世界だったり、あるいは実際に悪魔や異形の怪物が出てくるとボーナス点がつく。恐怖映画の楽しさ、登場人物への感情移入とは少し違う喜びと、ちょっとした実存的な不満。ただただ羨ましい。僕もその一員になりたい。僕も心から邪神や悪魔や怪物を崇拝し、アヤシゲな儀式に心から身を投じたい。しかし残念ながら、僕は21世紀の日本に暮らしている。

 一昨年(2019年)の夏、僕はドイツはポツダムのパンクライブに連れて行ってもらった。転がり込んでいたベルリンの友達の家から電車で1時間ほど。並べてみればTKA4が新築に見えるほどボロボロの廃墟の半地下にライブハウスはあり、路上には数週間どころか数ヶ月は風呂に入っていないパンクスたちがタムロしている。居候先の友達の友達がやっているバンドはDie Krausesといった。クラウス一家、クラウスさん家、といった意味だそうだ。皆が着ているTシャツには不敵を通り越して不気味に笑う男の顔がプリントされていたが、バンドのメンバーを見渡しても同じ顔の人はいない。彼こそクラウスその人で、ケバブとビールとマリファナのニオイでポツダムの通りを浄化するパンクスコミュニティの中心となる人物だった。
 アイルランド旅行から直接帰ってきたというクラウス君は巨大なバックパックを背負ったままビールとジョイントを交互にあおり、真っ赤な顔ともっと真っ赤な眼球を僕の顔10cmまで近づけ何度も「ムギワラノ〜〜〜!」と叫んできた。いや、何度も叫んでくれたおかげでようやく麦わらと聞き取れたくらいで、ひょっとしたら何か別のことを言っていたのかもしれない。なんにせよコロナが本格化する前で本当によかったと言っておこう。
 ライブが始まっても彼はステージには上がらず客席のど真ん中でフラフラしているだけだった。マイクを握るわけでも先陣を切ってモッシュをするわけでもない。むしろバンドやイベントのオーガナイザー、ひいてはコミュニティのまとめ役となっているのはDie Krausesのベースを担当するお兄ちゃんだ。彼は何度となくクラウス君に話題を持っていき、その度に周囲はクラウスコールで盛り上がる。当の本人はやはり変わらず輪の中心ででっかいバックパックを背負ったままニコニコフラフラしている。老若男女(文字通り子供からフラッと立ち寄ったおばあちゃんまでがいた)が時間と空間を共有し、ビールやマリファナといった薬物や音楽を用いてトランス状態へと手に手を繋いで飛び込んでいく。ドイツ語がわからない僕でもわかった。これは儀式なのだ。火が電飾に、ドラムがバンドに、呪言が歌詞に変わっていても、これは人間が太古の昔から繰り返してきたアヤシイズンドコな儀式なのだ。

 抽象的な崇拝概念を具象世界まで引きずり下ろして交流する。そのために音楽というのは極めて興味深い中間的立ち位置を占めている。音楽は確かに空気の振動という形でそこに存在する。しかし手で触れることも、物質的に保存することはできない。言うまでもないがCDやレコードは音楽そのものではなく、その情報を記録する媒体にすぎない。それが人間にこれだけの影響を与える。このポツダムの場合、抽象的な崇拝概念が人の形を借りてあの場に降りてきたのがクラウス君だ。しかしソレはステージの上には立たない。ステージに立つのはバンドだ。祭祀、シャーマン、聖職者、酋長たるベースのお兄ちゃんを始めとしたDie Krausesのメンバーだ。そして彼らは自らではなく、酔いとハイの仮面により神話的抽象概念を体現したクラウス君を指し示す。その熱狂を現出させ、コミュニティの接着剤として機能するのは両者の中間的存在、パンクロックという音楽だ。儀式とは、あるコミュニティの構成員たちが、同時に、同じ空間で、強烈な忘我的状況に陥ることだ。線たる人生において、仮想的な死たる点を擬似的に生み出す行為だ。この自失から我々はコミュニティを内面化し、その結びつきを確認する。よくパンクバンドがメジャーデビューをしようとする際に「売れ線に走った」と言って古参のファンから非難されるが、これも音楽や金銭的関係を超えて、そのコミュニティ性から来ることだと思う。

 こう書くとなんだか儀式が素晴らしいものに聞こえてくる(のはあるいは僕だけ)かもしれないが、もちろん負の側面もある。すなわち、この感情装置を駆使すればコミュニティを一定のドグマの支配下に置ける、ということだ。小規模なカルト宗教の儀式は言うまでもないし、その最たるものは近代オリンピックであると例に上げざるを得ない。なぜ、擬似的なコミュニティである国家によりチームを分ける?なぜ、観客を入れる?なぜ、国家というチームを並びあげ、観客を入れ、有名ミュージシャンを集めた開会式及び閉会式を行う?
 主従逆転。コミュニティがあってそれが結びつくために奉仕させられる装置たる儀式、から、儀式をでっち上げることによってパロディ的なコミュニティたる国家を結び付けようとする。近現代的なオリンピックは常に国境線の明確化と歴史を共にしている。

 コミュニティの儀式機能は文字通りの宗教儀礼を通過し、国民国家最盛期である20世紀になって映画がその役割を買って出た。同じ街に暮らす人間が、同じ時間に同じシアターで肩を並べ、同じスクリーンに見入って同じ強烈な感情を共有する。生贄という生と死を司る機能は映画のクライマックスへと転用される。読者同志諸君もデートで映画に行ったことがある人が少なくないだろう。もちろん話題提供のためだったり、間が持たなくならないようにという側面もあるとは思うが、無意識に映画の持つ儀式的観点を認めていたからだ、と言ったら僕が言い過ぎていることになるだろうか。
 そしてこの映画の持つ儀式性は僕なんぞがチミチミ言うまでもなくとっくにプロパガンダのプロフェッショナルたちは理解していた。だからこそ、リーフェンシュタールはゲッベルスの命を受け、国民国家の擬似儀式装置たるオリンピックを1936年のベルリンで、20世紀の儀式装置たる映画に焼き付けたのだ。

 しかし、我らが暮らすは21世紀。僕たちは神話、ひいては物語を喪失した時代に生きている。僕たちはもう信じるという行為をメタ視点なしに内面化することはできない。国家も宗教も神話も、僕たちは自分たちの外部のものとして捉えている。『魔宮の伝説』のVHSを録っておいてくれた祖母の葬式は浄土真宗に則って行われ、驚くほどアヤシゲな儀式的要素に満ちていたものの、それを内面化していない僕には単純な事務作業、良くても感傷的な儀礼的行為でしかなかった。ガイコツとロウソクの並ぶ祭壇と鳴り響くドラムでもあった方がよっぽど祖母の死を内面化できていたはずだ(と思うのは家族の中でも僕だけだと思うけど。念のため)。いや、ひょっとしたら読者同志諸君には国家や宗教や既存の神話を内面化している人もいるのかもしれない。それならアナタはよっぽどの幸せ者だ。僕もあやかりたいものだ。
 20世紀の儀式装置だった映画ですら、この状況下では完全に個人で鑑賞するものになってしまった。名も知らぬ隣人はおろか友人や同じ屋根の下で暮らす家族とすら同時的な鑑賞体験をシェアしないのだ。いや、この儀式の喪失が耐えられないからこそオンライン同時上映祭りなどが企画されているのかもしれない。何も信じられない、神話、儀式、そして物語が失われつつある時代だからこそ皆必死にしがみついているのかもしれない。国家という幻想に。カルト宗教に。ネオリベラリズムがでっち上げた、政治的な正しさという消費資本主義に。カルト映画という言葉があるが、以前であればカルト映画とされていたような作品がメインストリームなヒット作に名を連ねているように感じるのは僕だけだろうか。カルト宗教そのものを描いていたかどうは別として、儀式の喪失と、祝祭による物語の復権を描いた『ミッドサマー』がヒットし、その同時上映会が盛況を博すのもムベなるかな、である。

 オンラインライブ配信も、ズームを駆使した飲み会も、メッセンジャーのビデオ通話でする乾杯も何かが違う。僕たちは同じ時間だけでなく、同じ空間をもシェアしなければ儀式を成立させ得ない。僕たちがTKA4で行うささやかなパーティーやイベントが思った以上に僕たちのコミュニティをコミュニティたらしめる儀式として機能していたということに、こんな状況になってようやく気がついた。僕たちは同じ儀式に基づく、マフェゾリが言うところの部族だったのだ。
 これに自覚的になった以上、そして信じられるものがなくなった以上、僕たちはでっち上げなければならない。線の中の点を煌めかせる新しい儀式を。新しい神話、新しい物語を。僕たちは部族だ。少数かもしれない。しかし僕たちが求めるは僕たちだけの神話、僕たちだけの儀式、僕たちだけの物語を掲げるネオ・トライバリズム、新部族主義だ。部族主義への回帰は左右問わず見られるし、その野蛮性への憧憬は先日のアメリカの議事堂において現実のものとなった。酔いどれの予言と聞き流してもらって構わないが、20世紀的左右のアウフヘーベンを経つつある21世紀の弁証法は新自由主義と新部族主義の衝突となる。ああ、しかし悲しいことにこれを書き続けるためのビールがもうない。新部族主義については次回、あるいはいつか気の向いた日に書くことにしよう。その頃には、こんな議論は聞き飽きたものになってしまっているかもしれないが。

終わり。

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