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信仰と敬意の話

 「確信ある人間は必ず勝利する」。これは僕が浪人時代お世話になった世界史の先生の座右の銘で、僕の山川用語辞典にサインとともに書かれている。

 ....あ、いやいや大丈夫ですよオカルトもスピリチュアルもモチベーショナルもない毎度お馴染みグッダグダのヨイドレ文章です安心してください。なんなら真逆かもってもんでアヤシイもんじゃございやせん。ま、アヤシイ奴に限ってアヤシイもんじゃございやせんなんて言うものよね。アヤシイ奴のパラドックスだ。

 読者同志諸君、どうもお久しぶり。今日も元気に搾取されているかい?健康優良不良少年、もとい不健康優良不良おっさんの僕は今日も元気にビールを飲んでいる。
 さて、僕はどうやら勘違いをしていたようだ。以前書いたように、僕は「何か書き散らすこと」が好きだと思っていた。思考のハンドルから手を離し、ただキーボードを叩くアクセルだけを踏みつける。これが僕の好きなことだと思っていたし、恐らくそれは嘘ではない。しかし本質的には、僕が頭を捻らせ快感を得ようとしているのは「一見関係のない話を一本のテーマに沿って繋げること」なのだ。混合焼き鳥(なんてあるのか?)の串ウチみたいなモンだ。複数の肉を一本の串で刺し通す快楽。自慢ではないが、書くネタに困ったことはない。仕事中でも毎夜の晩酌中でもトイレで哲学しながらでもトリトメのない考えが頭の中で渦を巻き、雑多なオモイツキがメモ帳の罫線を清掃していく。問題はネタのインスピレーションではなく、複数のネタを筋を通しながら繋げる串、キーワードがなかなか浮かばないということなのだ。そんなものだからネタメモばかりが黒く染まり、いざ撒き散らす記事へとなかなか結実しない。「面白くなりうる」というシュレディンガー的煉獄に留まりたい。ここで完成!ついに完結!てのが怖いのだ。おまけに道草横道が妙に楽しいもんで目的地へと到着できない。
 そんなわけで、僕は8年在籍したあげく大学を中退した。

 中退した大学ではアラビア語を専攻していた。噂によれば現在では学部も増えたり多様化したりしているようだが当時は大学全体でも学部は外国語学部しかない専門学校に近い形態の大学で(授業自体は基本的にいわゆる文系分野がメインとは言え一般的な総合大学とそこまで変わらないものも多くあった)、所属も外国語学部のアラビア語専攻だった。
 言語を学ぶとなればその言語の背景にある文化、習慣を学ぶことは避けて通れない。いや、純粋に言語学的に言語を分析するとなれば可能なのかもしれないが、それは言語習得とは少し違った種類の学習であって僕はそちらを通っていない。なにせ僕にとって言語を学ぶ最大の理由は「世界中のヘンチクリンなヤツらと仲良くなりたい」という極めてマットウかつフマジメなものだからだ。なので話される地域が国境を越え圧倒的に多いアラビア語を主専攻語に、同じく国境を越えて話されるスペイン語を副専攻語に置いた僕はなかなか首尾一貫立派なものだったと思う。後に誰かと仲良くなるには英語と、相手の言語で4つのフレーズ(挨拶、感謝、要求、悪口)が言えればおよそ十分であるということを学び僕は苦笑いで人生の選択を振り返ることになるのだが。
 とにかく、言語を学ぶとはその土地の文化を学ぶことであり、言語を習得するとはその土地の価値観を(表層的であれ)内面化することである。当時からアラビア語を学習していることを伝えると「イスラムでしょ?テロでしょ?危なくないの?」と大真面目に聞かれることがあった。ニッポンってサムライとかいう首狩り族の野蛮人が跳梁跋扈する戦国地でしょ?危なくないの?並みにクソピュアな偏見と無知にウンザリしていたが、実際のところアラビア語とイスラム教が切っても切れない仲であることは否定しえない。語学とは別に専攻必修科目には地域学習としてイスラム教についての授業も当然あったし、なんなら語学の授業中にも宗教的な要素が言語を通して入り込んでくる感覚はあった。
 ある程度言語を流し込み、実際にアラブ人(=イスラム教徒とは限らないことには注意が必要)の友達ができてくると、疑問が浮かんでしまう。例えば授業では「御身に(神の)平安を」というフレーズを挨拶として学ぶ。あるいは相手になにかいいことがあった時にはただ「よかったね!」「すごい!」だけではなく「こいつは神の意思だ!」と付け足さなければならない。現実的には無論個人によるところがむしろ大きいと思うが、教科書的にはどうも他人からのネタミ、ソネミを極端に嫌がる文化があるそうなのだ。
 まあ、授業ではいい。一種のロールプレイングゲームみたいなものだ。あるイスラム教徒に成りきって会話の練習をしている。問題はダイゾウという一個人として彼らと接する際である。なにぶん僕はイスラム教徒ではないし、神や仏といった超越的存在を信じられない(信じない、ということではないがちょい下で後述します)。そんな僕が、信徒に対して宗教的な言葉を吐いていいのだろうか。

 つまるところ、敬意の問題だ。自分が信じていない相手の教義に従うべきなのか?はたまた自分の内面的信条にどこまでも則って行動するべきか?相手を真に尊重しているのははたしてどちらだろう?

 僕は、あらゆる意味において体系的宗教を信仰していない。いや、正確に言うならば先にも書いた通り信仰できない。信じない、のではなく信じられない。自分の思考の奥の奥に潜り込み、核となりうる信仰、信念を探るに従っていよいよ僕の頭の中には疑問ばかりが渦巻いてしまう。要はストンとうまい具合に納得がいかないのだ。
 同じ理由で僕は無神論者でもない。神の不在を心の底から信じることはできないからだ。だからあらゆる方面から石を投げられつつも僕は不可知論者であり続けている。不可知論者となれば飲めるのはDr. Pepperのみなはずだが正直あまり好きではないので困っていると無意味な引用をしてみたが果たしてこんな文章を読む人はどうせSouth Parkが好きなんだろうニヤニヤしているんだろうと考えたりもするが本当にこの一文はいらなかったなごめんなさい。
 そんなこともあって(特に政治的な意味で)僕はSNSから離れている。左右保守革新を問わず、よくあそこまで事の正誤を信じられるなあと感心してしまうのだ。怒りは感じるし不満があれば疑問渦巻くまま直接的に行動はする。しかし疑問の論点、それを語る行間まである程度通じた友人同士ならいざ知らず、SNSでよく知らぬ相手に自分でも信じているのかわからない信仰をさらけ出し、あげく激論を交わすなんてマッピラゴメンだ。うらやましい、とは言わないが、なるほど信仰ある人とは強いものだ、と感心するのみである。

 順接か逆接かどちらが適当かはちょっとわからないが、自分でも気づかず内面化している(どちらかというと呪術的な意味での)信仰を探し、それを半ばスガリつくように強化している嫌いもある。例えば、誰に言われたわけではないが僕は「ハードドリンクとソフトドリンクの入り雑じる乾杯は禁ずる(ただしコーヒーはハードドリンクとする)」という謎の自分ルールを順守している。酒を飲む飲まない(飲める飲めない)によって誰かの人間性に優劣を設けているわけでは決してないが、それでも酒の持つ呪術性、あるいは迷信性から逃れられないのも事実なのだ。もし僕に乾杯を断られて気を悪くした人がいたらこの場をお借りして謝罪します。ごめん。
 同様の呪術性を僕は煙草にも見出だしている。黒猫も割れ鏡も梯子の下をくぐるのも一歩めが左足なのも寄せ箸も気にしないけれど、どうにも酒と煙草はダメだ。どこかしかで、「確実に身体に悪影響を与える物質をあえて自らの意思で取り入れている」という点に美学を見出し、相手を勝手に宗教的、呪術的な同胞と見なしているのかもしれない。


 古い古い思い出話をしよう。古いったってたった2年前だ。でもなにせ国境を(金とパスポートさえあれば)楽々越えられ、誰とどこでどんな具合に会うのにだって顔の半分を覆う必要がなかったことを思えば昔も昔、大昔の話だ。2019年の夏、スロヴェニアの首都リュブリャナ。ドイツに比べれば大分南に位置するスロヴェニアは確かに日中は照りつけるような日差しがあったが、太陽が重力に抗うのをやめてからは8月間近と言えど流石に肌寒く僕はTシャツの上に黒いパーカーをはおり、同じく黒いパーカーに身を包んだMJの運転する車の助手席に座っていた。ヨーロッパ滞在という意味での旅程はまだ1週間以上あったものの僕はこの後アヤシゲなアナキストのおっさんや最低でも数週間は風呂に入っていないパンクスと共にドイツまで再度北上する予定であり、親友と共にすごす時間は残り少なくなっていたこともあってMJは僕をリュブリャナの東、ちょっとした山を登った所にある彼の実家にまで連れ出していたのだ。
 「オオキイイヌ」「チイサイイヌ」とMJが教えたであろう謎の日本語で呼ばれる犬たちと戯れつつ数独を嗜む彼の母親が振る舞うコーヒーをご馳走になってからの帰り道、夏の日没が驚くほど遅いヨーロッパでも流石に真っ暗になった頃、道を跳ね回るカエルの数を数えるのはそのあまりの多さに早々に諦めた僕たちは90年代のパンクロックやユーゴスラビアの音楽に耳を傾けながらタワイもない話に興じていた。親友の親友たるユエンはいかにタワイもない話を永遠と続けられるかにある。リュブリャナの街の灯が遠くに見える中、突然MJはハンドルを切った。
 「パルチザンに会いに行こう」
 MJは言った。パルチザンとは第二次世界大戦中のバルカン半島において共産主義を理念としつつナチスドイツに対しゲリラ戦を行った武装勢力である。もちろん現在でも生存者はいるだろうが、今は太陽も沈み切った良い子ならとっくに床についている時間だ。なんのことかわからずも僕はこういうMJの極めて突発的な提案が好きなので、黙って運転中の彼のために煙草を巻くことにした。
 到着したのは「聖ウルリッヒの丘」と呼ばれる古い教会地だった。スロヴェニアはバルカンとは言っても北部に位置し、文化的にもオーストリアやイタリアと近しいため多数派の宗教はローマンカソリックとなっている。いつしか降り出した柔らかい雨を避けるために僕たちはパーカーのフードを被り車から降りた。街灯も観光地的ライトアップもない暗闇の中、教会自体からは少し離れた坂の上にMJがつけっ放しにした車のヘッドライトに照らされて2メートルほどの台座の上に立ち並ぶおよそ等身大の石像が現れた。ユーゴスラビア時代に対ナチパルチザン闘争を記念して作られたいかにも共産主義的リアリズムに則った彫刻は老若男女、職業階級を問わずイカメシくファシズムとの闘いに身を焦がしつつも、どこか悲しそうにこちらを見下ろしていた。
 第二次世界大戦中この教会はナチども(正確にはその指揮下にあったスロヴェニア対独協力部隊)に接収され、パルチザン(及びそう一方的に思われた市民)の収容、拷問施設となっていた。恐らく戦後、きれいに整備された敷地の隅にはいまだにボロボロのアヅマ屋(ちなみに僕は関東出身だがそれとは特に関係なく我が家はオンボロである。東国を貶める意思は全くない、念のため)があり、立入禁止の看板に阻まれつつ地下への階段が暗闇の中僕たち2人が掲げる携帯のライトを全て呑み込むべく暗く口を開けていた。拷問室だ。当時のまま残されているという。
 およそ禁止となればやりたくなるのが僕とMJであり、ヤンチャ自慢と揶揄されても否定できず情けないので深くは書かないが立入禁止と見ればそれを破るためだけに乗り越え入り込んでみたことは一度ではない。しかしここでは、自分たちの腰くらいしかない柵を乗り越えることが僕たちにはどうしてもできなかった。シトシトと降る雨は周囲の木々や木葉に当たり不規則な足音を奏で、緩やかに吹く風は阿鼻叫喚の叫び声を囁き続けていた。簡単に言えば僕たちはビビっていたのだ。幽霊といった類いの存在を信じているわけではない(もちろん不在を信じているわけでもない)。ただ、僕たちには僕たちの敬意があり、僕たちには僕たちの敬意の示し方があった。
 僕とMJはモニュメントの前に戻り、それぞれ煙草を2本ずつ巻いた。全てに火をつけ、1本ずつは自分で、もう1本ずつは像の前に並び立てた。タムケの煙草だ。自分たちの煙草の火に照らされて、地面に置いたタムケの煙草は雨に濡れて火が消えてしまったのが感じられる。僕たちは言葉を交わさずに煙草を吸い終え、車に乗り込んでその場を後にした。

 それから1週間後、MJと別れ怪しげな旅団に連れられて僕は中央ヨーロッパの都市を行脚した挙句ベルリンに舞い戻っていた。残り少ない滞在時間の中で、僕は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」に(スロヴェニアまで南下する前にも訪れていたため、正確に言うならば再度)足を運んだ。一面にコンクリートのブロックが2711基並んでいる。「聖ウルリッヒの丘」の時とは対照的に、真昼の太陽が照りつけコロナ全盛の今振り返ってみればもはや現実感を感じない数の観光客が辺りをうろついていた。僕はモニュメントの端で煙草を2本巻き、1本を石碑にタムけ、もう1本に火をつけた。僕の好みの燃えづらい紙ではあったが、流石に雨に濡らされていない煙草は微かに紫煙を浮かび上がらせ、僕の吐き出した煙塊のど真ん中を突き刺して空に伸びていった。
 2分も経ずしてヴォランティアの女性が駆けつけてきた。僕にドイツ語が通じないとなると流暢な英語に切り換え、「ここは禁煙です」と慣れた様子で僕に注意した。「オーケー、すぐ消します」と煙草を靴底で擦り消す僕に向かって、彼女はあくまでルーティーンといった具合で言った。「ホロコーストの被害者にきちんと敬意を持ってください。」僕が煙草の吸いさしを携帯灰皿にしまうのを見届けて彼女は踵を返し去っていった。
 敬意はきっと受け取る側が判断することなのだろう。どんなにこちらが敬意を払ったつもりでも相手がそう受け取らなければそれは敬意として成立しない。しかし、敬意を払う相手が物言わぬ死者である場合はどうなのだろう。第三者が介入し、死者を代弁し判別することはできるのだろうか。あるいは敬意とは所詮社会的な所作の問題であり、それを払う払われる当事者だけではなく周囲の人間を含めたコードが重要なのだろうか。
 彼女に腹が立ったわけでもなければ、その時「これは僕なりの敬意の示し方、僕の信仰なのです」と論を張るべきだったと思うわけでもない。なにせ僕自身ですらこの行為が何かしかの宗教的な強い意味を持つ、と信じ切れていない程度の迷信、「迷」子ちゃんが一生懸命「信」じようとしていること、なのだから。

 僕は自分がアナキストであると自認しているし、それなりに活動もしてきた。しかしどうしても乗り切れないのが、現在のキャンセルカルチャーだ。歴史とは負のものであっても文脈を付加しつつ残し続けるべきだ、という思いもある。ひどい事をしてきたクソ野郎の銅像なら「こいつはクソ野郎だった」という説明文付きで残すべきだと思う。しかしそれ以上に、現在の価値観を持ってして過去を裁くほど現在の価値観の正当性を信じきれないのだ。現在の価値観を持ってして過去を裁くには未来から同じく裁かれる覚悟が必要となる。僕は現在の正しさの延長上に、確実に未来の正しさがあるとはどうにも信じきれない(しつこいようだが、ないと信じているわけでもない)。ただ現在の自分の価値観を持ってして現在を見つめようとするのみである。

 つい先日、新宿駅で友人が主催した炊き出しにお手伝いで参加した。家、職場、遊び場(TKA4)が全て自転車圏内で完結している僕にとっては久しぶりの遠出だ。大量の焼きそばを抱えて新宿東口に出ると、友人たちの隣では「コロナはただの風邪」な人たちが街宣をしていた。貴重な休日日曜日、夕方とはいえまだ暑い中手弁当で熱心に街宣をしている彼らを見ると、ただバカにしてみたり笑い飛ばしたりはできない自分がいた。それこそ地球が丸いとか、自分のズガイコツの中には脳ミソが入っているとか、知識としては知っているつもりになっていても、信じていることとはどう違うのだろう。少しだけ、本当に少しだけ有神論者が無神論者を見る視点がわかったような気もしないでもなかったのだ(どうやら地球は丸いっぽいしコロナはおそらくただの風邪ではないっぽいんでみんな感染対策して気をつけましょうね)。

 そんなわけで最後は僕の愛するCharles Bukowskiの言葉を引用して終わろうかと思ったが、いくらなんでも自意識過剰というか、ボーストがすぎるので代わりにOperation IvyのKnowledgeという曲の歌詞を引用しておこう。Operation IvyとTim Armstrongについては以前記事にしているのでそちらを読んでくれ。


All I know is that I don’t know.
All I know is that I don’t know nothing.


終わり

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