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できない悔しさを乗り越えて

先日、利用者さんと話していて、僕が野球をやっていたという話で甲子園の話になった。
千葉だと木更津方面の学校が、今回の選抜には出る。
利用者さんが「やっぱり甲子園は良いよね」と聞かれた。
まぁいい場所であることに変わりない。だけど、今のいわゆる強豪校が甲子園に出て、優勝を目指す流れには一切関心が持てていない気がしています。

今から5年前まで、千葉県内ではそこそこ結果の出ている野球部でトレーナーとしていたし、プロ野球選手になるような選手とも関りを持てたけれど、満足感とか充実感を得たことはなかったに等しかったように思います。

なんとなく、その理由には“野球センスがある選手が結果を残す”ということが、業界の一般的とか常識的になってる感じがあるような気がするし、そういうセンスがある人達との関りには魅力を持てずにいたのかなと感じています。

じゃあ高校野球でどんな関りをしていきたいの?と問われたら、「純粋に好きであったり、関心のある野球に上手い下手関係なく懸命に努力人を応援したいし、野球部の活動を通して、人生にどう繋げられるかが大事だと思います。」と今までなら答えてきたし、昨日のその話題になるまではそう思っていました。

そこで思いました。後半の“野球部という活動を通して、人生にどう繋げられるかが大事”というのは、つまり“野球部の活動で何を感じ、人生にどう転用させていけるか”だということだと。そして、その“転用していけるか”というのは、身体的感覚の無意識の中に沁みこみ、刻み込まれている状態がいいのではないかと思いました。

そこで、では僕はどうなんだろうか?
野球を通して、何を得たのだろうか?

こんなことを、振り返ってみました。

・逃げずにやってみればできるようになること
・自分で決めたことは、責任が生まれ長続きする

という2点は、前から感じてきたことですが、よく振り返ると“純粋に好きであったり、関心のある”が僕の始める動機になることは、ありませんでした。
僕が物事を始める動機は、いつも“できない悔しさ”から生まれることばかりで、「できるようになりたい」と強く思うことから始まることばかりです。

だから、僕は“好きなこと”や“関心があること”に懸命に努力している人を応援したいというのは、間違っていたということになると思います。
正しくは、できるようになりたいと懸命に努力している人を応援したいんだと思います。

「できるようになりたい」と思っていても“できない”ときは、悔しさばかりでなく、立ちはだかる壁への恐怖も強く伴います。その2つの思いは、深く感じれば感じるほど、人に向けられたものではなく、自分自身に向けられているもので、落ち込み、そして恐れている弱い自分に、更に絶望感を感じたりするものです。僕の場合の、できるようになりたいけれど、その一歩が踏み出すことができないでいるその時の感覚は、こんな感じです。

僕は小学校から高校まで続けてきた野球を通して
できるようになりたいと感じていることを、できるようになるためには、そのことから目を背けることなく、自分の意志で決断し前に歩き出すことが大切ということを、体得していたんだと感じます。
また、スポーツトレーナーになりたいと感じた動機は、できるようになりたいと感じているけれど、そのことから目を背けあきらめかけている自分に、そっと寄り添ってくれた、フィットネスジムのバイトの方や、ケガをした時の理学療法士さんのように、目を背けあきらめかけている人にそっと寄り添い、そして「やれる!!」「できる!!」「やってやる!!」とご自身の意志で決断し、前に歩き出した人の背中をポンと優しく押してあげることができるスポーツトレーナーになりたいと体感的に感じてきたんだと思います。

ここに来て、少しずつ自分が感じていることが言葉にできてきている気がします。
スポーツトレーナーになってから、もう20年が経ちますが、僕はいつも脳裏で漠然とする自分の思いにモヤモヤしながら過ごしてきました。
「自分は何を追い求め、何をしたいのか」と。
もっと具体的にお伝えすることができればいいですが、日々人と関わる中で、自分自身の発した言葉や、行動を振り返り、“できるようになる人が増えていく”という結果もしっかり積み上げていきながら、価値をお示ししていきたいと思います。


僕の活動に関心を持っていただきご支援いただける方はよろしくお願いします。一人でも多くの人が心が弾むような生活が送れるように悩み事をひとつひとつ丁寧に対応していきたいと思います。がんばります!!