Week17: 言葉遣いが10割
この頃、「ナントカが何割」という文法のタイトルをよく見かける。
ちょっと前に「話し方が9割」というビジネス本が流行りまくった。その影響だろう。「話す内容いかんより話し方の方が実は大事なのですよ」とイチから説明するとくどくなってしまうメッセージをすっきりと10文字以内で効果的に伝えることに成功している。こういうのは、コピーライトオタクからすると痺れる、痺れる。
あやかって私も今回の投稿のタイトルを「言葉遣いが10割」などと言ってみたが、別にそこまで深い内容を含意しているものではない。普通に9割でもよかった。なんなら内心、6割くらいにしか思っていないけど、インパクトを盛りたい衝動に駆られてしまった。てへぺろである。
しかし、やはりこういうタイトルにするとグッと読者の目を引くのは事実で、なるほど言葉づかい/言い回しの重要性というものを感じる。
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言葉づかいの丁寧さというのは、服で例えるなら、スソの裁縫の丁寧さであったり、襟元がヨレてないことであったり、スラックスの折り目がパリッとしているようなものだ。料理で例えるなら、刺身を盛り付けるときのほんの僅かな角度、紅茶を淹れるときの最後の一滴(ゴールデンドロップというらしい)の切り方、ケーキを焼くときの秒単位の火加減のようなものである。そうでないものと比較したときに、どっちがどう違うかと聞かれてもパッと一瞥でわかるような違いではないが、そのささいな違いで全体の雰囲気というか印象はなんとなく変わる。
その僅かな差で、なんでもないものも上質に見えるし、逆に素晴らしいものが一撃で台無しになることもありうる。殊、言葉なんていうのは、対人コミュニケーションの根幹をなすものであるから、これが丁寧であるに越したことはない。が、これが雑な人が意外に多い。英語文化の合理主義の影響だと思うが、Aという内容を伝える目的があったとして、その内容だけ確実に伝われば良い、という考え方を支持する人が実に多い。それをハナから否定する気はないが、なんといえば良いか、例えば野球でいうなら、チームメイトに送球するとき、一番の目的は相手のところにボールが行き渡ることそれ自体である。が、どうせなら相手の胸元にボールが飛んで行った方が受け取る方も次のアクションに移りやすいだろう。そういう意味では、同じボールを投げるという動作でも効果が違ってくるはずだ。同じことで、言葉づかいも発話の目的をきちんと果たすのは前提として、それをスムーズに受け取ってもらうための工夫なのである。そんなわけで私は言葉づかいというものを非常に意識して日々過ごしている
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ヒコロヒーさんという女芸人がいる。彼女はnoteをやっている芸人の一人で、私がnoteを始めたきっかけとなった芸人でもある。彼女の書く文章は、単なる芸人のエピソードトークなのになぜか昭和の小説よろしく、やたらと丁寧な情景描写・人物描写の言い回しふんだんにされており、合間に挟まれるウィットに富んだボケが非常に読んでいて心地よい。人生でたくさん本を読んできたことがよく伝わってくるような文体で、私は非常に好みなのである。そのくせ、テレビなどで喋っているのを聞くと、大阪の南の方の女ヤンキーがコンビニでワンカップ片手にだべっているみたいな感じでそのギャップもまたいい。
特筆したいのはやはりその語り口だ。教養が垣間見えまくっていて、非常に良い。とにかく良い。前述の通り、私はコピーライトオタクなので、言葉の言い回しの機微にそこそこ敏感で、うまい言い回しをしている人を見ると「くぁあ〜やるなぁ」という意味不明の感嘆の息を漏らすことも少なくない。しかもそういうこまやかな文章が書ける人は、まじめな文体でしれっとボケてくる。それもまた良い。
YouTube、もといYouTuberが流行っている昨今で、お笑いの文化は急速に幼児化が進んでいる。かつてお笑いは立派な芸能の一つで、「洒落」すなわち気の利いた抜け感がベースにあった。「気の利いた」というのがポイントでこれは「洒落」を辞書で調べても出てくる説明だが、要は根底に教養があってそれを使ってうまいこと言う、という意味であり、それでいうと昨今のビジュアルとインパクト重視の雰囲気お笑いはいただけない。なぜか。受け手の感性が育たないからだ。受け手が赤ちゃんみたいに単発単発の刺激しか喜べなくなり、逆にスルメ的に楽しむ粋で渋いお笑いでは笑えなくなってしまっている。
余談だが、私の周りには言葉遊び的なお笑いを好む人が実に多い。というか彼らは彼らでちょっと異常笑癖なところがある。天竺鼠川原と野性爆弾くっきーダイアン西澤、なんかそれ系の人種である。昨日までなかったお笑いを毎日してくる。気を抜くと背中から刺されるような緊張感があって、早く友達を辞めたい面々ばかりだ。
何が言いたかったかというと、言葉づかいが極まれば、それ自体でエンターテイメントになり、自らが人生を生きる上で楽しみを増やすツールになるし、それだけでなく人を楽しませるツールにもなりうる。という話だ。
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なんかうまいこと言いたいことを言えていないので、このテーマは第二回を是非やりたいと思うが、言葉づかいの大切さを改めて強調することは果たせたとおもう。そして間接的に、言葉づかいということについて自覚的になってもらうきっかけにはなったのでは無いだろうか。
とにかく本はたくさん読むべきである。そして出来るだけ文章を書く機会をもたれることである。文章を書かせるとその人が本をどれだけ読んでこなかったかがバレるし、もっとストレートにいうとアホがバレる。ぶっちゃけ国語力の低い人で仕事ができる人は見たことがないし、国語力が高い人で人間力が低い人も見たことがない。国語力は人間力の源泉であるとともに、磨けば磨くほど、世界がクリアに見えて、ハードルを下げ、困難をいなす武器になり、この世界がグンと生きやすくなる。
あなたも言葉の使い方について一度、考えてみてはいかがだろうか。