パラリンピックについて語りたい気分になったからパラリンピックについて語ります。
どうも、和佐です。
これを書いているのはもう朝の4時23分。
Twitterを見てたらトレンドでパラリンピックについての記事が流れてきて、なんとなく色々とパラリンピックや障害者についての記事を読んでいたら、僕も何かを語りたくなってきました(笑)
完全に変なテンションなので、よもやま話として聞いてください。
ちなみにきっかけとなった記事はこれ。
https://www.asahi.com/articles/ASP8W6WWVP8WULEI002.html
有料の記事だったので無料部分しか読んでないけど、なかなか記事タイトルがセンセーショナルですよね?
僕は幸いなことになのか、なんなのか、車椅子に乗りながらも普通の中学に行って、普通の高校に行って、普通に中退することができたので、
「障害を持つ子供たちに接する機会を、健常者の子供たちに与えよう」
なんて発想を持つ大人たちと出会うことはありませんでした。
むしろ僕は逆で、同じ病院に入院していた「小児がんの子供達」だったり、今にも死にそうな難病を抱えた子供達と、少しだけ交流があったので、別に死ぬわけではない僕から見ると、彼らは
「死にかけていて、可哀想な子供達」
という感じに映っていました。
障害を持つ子供の僕が見て「可哀想だな」と思うわけだから、障害を持たない健常者の大人がみたら、その何倍、何十倍も「可哀想だな」と思うんでしょうね。
じゃあこれって「差別」なの?と。
僕は死にかけている子供たちを差別していて、さらに健常者は僕のような車椅子の人間も差別しているのか?と。
もっと言えば、「悲しいことを経験した人」を見て、「可哀想」と思うことや、「心配」をすることは差別なのか?と。
もしこれが差別なのだとしたら、僕らの日常はまさに感動ポルノに溢れていると言えるでしょうね。
だってそれって要するに、
「ヒエラルキーの上にいる人が下にいる人の同情している」
ってだけなわけですから。
世の中にはいろんなヒエラルキーがありますよね?
スクールカーストもそうだし、SNSのフォロワー数だってそうだし、年収とかもそうだと思います。
結局これって、
「どのモノサシで物事を見るか?」
という話で、モノサシは便利だけど、必ずヒエラルキーや上下を作ってしまうわけです。
例えば、障害者と健常者というモノサシでみたら、僕は健常者に劣っていると見えるでしょう。
「余命」というモノサシで見たら、子供のうちに死ぬ子は可哀想で、100歳まで生きる人は幸せだということになります。
「お金」というモノサシで見たら、貧乏人やホームレスは死んだほうがよくて、お金を稼いでいっぱい税金を払うほうが偉いってことになります。
どこかのメンタリストは、自分のモノサシで考えると「ホームレス」よりも「猫」の方がよっぽど大事で、生活保護に税金を使うなら、猫の保護に使ってくれと言っていましたね。
僕はこれって全部「同じ問題」に見えていて、結局、
「他人に自分のモノサシを強制するな」
ってことだと思うんです。
例えば、障害者に対して障害者というモノサシを無条件に適応するのはどうなのか?ということです。
確かに、そのモノサシが必要な時はあるんです。
それこそ障害者年金を受け取りたいなら、自分の障害に等級を与えてもらって、障害者手帳を作る必要があります。
それって国が定めたモノサシなので、僕が国のサービスを受けようと思ったら絶対に必要なモノです。
こーゆー「公共的なもの」は、モノサシがなければ何も進まないから、そのモノサシはとても便利に使うことができます。
お金とかもそうですね。
1万円には1万円の価値があって、共通認識があるから使えるわけです。
そーゆー場合はいいんです。
でも、
「個人の人生」
という文脈で考えれば、他人のモノサシなんて正直どーでもいいわけです。
「社会的なモノサシ」と「個人のモノサシ」は、その性質が全然違います。
でも、多くの人はその個人のモノサシさえも、
「広く一般的に使われるべきだ」
と思い込んでしまっている。
いわゆる「常識」というやつですね。
法律で決まっているわけでも、国が推奨しているわけでもないのに、ひたすらマスク着用を義務付けているのは、「個人のモノサシの集合体(常識)」なのです。
「障害者だから」も、
「子供だから」も、
「親だから」も、
「日本人だから」も、
「男だから」も、
「女だから」も、
実は全部、本当は個人のモノサシの集合体のはずです。
でも、集合体だからゆえにそれが「社会のモノサシ」として扱われてしまうのが問題で、日本ではそーゆー同調圧力が特にすごいと思います。
例えば僕が死にかけている子供を見て可哀想だと思うのは、これは個人の自由だと思うんです。
実際には道徳だったり、死生観だったり、差別だったり、人権だったりを学んで、「基準にすべき哲学」はあると思うんですが、ひとまず僕は勉強不足なので、単純に「悲しい出来事を体験した人」を見ると、可哀想だと思います。
「大変だろうな」とも思うし、「頑張って欲しいな」とも思います。
でもこれを僕が思っているだけじゃなくて、他人にも求め始めた時、多分おかしなことになるんだと思うんです。
「可哀想だから助けなければ」とかね。
いや、本人が助けてほしいと願っているなら別にいいんですよ。
でも、お節介になってくると話は変わりますよね?
例えば誰かが最初に
「パラリンピック」
なるものを考えたんでしょう。
そして選手を募集したら「やりたい」という人が集まってきた。
そしてそれを「見たい」と思う観客も集まってきた。
この時点では何の問題もないと思うんです。
だって誰も他人に強制してませんから。
でもそこに、
「え、お前、パラリンピック見ないの?最低な人間だな!」
とか、
「え、そんなにすごいなら絶対パラリンピックに出た方がいいよ!」
とか、そーゆー何とも言えない、同調圧力が発生したときに、
「いや、うるせーし!」
となるわけです。
だから僕にとってはパラリンピックはどーでもいいんです。
見たいスポーツがあれば見るし、もし知り合いが出てれば応援しますよ。
でもそれって、オリンピックと一緒じゃないですか。
他のスポーツ大会とも一緒だし、見るか見ないか、応援するかしないか、そして僕がどう感じるかは、完全に僕の自由だと思うんです。
で。
話を最初の記事に戻すと、どうやらことの発端はテリー伊藤の発言らしいですね。
これが記事のネタ元のツイートです。
テリー伊藤のこの発言の是非は正直どーでもいいんですが、こーゆー発言を「絶対そうした方が良い」というスタンスで発言するのはよくないわけです。
某メンタリストだって同じですね。
「絶対にその方がいい」と、他人にも強制し始めると、それに同調する人も出てくるし、反論する人も出てくるし、問題がややこしくなっちゃうわけです。
例えばもしもそーゆー議論がしたいなら、とりあえず、
「個人の意見」
をいっぱい並べましょうよ。
別にホームレスより猫が好き、でもいいんです。
子供に障害者と触れる機会を作ろう、でもいいんです。
それはただの「一意見」ですから。
でもこーゆー一意見を議論もせずに「まるで正しいこと」のように言ってしまうのがダメで、逆に議論もせずに個人の意見を抑圧しちゃうのもダメなわけです。
一旦、平等に並べてみましょうよ、と。
議論はそれからでしょ、と。
僕はそう思うわけです。
なんか色々書きましたが、結局言いたいことは1つです。
「自分のモノサシで、自分の人生を生きることに忙しけりゃ、いちいち他人のモノサシに振り回されたり、悩まされることもないんじゃないの?」
ってことです。
シンプル!(笑)
タケヒロくんの気持ちもわかるけどね。
見せ物にされてるようで嫌だとか、感動ポルノじゃないとか、自分は教材じゃないとか、わかるよその気持ち(笑)
でも、世間とはそーゆーもので、無知とはそーゆーもので、他人のモノサシばかりで生きている大人とはそーゆーもので、それは少しずつ是正されていくべき問題なんだろうけど、
「自分の人生を振り回されてまで取り組む問題か?」
と聞かれると、僕はどーでもいいと思っちゃいますね。
例えば、和佐大輔を感動ポルノとして消費している人がいるとしても、僕は別にそこまで気にしません。
そーゆー奴らが僕に何かを要求してきたら反応するかもしれないけど、僕の人生にとっては今のところ無害ですから。
仮に僕がめちゃくちゃ貧乏になったとき、そーゆー人ほどお金を恵んでくれるかもしれないので、一定数そーゆー人がいることは悪くないと思うんです。
僕は原理主義者でも、潔癖症でもないので、全然グラデーションがあることは気にしません。
より重要なのは僕の人生と僕に近いところで関わる人の人生ですから。
遠いところにいる人の相手をしている暇なんてないんです。
「周囲100人と幸せになろうぜ!」
と考えられる人がもっと増えたら、結局世界は平和になるし、もっと良くなると思うんです。
だってその100人はまた別の100人と繋がっていて、その集合体が「世界」なわけですから。
だからやっぱり集中すべきなのは自分の人生ですね。
社会を変えるよりも多分、身近な100人をちょっとだけ幸せにする方が簡単で、100人をちょっとだけ幸せにできる人を増やすことの方が簡単だと思うんです。
僕の人生はとりあえずそれでいいかな(笑)
なんてことを思いながら、いろんな記事を読んでました。
ってことで、ただの落書きのようなnoteでした。
ではでは。
もう朝の5時30分です・・・
1時間もかけて書いた甲斐はあったのかはマジで謎です(苦笑)
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