「空回りし続けな」。中村俊輔選手からの伝言
緊急事態宣言が全面解除された。
その49日間の中では「リモート」という形が市民権を得た。
「ポストコロナのコミュニケーション」みたいな話とはまったく関係ないが、リモートという言葉で思い出すエピソードがある。
それは「コロナまん延以前」どころか、ビデオ会議システム自体が今ほどは一般的ではなかった、6年も前の話だ。
エピソードというには、あまりにも自分が関わりすぎている。ゆえに記者時代は記事にする機会はなかった。ただ、自分ひとりで抱えているのはもったいなすぎる、貴重な「リモートでの教え」だと思っている。
新聞に合ってはいなくても、noteという場には合っているような気もする。この機会につづらせていただきたい。
2014年の春。日刊スポーツのゴルフ担当記者だった僕は、アメリカ・ジョージア州のホテルで、ひとりでビールを飲んでいた。
ゴルフの4大大会のひとつ「マスターズ」開幕まであと数日。練習ラウンドの様子を取材するために、会場のオーガスタナショナルGC近くの宿に逗留していた。
部屋にストックしていたのは、小麦の甘い香りにオレンジピールが爽やかさを加える「ブルームーン」。南部の気候にも合っている気がして、僕は好きだった。
だがこの日は、そんな味や香りもよく分からないほどに酔っ払っていた。それでもひたすら飲む。まるで作業のように、空き瓶の列をつくり続けた。
この年、マスターズに出場していた日本勢は、松山英樹プロひとりだった。
その大事な取材対象と、その頃の僕はうまくいっていなかった。本音を語ってもらえなくなり、目すら合わなくなった。
それならば代わりに、他の選手を取材した記事を…というわけにもいかない。日本向けの情報を発信するメディアが、わざわざアメリカまで出向いて、松山プロをまったく取り上げないというのは考えにくい。
自分は何をしにここに来ているのかー。ため息をついては酒を飲む。久々に気が滅入っていた。滅入り切っていた。
着信音が鳴った。会社のデスクだろうか。
ふらふらと歩いて、携帯電話を手に取る。日本にいる妻からの着信だった。
「ごめん、そっちは何時?」
「ん?夜の2時」
「ああ、ごめんなさい。でも大事かもと思って、つい」
なんだろう。ビールではなく、ペットボトルの水を流し込みながら、続く言葉を待った。
「今日、マリノスに取材に来ているんだけど、俊輔さんから伝言を預かって」
俊輔さん、とは、あの中村俊輔選手のことだった。
ときおりサッカー取材をしている妻が、横浜F・マリノスの取材現場で会ったようだ。メモを開くような音の後に「いくね」と言って読み上げる。
「塩畑、空回りし続けな、全力で」
ゴルフ担当に移る前、僕はサッカー担当記者を務めていた。
2005年のジェフ千葉担当を皮切りに、横浜F・マリノス、そして2007年からは日本代表のエース・中村俊輔選手を担当した。
最初はグラスゴー、のちにバルセロナに出向き、現地の通信員とともに俊輔選手の取材をした。食事を一緒にしたり、単独インタビューをさせてもらったり。自分では良好な関係がつくれていると思っていた。
2010年の年末、僕はサッカー担当からゴルフ担当に移ることが決まった。
忘れもしない、12月30日。茨城・鹿嶋市でサッカー教室をしていた俊輔選手のもとに、異動の報告をしに行った。
「最後なら、昼メシでも食おうよ」。俊輔選手はそう言ってくれた。労をねぎらってくれるのかー。そう思ったが、まったく違った。
昼食のテーブルに着くと、俊輔選手はすぐに話を切り出してきた。
「塩畑ってさ、担当記者としてはまあ…ダメだったよね」
冗談なのか、本気なのか。真意をはかりかねた。
言葉も出ない僕にかまわず、俊輔選手が語り続ける。
「きっとさ、トップじゃないまでも、2番目に食い込んでいるくらいに思っていたでしょ」
「トップ」が誰かは、すぐに分かった。当時はスポーツ報知に、取材現場の誰もが「中村俊輔と言えばこの人」と認める担当記者がいた。その人にはかなわないまでも、自分もいいセンはいっているのではないか。そう思っていたのは確かだった。
注文していたざるそばが届いた。店員に「ありがとうございます」と頭を下げると、俊輔選手はさらに言った。
「でもね、仮に2位だったとしても、1位とは大差がついていて、3位以下とほとんど変わらない2位じゃ、意味はないよ」
反論のしようもない。他でもない本人がそう思っているわけだから。
「取材対象に嫌われたくない。だから踏み込んで来れない。そういうのがにじみ出てる。結果として、嫌われなかったかもしれないけど、3年前から心理的な距離が縮まってもいない」
ざるそばに手もつけず、熱っぽく語り続ける。厳しい言葉を、あえて選んでいる。
「だったら、早々に踏み込んだ方がいい。それで何らかの結論が出た方が、次のステップも見えてくるよ。違うアプローチを考えるとか、そもそもオレじゃなく他の選手に対して頑張ってみるとか」
最後まで、冗談めかして空気を和ますようなこともしなかった。
「トップ」の記者は担当着任当初、俊輔選手から「取材がしつこい」といって距離を置かれていたという。
それを見た周囲の記者からも、露骨にバカにされていたそうだ。だがそれでも、積極的にアプローチするスタンスを変えなかった。やがて「彼は本気なんだね」と俊輔選手から認められるようになった。
時間をかけて、じっくりと関係をつくる。
良心的なスタンスのように響く言葉は、格好の言い訳だったのかもしれない。少なくとも、俊輔選手に対してはまったくプラスに働いていなかった。
ゴルフ担当になった僕は、取材のやり方を変えた。
周囲の目を気にしないことにした。できるだけ遠慮をせずに選手に話しかける。付きまとう。「こういう記事を書きたいから」と訴え続け、実際に記事を書きまくった。
「どんな記者なのか」「どんな記事を書きたいのか」を早めにさらけ出す。そうすることで、取材対象との関係はそれまでとまったく違うものになった。
逃げ回られるのを追いかけるのが記者、と思い込んでいた。そんなことはない。意図さえきちんと伝われば、相手は足を止めて話してくれる。場合によっては、向こうからやってくる。
迷惑をかけないようにと、アスリートと一定の距離をとっていたことは、期せずして「得体の知れなさ」にもつながっていたのかもしれない。
濃い霧が消え去り、目の前に青空が広がったような気持ちになった。
大きな転機をつくってくれてから3年半。
アメリカ・ジョージア州のホテル。再び、俊輔選手が「啓示」のようなものをくれた。しかも、海を隔てた遠い日本から。
「塩畑、空回りし続けな」
電話の向こうの妻が、続く伝言も読み上げる。
「『空回りできるやつだけが、いざという時に全力で回れるんだと、オレは思う』だって。どういう意味なのかな…?」
鳥肌が立った。
スタンスを変えるな。俊輔選手は、間違いなくそう言ってくれていた。
日本時間午前に行われたその日の練習後。クラブハウスの取材エリアで、俊輔選手は僕の妻に「アイツ、どうしてんの?」と聞いてくれたのだという。
松山プロに取材を試みながら、まったく心を開いてもらえない。
そんな僕の様子を聞いて、妻に伝言を託してくれた。
空回りできるやつだけが、いざという時に全力で回れるーー。
重い言葉だと感じた。中村俊輔という選手の生き様そのものだったからだ。
マリノスの下部組織で育った俊輔選手だが、中学生世代のチームである「ジュニアユース」から、高校生世代の「ユース」に昇格することができなかった。
プロ入り後も、2002年のW杯出場を目前にしながら、最後の最後でトルシエジャパンから落選するという憂き目をみた。大会直後には、イタリア・セリエAのレジーナへの移籍を果たしたが、出場機会に恵まれぬ時期もあった。
レッジョ・カラブリアの夜の浜辺に座り、膝を抱えて涙をこぼした日もあったと聞く。だが翌日には再び練習をした。無駄だと思われても、自分を追い込んだ。
全力で続けた「空回り」の末に、俊輔選手はレジーナでも出場機会を勝ち取った。日本代表でもエースにのぼりつめた。
移籍したセルティックでは、チャンピオンズリーグという世界最高の舞台で、強豪マンチェスター・ユナイテッド相手にFKで2戦2得点。クラブを決勝トーナメントに導き、グラスゴーのヒーローになった。「いざというときに全力で回れる」ことを、結果という揺るがぬ形で示してきた。
「空回りしろ」
それはおそらく、長年自分に言い聞かせてきた言葉なのだと思う。
2014年の年末。僕は4年間のゴルフ担当生活を終え、サッカー担当に戻ることになった。
松山英樹プロは、送別会がてらご飯に誘ってくれた。11月下旬に宮崎で行われた国内ツアー戦「ダンロップ・フェニックス」で優勝した翌日のことだ。さらには「メンバーが多くて、じっくり話せなかったですね」とその翌日も一席設けてくれた。
「へー。そうか。よかったじゃん」
サッカーの取材現場で再会した俊輔選手は、そういってにやりと笑った。
俊さんのおかげです。そう伝えると、ひらひらと手を振ってロッカールームに去っていった。
俊輔選手は41歳の今も、現役でプレーを続けている。
昨年はジュビロ磐田で出場機会に恵まれずにいた。浜松まであいさつに行くと、マンションに招いてくれた。単身赴任の部屋にはモノが少なかった。トレーニング用具だけがズラリと並んでいた。
昔話に花を咲かせながらも、俊輔選手はずっとバランスボールの上で身体を動かし続けていた。不遇をなげくどころか、さらに「空回り」を続けようとしていた。
その直後、横浜FCに移籍した。初めてのJ2でのプレーだったが、チームを昇格に導く形でJ1に戻ってきた。
今季のJリーグはコロナ禍で中断を余儀なくされた。残された現役としての時間が短いベテランにとって、失われた時間は重いものだ。
特殊な日程や経済的影響を鑑み、今年は「J2降格クラブなし」と決まったが、これもプラスには働かないかもしれない。各クラブにとって、負けを恐れずに若手を登用していける、またとないチャンスになるからだ。
この試練に、俊輔選手はどう立ち向かうのだろうか。
◇ ◇ ◇
コロナで損なわれたものは、あまりにも大きい。
社会のあり方も大きく変わるだろう。これまでのやり方でうまくいく事ばかりではないに違いない。
一方で、SNSの力もあって、世の中は成功譚で満ちているようにも思う。
うまく立ち回る側でいたい。かっこいい側でいたい。そうしたあせりのようなものが支配する世界になった気もする。
そんな今だからこそ、俊輔選手の言葉は重く響く。
僕はそう感じている。
空回りし続けな。じゃないといざという時に、全力で回れないから。
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