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「応援」とは何なのか。新人記者の僕に小枝守さんが教えてくれたこと


今週、NHKの朝ドラ「エール」が、作品のテーマに関わる大事な局面を迎えた。

窪田正孝さん演じる主人公の作曲家・古山裕一は、早稲田大学の応援部から、あの「紺碧の空」の作曲を依頼されていた。
だがなかなか身が入らず、催促に来た応援部員たちに「応援って勝敗には関係ないんじゃないですか」と言い放ってしまう。

応援とは、なんなのか。
根源的な問いをぶつけられ、応援団員たちは思い悩む。

その姿を見ながら、僕は人生初の取材現場での出来事を思い出した。
そこでいただいた言葉は、今に至るまで、スポーツを取材する上での「指針」になっている。

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2002年5月のある日、千葉は久々に晴れていた。

JR内房線の乗客はみな、額に汗をにじませている。
立ったまま資料に目を通していた僕は、木更津駅到着を知らせるアナウンスに、あわてて電車を降りた。

バスに乗り換えて20分。さらに歩いて坂を上がること10分。軽く息が上がってきたころに、拓殖大学紅陵高校野球部の練習場にたどり着いた。

練習の準備をしている部員に声をかけると、監督室へと案内された。
人生で初めての取材。しかもここは、夏の甲子園で準優勝もしている強豪校だ。さっきまでの汗をやけに冷たく感じながら、ドアをノックした。

「どうぞ」。招き入れてくださったのは、拓大紅陵高野球部の小枝守監督だった。
高校球界屈指の名将。直前の2001年夏に全国制覇を果たした、日大三高の小倉全由監督に"師"と仰がれていることでも知られていた。

「そうですか。記者になられたばかりで」

小枝さんは僕のような若造に対しても、言葉遣いがとても丁寧だった。
対して僕は、礼儀を欠いていた。「さっそく練習を取材したいのですが、よろしいでしょうか?」と腰を浮かせてしまった。

ボール②


小枝さんは笑顔でそれを制した。

監督室の窓からは、選手たちがグラウンドに駆け出すのが見えた。それを横目で確認しながら「少し、話をしてからにしましょう」と言った。

なぜ?もう練習が始まるのに…
そんな気持ちを、当時の僕は顔に出してしまっていたかもしれない。

「彼ら部員に、何を、どう頑張ってほしいのか。私がなぜ監督を続けているのか。そういったあたりを知っていただくのは、決して無駄にはならないと思います」

小枝さんは僕の内心を見透かしたように、そうおっしゃった。
僕がイスに深く座りなおすのをみて、小さくうなずく。

「さて、塩畑さん。野球部って、いったい何のために活動していると思いますか」

「それは、甲子園を目指して…」

にっこりと笑いながら、小枝さんは首を振った。
そして、まったく予想もしなかった答えを示された。

「少なくとも、うちは違います。在校する生徒、みんなが何かを応援する。その機会をつくるために、拓大紅陵の野球部はあります」

メガホン①


小枝さんはひときわ語気を強めた。

「言葉を選ばずに言えば、自分の得になるわけじゃないんですよ。なのにみんな、スタンドで声をからして野球部を応援する。涙も流す。こんなに尊いことはない」

小枝さんは拓大紅陵高の教頭も務められていた。
生徒の心に「何かを応援したい」と思う気持ちが芽生える。相手を思いやり、共感する力が育つ。そうした人間的成長のきっかけとして、野球部の活動を位置付けていた。

ただ単に全校応援の機会を設ければいいというものではない。生徒が自主的に「応援したい」と思わなければ、意味がない。
そのためには野球部の監督として、生徒みんなが応援したいと思うようなチームをつくらないといけない。

「野球部の存在意義は、ひとえにそこだと私は考えています」

部員もいい選手である以前に「周囲から一目置かれるような人間」でなければいけない。生活態度が乱れているような選手は、応援はしてもらえない。

その上で、応援しがいがあるだけの強さを追求していく。甲子園を目指すのも、自分たちだけのためではない。応援してくれるみんなが喜んでくれるようにと必死で戦う。

僕は質問をぶつけた。

「単にチームを強くするよりも、難しいことなんじゃないですか」

小枝さんは言った。

「そうですね。ただ『自分のためだけに頑張る』というのには限界もあるような気がします。『誰かのために』という方が頑張れることもあるんじゃないかな」

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結局その日の取材は、小枝監督のお話を伺うだけで終わった。

チームの近況も分からない。選手のコメントも取れていない。ほぼ「手ぶら」だった。
帰り道。路線バスを待ちながら、恐る恐るデスクに電話で報告をした。

「おお、いい取材だったじゃないか。よかったな」
デスクはやけにうれしそうに言っていた。拍子抜けしたような、ほっとしたような気持ちになったことを覚えている。

夏の県大会が始まった。

千葉県には、のちに「美爆音」と評され有名になった習志野高など、ハイレベルな応援を繰り広げる高校が多い。
各校の生徒の皆さんが、工夫を凝らし、声をからして応援する姿には、強く胸を打たれた。

拓大紅陵高の応援も素晴らしかった。
「チャンス紅陵」など、数多くのオリジナル楽曲がスタンドを一体にした。「これぞ拓大紅陵、とみんながまとまれる曲を」という小枝さんたっての願いで作曲されたものだと聞いた。

そんな力強い後押しを得て、小枝さんが率いる拓大紅陵高はトーナメントを粘り強く勝ち上がっていった。
プロが注目するような選手はいなかったが、鍛え上げられた守りと継投で相手に得点を許さなかった。

決勝では中央学院高に4-0で勝ち、10年ぶりの優勝を果たした。
試合後、小枝監督は選手とともにスタンドに歩み寄ると、深々と頭を下げた。

プロ仕様の大きな千葉マリンスタジアムに、生徒の皆さんの歓呼の声が響き渡っていた。
小枝さんは静かに、その様子を眺めていた。

表情が晴れやかだったのは、甲子園行きを決めたから、というだけではなかったと思う。

ボール②


その試合の取材を最後に、僕は研修を終えて、写真部に配属された。

一眼レフカメラの扱いを教わるのもそこそこに、甲子園へ。今度はカメラマンとして、高校野球を取材した。

残念ながら、大会初日に敗退していた拓大紅陵高の撮影はできなかった。
大会4日目からの現場合流。球場についた時には、この日の第2試合、小山西対熊本工戦が大詰めを迎えていた。

9回裏。2点を追う熊本工高は、4番・山本光将選手からの打順。
この年のドラフト会議で巨人から指名を受けることになるスラッガーだが、この日はまだ無安打だった。

僕は三塁側カメラマン席に入るために、いったんコンコースからスタンドに出た。その瞬間、熊本工高の応援が始まった。
チャンスで演奏する「新サンライズ」のイントロが、無死走者なしの状況で響く。球場全体がざわつくのが分かった。

2球で追い込まれた山本選手だったが、地響きのような声援を受けながら、ファウルで懸命に粘る。徐々にタイミングが合い出す。
小さくなっていた構えが、心なしか大きく見えてきた。7球目。芯でとらえた打球は、三遊間をきれいに破った。

急いでアルプススタンドに向かうと、赤いチューリップハットをかぶった生徒たちが、感極まって涙していた。
濡れた頬をぬぐうと、再び流れ出す「新サンライズ」のイントロに合わせて、もう一度声をそろえ始めた。

鳥肌が立った。そして同時に、拓大紅陵高の監督室で聞いた小枝さんの言葉が、脳裏によみがえってきた。

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「応援する、ってすごいことだと思いませんか?」

スタンドが真っ赤にそまり、地響きのような声援が選手に送られる埼玉スタジアムで。
「チャンテ4」をのろしがわりに、強力打線がビッグイニングをつくり出すメットライフドームで。

熱い応援がドラマを生む現場に立ち会うたび、僕はいつも小枝監督の言葉を思い出す。

記者として、思い入れを持って取材する対象は自然と「応援したいと思わせる選手、チーム」になった。
理想とする記事は今も「誰かを応援したいと思わせる記事」だ。

おこがましく、勝手ながらも「誰かのために」と思うからこそ、いつも新鮮な気持ちで取材ができてきたようにも思う。
それらはすべて、記者として最初に会ったのが、小枝さんだったからだ。

縁もゆかりもない新人記者の僕に、時間を割いてくれたありがたみを、今もことあるごとに思う。
なぜ、あそこまでしてくれたのか。お礼も兼ねて、真意をうかがいに行くべきだった。だが、それはもうかなわない。

小枝守さんはU-18日本代表の監督などを務められた後、昨年がんのため亡くなられた。67歳だった。

メガホン①


夏の甲子園が、中止になった。

最後の夏のために、必死で練習してきた選手たちのことを思うと、切なくなる。
そして「誰かのことを声をからして応援する」という貴重な機会がなくなることも、とても残念に思う。

今後、スポーツイベント自体が再開され始めても、当面は無観客で行われるケースが多くなるだろう。
観客を入れられても、感染を防ぐために「声援を自粛」ということにもなるかもしれない。「紺碧の空」も、おそらく肩を組んでは歌えない。

応援される人と応援する人がつくってきた、美しい光景。もしかしたら、あの日のままに戻ってくることは、もうないのかもしれない。

ただ、たとえ形は少し変わっても、誰かを応援することの尊さはこれからも変わらないとは思う。




応援するということ。

それは相手のことを"自分ごと"にするということ。

相手の思いをくみ取ること。強く共感すること。




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