僕は逃げた。そして、居場所を見つけた。
2009年の冬。
僕は自宅近くのクリニックで、医師と向き合っていた。
「診断名としては、自律神経失調症です。初期のうつ病と言った方がご理解いただきやすいかもしれません」
ああ、そうなのか。
視野がスッと狭くなるような感覚があった。
その可能性があると思うから、受診をした。
だが、実際に知らされると、やはりショックだった。
「診断書を書きますので、すぐに休職されることをおすすめします」
医師は親身に言葉を続けてくれていた。
だが僕は、生返事を繰り返すことしかできなかった。
自分のキャリアは、これで終わってしまうのだろうか。
そんなことを考えていた。
◇
異変があったのは、その2週間前だった。
僕は当時、スポーツ新聞社でサッカー担当記者をしていた。
久々の休暇。妻の実家を訪れた。その帰り道、高速道路を運転していると、意識がもうろうとしてきた。
手足もしびれてくる。怖くなってきた。
パーキングエリアに入り、運転席のシートを倒して横になる。助手席の妻が心配そうに見つめている。
休んでいたが、いっこうに気分がよくならない。
やがて気づいた。もう運転できない。ハンドルを握る以前に、起き上がること自体を、心身が拒んでいる。
自宅には帰らなくてはいけない。
だが、ここは高速道路。運転するしか帰る方法はない。いったいどうしたらいいのか。
そう思った瞬間、涙が出てきた。
「ごめん、本当にごめん」。僕は泣きながら妻に謝っていたように記憶している。
◇
軽自動車がやってきた。
運転代行の業者さんだ。妻が電話で手配をしてくれた。
パーキングエリアから自宅まで、まだ25キロ以上あった。
所要時間は30分ほど。僕と妻は後部座席に並んで、無言で過ごした。
「お代は結構です。それより、どうかお大事に」
僕らを送り届けた業者さんはそう言った。
支払おうとする妻を振り切って、軽自動車で去っていく。
本当なら僕も、妻と一緒に業者さんを引き留めるべきだったと思う。
でも、身体がまったく動かなかった。なにかを話そうとすることだけでも、おっくうだと感じていた。
◇
妻に手を引かれて、僕はすぐに最寄りの総合病院へと向かった。
脳疾患が疑われたが、どうやらそれはなさそうだった。
念のためということで、数日後に脳の画像検査も受けた。
問題は見つからなかった。
つまり、原因がわからないということだ。
仕方なく、自分で本やネットを使って調べた。
そして心療内科のクリニックにたどり着き、ようやく原因がわかった。
診断書をすぐに書きます。医師はそう言ってくれた。
休職こそ、治療する上での最善の一手。素人でもすぐに理解できた。
だが僕は、その申し出を断った。
◇
「自律神経失調症というのは、脳がガス欠を起こしている状態です」
医師はそう言って、説明を始めた。
脳はエネルギーとして「神経伝達物質」を消費していく。
活動すると物質が減る一方なので、人は睡眠や休息などを取る。そうすると、物質が補充される。
だが、この補充が間に合わないことがある。
過度にストレスがかかる。あるいは、考え事をずっと続けている。そうすると脳はやがてガス欠を起こす。
僕の自覚症状は、当初はこんな感じだった。
・クーラーなどで急に気温が変化するとめまいがする
・ベッドに入ると足の裏が熱くなって眠れない
・疲れると頭痛、胃痛が来る
原因がわからないまま、数年は放置していたと思う。
その間に、僕の脳は限界に達した。
「運転を拒む」という形で、ついにギブアップをした。どうやら、そういうことらしい。
「放置すればうつ病に進展する可能性もある。そういう意味で『初期のうつ病』という言い方をさせてもらいました」
医師の言葉は、静かな診察室に重く響いた。
◇
そういう状態になった原因については、ここで語るつもりはない。
いずれにしても、僕は判断しなければならなくなった。
出した答えは「診断書を書いてもらわない」というものだった。
自律神経失調症は、きちんと休めば治る。
それは医師の丁寧な説明で、よく理解できた。投薬が回復をうながしてくれるのもわかった。
だが、それを職場の人たちに理解してもらう自信が、僕にはなかった。
きっと「精神的に弱い」というレッテルを貼られることだろう。
「やる気が足りない」という見方も出てくるかもしれない。
あいつは記者の仕事に耐えられる強さ、勤勉さを持っていないー。
そうみなされ、記者職から外される。そんな未来が思い浮かんだ。
今思えば、それは記者という仕事への執着ではなかったかもしれない。
組織から落ちこぼれることへの恐怖。そちらの方がまさっていたような気もする。
いずれにしても、僕には合理的な判断ができなかった。
◇
僕は通院しながら、仕事を続けることにした。
投薬でだましだましに。会社にはすべてを伏せたままで。
自分の心身が回復するのを、あてもなく待った。
発作のような症状に襲われることはなくなった。
だが一方で、薬をやめられるめどはまったく立たなかった。服用をおこたれば再び眠れなくなる。仕事がつらくなる。
医師からは「せめて環境を変えては」と何度もすすめられた。
だが、すぐに部署や担当を変えてもらうためには、症状を会社に報告する必要がある。僕にはそれはできなかった。
いっそ会社自体を変えてしまえば。そう考えて、密かに転職活動もした。
テレビ局の最終面接まで進んだ。だが結果としては縁がなかった。
そうして1年以上がたった。時間だけがすぎた。
僕はようやく決断をした。
2010年。サッカーワールドカップ南アフリカ大会の終了直後。
所属していたサッカー取材班は、再編の時を迎えていた。新しくキャップになる先輩記者から、連絡があった。
「お前が残りたいなら、サッカー班に残すんだけど」
僕は答えた。
「ご配慮いただきありがとうございます。でも、担当から外してください」
◇
損なわれてはいけないものが、損なわれてしまった気がした。
それなりの高校、それなりの大学に進み、それなりの会社に入った。
トップアスリートを取材できる機会も与えられた。昔からの友人からは「すごいな」と言われた。
だがそれも終わりだ。
自分はドロップアウトしたのだ。
オリンピック・パラリンピック。サッカーワールドカップ。プロ野球。
そういったスポーツ新聞社の取材のメインストリームに関わることは、もうあるまい。すべてをあきらめた。
◇
そんな僕に、冷水をぶっかけてくれた人がいた。
3年間担当していた中村俊輔選手だ。
担当を外れることを報告に行くと、俊輔選手はこう言った。
「塩畑は担当記者としてはダメだったと思うよ」
そのやりとりは、以前こちらの記事にも書かせていただいた。
いずれにしても、俊輔選手の指摘には、ハッとさせられた。
そもそも、である。
自分は記者として、何者でもなかったのではないか。
すべてを失った、と思っていた。
だが本当は、失うような立場や損なわれるほどのキャリアなんて、最初から持ち合わせてなかったかもしれない。
自分が「価値」だと思っていたものとは、一体何だったのか。
はじめてそんなことを思った。
◇
年が明けた2011年。僕はゴルフ担当の記者になった。
取材班は4人。小さな所帯だ。
古巣のサッカー担当、それからプロ野球担当などは、記者を数十人も抱えていた。その差はつまり「紙面での扱われ方の大小」を示すものだった。
サッカー担当と違って、他の取材に駆り出されることもあった。
その年の3月、東日本大震災が起きた。僕は発災1週間後、被災地取材に入った。
そこでは、すべてが損なわれていた。目をそむけたくなる現実があった。
それでも東北の人たちは、遠い復興に向けて動き出していた。
自分が「損なわれた」と思っていたもののちっぽけさを思った。
1か月間の被災地取材から戻った僕は、ゴルフの現場に戻った。
そこでは早朝に始まり、日が落ちる前には終わる取材があった。深夜に偏っていた僕の生活サイクルは一変した。
木々の緑と青空。広々としたゴルフ場の景色。
毎朝、心が晴れ晴れとなった。そしてそこで僕は、記者人生の分岐点となるような出会いに恵まれた。
石川遼プロだ。
彼がかけてくれた一言で、僕は救われることになる。
◇
石川遼といえば、ゴルフというジャンルを超越したスーパースターだ。
ツアー会場では、あらゆるメディアが追い続けていた。
常に数十人の取材者に取り囲まれながら、彼は過ごしていた。
それがある日、僕はたまたまクラブハウスの一角で、彼と二人きりになった。
すると向こうから、こう話しかけてきた。
「塩畑さん、中村俊輔さんの担当記者だったんですよね。機会があったら、ゆっくり話を聞かせてください」
あまりのことに驚いた。
あわてて言葉を返そうとしたが、間に合わなかった。
彼は一礼をして、僕の前から去っていった。
他の記者たちが遼プロに気づいた。あっという間に取り囲まれ、彼の姿は見えなくなった。
◇
ぼうぜんとしている僕の肩をたたく人がいた。
板谷篤さん。
遼プロの現場マネージャーを務められていた方だ。
「他の競技のアスリートの話は、勉強になるから。まあ、助けると思って、頼みますよ」
そう言って、スタスタと去っていく。
助ける、か…。
自分のような記者に価値を置いてくれる。思いもしなかった。
会社員としてのキャリアで考えるなら、サッカー担当時代は「黒歴史」と位置づけられるべきものかもしれない。現に僕は、そう結論づけかけていた。
だが、遼プロも板谷さんも、そこに価値を見いだしてくれた。
たいした記者ではなかった。会社の求めも全うできなかった。
ただ、俊輔選手と過ごした時間自体の価値は別だ。何かで薄れるものではない。2人はそう教えてくれた。
◇
そこからのゴルフ担当生活4年間。
遼プロは本当にいい取材をさせてくれた。
一番は、伝えるべき価値について、彼と議論ができたことにあると思う。
「こういう企画ものの記事を書きたい」と伝えると、遼プロはいろいろな視点から意見を返してくれた。
取材対象と一緒に記事をつくる。そんな経験ははじめてだった。
それまでとは比較にならないほど、質も量も充実した取材成果を得られた。
新聞紙面の限られたスペースには、とうてい書ききれない。
だから僕は、ネット限定の書き下ろし記事を書くようになった。
◇
当時はそんなことをしても、社内の誰も褒めてくれない時代だった。
でも僕は自分が「すでにメインストリームを外れた」と思っていた。
だから社内からの評価、見え方は、あまり気にならなくなっていた。
せっかくの取材成果。できるだけいい形で世に出したい。
それだけを思った。かつてないほど、強くそう思った。
そうして書いたネット限定の記事には、反響があった。
ネットは紙面と違って、記事への反響が可視化されるから、よくわかった。
オリパラの記事でも、サッカーワールドカップの記事でもない。
1面に掲載される記事でもないし、社内の多くの人が振り向いてくれる記事でもない。
だが確かに、価値はある。
読者の皆さんが、それを教えてくれた。
◇
それまでの僕は、価値の尺度をひとつしか持っていなかった。
それは「会社の上司や同僚にどう思われるか」という尺度だった。
いい記事というのは、社内での評判がいいものを指す。本気でそう思い込んでいたところがあった。
選手に嫌われないようにと心がけるのも、ひとえに「上司や同僚からダメな記者だと思われないために」というのが大きかった気がする。
それは本質ではない。遅ればせながら、僕は気づくことができた。
価値の尺度は、もっと他にたくさんある。急に視野が開けた気がした。
僕はやがて、遼プロ以外のたくさんの選手も取材するようになった。
紙面の編集担当から求められるのは、遼プロの記事であることが多かった。
だがそれはあくまで、尺度のひとつ。読者の要請は必ずしもそうとは限らない。ネットの反応をもとに、そう考えた。
その仮説は、的外れではなかった。
掲載後の反響が教えてくれた。
遼プロ以外の選手も幅広く取材し、ネット記事にする。
その取り組みを誰よりも喜んでくれたのは、他でもない遼プロだった。「今日は誰を取材したんですか?」。そう逆取材してくれることまであった。
◇
2014年、僕はサッカー担当に戻ることになった。
担当クラブは浦和レッズ。
僕はゴルフの現場での成功体験をいかすことにした。ネット限定のコラムで、できるだけ多くの選手、多くの事象を書かせてもらった。
書いた記事には、ゴルフ担当の時以上に、大きな反響があった。
選手も記事を読んでくれた。
それによって、僕がどんな狙いで取材をしているのかを知ってもらうことができた。以前サッカー担当をしていた時にはなかなかつくれなかった信頼関係を、多くの選手と持つことができた。
2017年にはプロ野球・西武の担当になった。
この時も、ネット限定のコラムが球団内でも話題になって、多くの選手と打ち解けることができた。
当時のことは、以前noteでも書かせてもらった。
◇
2021年8月。
僕は自宅のテレビで、東京オリンピック・パラリンピックを観戦している。
自分にも人生のどこかに、この大会を取材する可能性はあったのだろうか。
ふとそんなことを思う。
西武担当の現場を最後に、僕はスポーツ新聞社を退職した。
ネットは多様な価値の存在を認めてくれる。そこに魅了され、ネットの世界に移ることにした。
LINE株式会社では4年間働かせてもらった。
仕事場となったLINE NEWSには、さまざまな専門性を持った提携媒体の皆さんが記事を配信してくださっていた。
そうした方々とのお仕事を通して、たくさんの「価値」を教わった。
本当に実りの多い月日だった。
東京オリンピック開幕直前、僕は2度目の転職をした。
いままさにこうして記事を書いている、プラットフォーム「note」で働くことになった。
そして自宅のリビングで、世界中のアスリートの戦いを見守っている。
◇
記者として、オリンピック・パラリンピックを取材することはなかった。
サッカーワールドカップの取材班に入ることもなかった。
そういう運命になったのは、あの日、サッカー取材班から自ら「撤退」したからかもしれない。だが、その判断には一片の悔いもない。
発行されるべき診断書と引き換えに、自分が守りたかったものが何なのか。
いまとなっては、よくわからないところもある。
うつのメカニズムは、いまも解明され切っていないところがあるそうだ。
自分にも、何が起きてもおかしくなかった。休職しない判断が最悪の事態を招かなかったのは、ただの偶然にすぎない。つくづくそう思う。
ただ一方で、当時の自分がすぐに判断できなかったことも、責めきれない。
休職したり異動希望を出したりすると、自分の人生がどうなってしまうのか。あの時点ではまったくわからなかった。
そして症状の1つなのかもしれないが、なにかを判断すること自体が、とてもつらかったようにも記憶している。
だからこそ12年前の僕に、声をかけられるものならかけたい。求めるというより、まずは知らせたい。
休んでも、逃げてもいい。
そうした方が広がる可能性だってあるのだ、と。
オリパラ取材やワールドカップ取材には、大きな価値がある。
でも僕は、新しい会社で追い求める未来にも、負けない価値があると思っている。
それは、誰かが決めてくれた価値ではない。
自分で見つけた価値だ。
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