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本当は授業なんて、失敗ばかりだ。

授業の様子が記事になった

 2月、私が教えている生徒たちの様子を取材に、ライターさんとカメラマンさんが来た。理科の授業自体は「科学者の時間」という名前でやっているのだが、今回は他校の教員仲間とやっている、「探究理科」という取り組みを取り上げて頂いた。もうこの際名前などはどうでもよくて、自分たちが大事にしていることを、ここまでしっかり言葉にしてもらえたのは初めてで、出来上がった記事を読んだときはとても感激だった。

 自分の授業、生徒が学ぶ様子を取り上げてもらったことはこの上もなく光栄なことで、こうやってたくさんの人に読んでもらえることは素直に嬉しい。
 それを踏まえた上で、伝えておきたいことがある。
 それは、「本当は授業なんて、失敗ばかりだ。」ということだ。思ったことを書くので読みにくいかもしれないが悪しからず。

まるで誰もが、うまくいっているかのよう

 昨今のようにネットやSNSが普及して、いわゆる「好事例」とか「ベストプラクティス」と呼ばれる授業実践を簡単に知ることができるようになった。私のような別に著書も研究実績もない人でも、日常の授業の中で上手くいったと思えることがあれば、すぐにコミュニティに共有することが可能になった。タイムラインを辿れば、なんだかみんな授業が上手くいっているような錯覚に陥ることがある。
 書店の教育書のコーナーをみても、「これで失敗しない!」「うまくいく〇〇指導のすべて」など、実践の好事例集のような本が目立つところに置かれている。おそらくそんな書籍を手に取る人は、普段の授業が全然うまくいかなくて、藁にもすがる思いなのだろう。けれどその人はきっとまた、失敗するだろう。自分の何がいけないんだろう?と問い続ける。
 そして、うまくいかなかった自分の授業のあとでSNSのキラキラした授業実践を再び読むと、以前にも増して「みんな良い授業ができてるのに、何で自分だけうまくいかないんだろう?」と思ってしまうことが、自分にもある。「授業とは必ずうまくいくものでなくてはならない」という縛りを、自ら作ってしまいがちだ。

9対1で、失敗の勝ち

 自分の授業を振り返ったとき、ああこの授業はうまくいったなあ、と思える授業など、正直ほとんどないかもしれない。多く見積もると9割近くは失敗かもしれない。断っておくがこれは謙遜でもなんでもない。この記事の「科学者の時間」も、いきなり全ての生徒たちがこの授業で突然生き生きと学び始めたわけではない。この単元の前にいくつかPBLにもチャレンジしたが、決して全てが上手くいったとは言い難い。
 それ以前にも、こんな授業を5年以上続ける中で、授業中に「ああ、今日は大失敗だったなあ」と、制御不能の状態に為す術なく立ち尽くすことも多々あった。「ごめん、うまくいかなかったのは自分のせいだ」と生徒に謝ったこともあった。 
 以前、国語の実践家の大村はまさんの本を読んだときに(タイトルを忘れてしまった)、授業がうまくいかなくて生徒を叱ってしまうことがあったときに、大村さんは「今日は自分の負けだ」と思いながら叱ってしまう、というエピソードがあった。ものすごく心当たりがある。これを読んで、なんだか少しほっとしたのを覚えている。
 おそらく、どんなにすごい実践家でも、誇れる実績の裏側には、その数倍の、数えきれない失敗があるんじゃないかと私は思う。むしろ、失敗した実践の数が多ければ多いほど、それだけ上手くいったと思える授業に出会える確率が増えただけ、なのではないか。それを伝える紙幅も、コストも、時間も、そしてそれを読む心までも割く余裕がないのかもしれない。
 そういう実践の文脈のようなものをバッサリ切り落とした状態で紹介される「好事例」や「ベストプラクティス」は、むしろ現場で失敗することを許容できない空気にさせているのではないか、とも思う。

本当は、失敗こそ共有すべきでは

 もちろん、うまくいった事例から学ぶべきものはある。私たちの「探究理科」の授業実践も、少しづつではあるけれど、生徒の素敵な学びの瞬間に立ち会える頻度が増えていることを実感する。それは、これまで自分が見てきた実践家の「好事例」や「ベストプラクティス」から学んだことによるものが大きいのも事実だ。
 でも何よりも大事だと思ったのは、自分の失敗を共有できる場があることなんだと思う。「探究理科」の勉強会で、他の教員に自分の実践の失敗を話せる環境にあることは本当に恵まれたことだ。そして何より、生徒と数多くの失敗を共有できたことが良かったのかもしれないと思っている。慌てて否定するが、それは狙って失敗したり、やりたくて共有したりしたわけではなく、完全に偶然で事後的なのだが。
 またもしかすると、私の思い切った失敗が生徒の失敗の許容範囲を広げることに成功しているのではないか、と都合よく考えたりもしている。失敗していいんだ!という雰囲気が、いまの授業の空気を作っているのかもしれない。私もたまに開き直って「今日の授業、うまくいかなかったなあ。どうすればうまくいったかね?」と聞いてみることがある。すると生徒は、「うーん。もうちょっと考える時間が欲しかった。」「いや、テーマが難しいっすよ」と、何気にフィードバックをくれる。おかげで私自身も、失敗の許容範囲が広がっている。

良い授業という呪縛

 とはいえ、自分だってどんな名だたる実践家だって、「自分のことは他人によく見せたい」という心理が働くのは当然だ。しかも失敗ばかり書かれても、それを読んでやってみようという気持ちは起きない。
 けれどやっぱり思うのは、「すごい」授業をする実践家ほど、その何倍もの「しょぼい」授業もやってきているんじゃないか、そしてその「すごい」と「しょぼい」を色んな人と共有しているんじゃないか、ということだ。以前ある方に、「いやあ、ほんとにすごい授業でしたね」と言ったら、「そりゃあ数多の失敗や何倍もの辛酸を味わった上にある、ほんのちょっとの今日だから」と言われて妙に納得した。なるほど、と。
 たまに良い時もあれば悪い時もある。普段と違うことにチャレンジすればうまくいかない事の方が絶対に多い。なんだかそういう当たり前のことに気がつけなくなるくらい、良い授業をやらなきゃと気負って、肩に力が入りっぱなしの時がある。そういう呪縛のようなものが、逆に自分をぎこちなくさせる。

本当は授業なんて、失敗ばかりだ。

 この記事に出ている教員の誰もが、ちょっと多めに失敗を繰り返している人たちであることは、一緒に勉強している私が一番よく知っている。そして私は、「これが新しい学びだ!」とか「これまでの授業じゃダメだ」とも正直思っていない。こんな失敗ばかりの授業実践を読んで「こんな授業やってもいいんだ!」と思ってもらえたら嬉しい。やってみれば失敗することもあるかもしれないが、それが当たり前なんだと思う。
 そうすると、意外と何も失っていないし、誰にも敗れていないことに気づくかもしれない。

  

    




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