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教員の仕事と時間、そしてブルシット・ジョブ


 教員の働き方改革が進んでいないらしい。
 教員の働き方を変えなければならないのは大いに賛成なのだが、「時間」を教員の仕事を測るものさしとして強調しすぎる最近のムードには慎重になるべきだと私は考えている。今回はその辺りの考えをまとめたい。

教員の仕事は時間では測れない

 教員の働き方改革をめぐる動きのなかで、「定額働かせ放題」という言葉に代表される、勤務時間外の仕事には残業代を出すべきだという主張が目立つ。時間外に働いた人が残業代を求めるのは全くその通りだと思いながらも、私も残業代が欲しいか?と言われると、ちょっと躊躇してしまう。なぜなら、勤務時間外とか時間内とか、時間によって教員の仕事を測る感覚がほとんど無いからだ。
 私は、教員の仕事を時間で測定することはできないと思っている。時間で測定するものでもない。やってみればすぐに分かる。そして私は、そこが最大の魅力だと思っている。
 こんなことを言うと、「あなたのような教員が持っている勤務時間に対する鈍い感覚が、労働搾取の格好の餌食になっている!」と言われそうだが、ちょっと待ってほしい。労働を時間で測ることこそ、雇用主が時間内の仕事を効率よく管理するための手段として生まれたことを忘れてはならない。

勤務時間とブルシット・ジョブ

 仕事は時間で測ることができるのか?自分でさえもその仕事に何の意味も見出せない「クソどうでもいい仕事」が、社会に溢れている現状を描いた「ブルシット・ジョブ」という本。この本に仕事と時間を結びつけたヒントがある。
 著者のデヴィッド・グレーバーは本書で、歴史的には本来仕事は、畑一面を収穫するといった「内容」ごとに依頼されるものであったが、工場などで雇用主が労働者と雇用契約を結ぶ際に「時間」で測るシステムが生まれたと言う。仕事を時間で測るシステムは、雇用主が労働者に、勤務時間内はしっかり命令された仕事することを約束させる制度であると説明する。
 クレーバーはこう主張する。

「時間とは、仕事の測定を可能とする解読格子ではない。なぜなら仕事は、それ自体が尺度なのだから」

 さらにグレーバーは、勤務時間内は雇用主が労働者を管理する時間であるという考え方が、ブルシット・ジョブが生まれる原因の一つとなったことを指摘している。例えば皿洗いの労働者が、その日の皿洗いを全て終わらせて休んでいたら、雇用主に「おい!時間まではサボらずに机や床を磨くなど仕事を見つけて働け!」と言われる。そして命令された労働者は、雇用主が満足するように勤務時間ギリギリいっぱいまで働いているようなフリをし始める。そこにグレーバーは、「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の萌芽を見た。

 仕事を時間で測定し、さらに時間外労働を主張するということは、雇用主からすれば、時間内はちゃんと働いているのか?という疑義を生むことになる。時間内に適当に仕事してる労働者に、時間外労働をしたからと残業代を出すわけにはいかない。これは時間外だ、残業代を出せ、という物言いは実は諸刃の刃で、教員の仕事が時間によって管理されることを認め、さらなるブルシット・ジョブを生み出すことに繋がるのではないか。

部活動を勤務時間内に設定した自治体


 すこし前にNHKの番組で、とある自治体の中学校が4時半下校を始めたことを報じていた。その仕組みは、授業を水曜日に7時間に詰め込むこと(普通は5時間)で、部活動を完全に勤務時間内に組み込むというもの。これはもう、「部活は教員の仕事の内容か否か?」という議論を超えている。勤務時間内であれば7時間目も部活動も職務です(だからちゃんとやってね)、ということになる。
 この動きは注意が必要だと私は思う。
 さらに、4時半下校にしたことで、地域や保護者から子どもたちの放課後の過ごし方についての課題を寄せられるのだが、その時の校長会でのコメントもちょっと看過できない。

「下校が早まった時間を、どう使えば将来の自分のためになるのか考えさせていくのが、我々の仕事。子どもたちに自由な時間を作った以上、そこをどうコーディネートしていくか。学校の責任はまだ終わっていないのではないか」

 考えてみれば、我々教員が授業を内容ではなく時間で測る習慣が、「子どもたちの自由な時間をどうコーディネートするのか」という倒錯した発想につながるのかもしれない。例えば授業で出された課題をいち早く解き終わって休憩していたら、「ねえ!時間まではサボらずに自分で先の問題をやったり友達におしえたりなどやる事を見つけて勉強しなさい!」と教師に言われるように。

仕事を何時間するかではなく、何をするか、しないか


 私たち教員は、自分たちの仕事を時間で測ることにすっかり慣れてきていることに気をつけるべきだと思う。仕事を何時間するかではなく、仕事で何をするか、しないかで議論すべきだ。そうしなければ、教員としての仕事の裁量をどんどん奪われ、勤務時間内は言われた通りの仕事をやりなさい、さらにちゃんと仕事したか(やってるフリをしたか)報告しなさい、ということになりかねない。
 教員の仕事である授業や子どもとの関わりは、本当はものすごくクリエイティブだ。
 まずは、言われた通りの仕事をやらない、ブルシット・ジョブを捨てるだけでもかなりの働き方改革になると思うのだが。(もっとも、教員自身が言われた通りの仕事を欲していることも危惧すべきなのだが。)

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