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麦茶

 いつの頃からだったかもう覚えていないが、我が家は夏でも冬でも一年中、麦茶が冷蔵庫に常備されている。もちろん、それはペットボトルに入って売っているものではなく、やかんに湯を沸かしパックになっている麦を煮出した麦茶である。

 普段飲むものが麦茶にコーヒーと決まっているせいか、冷蔵庫に他の飲料が入っていることは滅多にない。この麦茶も残り少なくなってくると、母がやかんで来る日も来る日も沸かしていた。

 家で煮出した麦茶を飲むのが当たり前であったから、私も母もわからなかったが、ペットボトルに入って売っている麦茶は大きな声では言えないが、美味しくないらしい。きっと、家で沸かした自分好みの麦茶よりも味が薄かったのかもしれない。言い出したのは母だった。思いがけない入院をした際、水分をしっかり摂らなければいけないということで、私は水と麦茶を差し入れた。その時、麦茶を飲んだ母が気づいたのだった。

 退院後、母の代わりに台所を切り回していた私が沸かした麦茶を、お湯から上がった母が冷蔵庫から取り出し、コップに注いで飲んだ時、私にしみじみと言った。

「やっぱり、家で沸かした麦茶は美味しいねぇ」

 そんなに違うものかと、私は眉を吊り上げて驚いて笑ったが、麦茶を買って飲むという発想がない私は、未だに市販の麦茶が本当に美味いのか不味いのか分からないままだが、満面の笑みを浮かべてこんな殺し文句を言われては、何を差し置いてでも麦茶を沸かさないわけにはいかない。

 二リットルの水を入れた重たいやかんを持つことが大儀になった母の代わりに、私が麦茶を沸かすことになった。幼い子供ではないが、いささか薹が立った麦茶当番である。

 冷蔵庫の中にあとどれだけ麦茶が残っているかをチェックして、その減り具合によって沸かす。ついうっかり他のことに気を取られていると、麦茶の減りに気づかず沸かすのを忘れてしまう。そうなると、沸き立ての麦茶が入ったやかんを水につけ、冷まさなくてはならない。何度かそれを繰り返した後、容器に注いで冷蔵庫に入れる。これも手間であるが、それでも私は気が気ではなくなり、どんなに夜遅くとも麦茶を沸かさずにはいられないのでる。

 母が退院してから二月が経ったある晩、冷蔵庫を覗くと麦茶がもういくらもないことに気づいた。いつものように景気よく蛇口をひねり、やかんに水を入れている時だった。
 どんどんとやかんに水が溜まっていく。やかんを持つ右手にずっしりと重みがかかる。やかんの取っ手が私の手を下へ下へと引っ張っていく。この重みは単なる水の重みではなく、我が家の家族の重みなのだと思った。この重みをあと何年、私はこの手で感じることができるのだろうか。

「やっぱり、家で沸かした麦茶は美味しいねぇ」

 まるで小さな子供が親にでも言うように、そんな殺し文句を言う母も、そんな気の利いたことを言わない父もいずれ居なくなった時、私は飲みきれないとわかっていても、また、二リットルもの麦茶を沸かすのだろうか。

 重たくなったやかんを持ったまま、急に妙なさびしさに襲われた私は、しばらく流しの前に立ち尽くし、柱時計が夜の静寂(しじま)を打ち砕くまで、動くことができなかった。
 

2024年6月15日 書き下ろし

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