花として
滅多に花など飾らない暮らしをしているものだから、彼岸や盆の時くらいしか花を買わない。
そんな調子であるから菊やりんどう、カーネーション等、それくらいのものしか毎年馴染みの花がないのである。
こんな時ばかりと、書き入れ時の花屋は仏前に飾る花の値段をいつもより高くする。
仏さんに供える花が高くなることを仏さんに愚痴ってみても仕方がないのだが、ついつい言いたくなってしまうのが、女親である母親の感情というものなのだろうか。
そんな風にして、花瓶に活けて花を供える訳だが、ちょっとした手加減でかわいらしい蕾が茎から落ちてしまったり、花瓶の高さで埋もれてしまう背の低い花が何本か出て来るものである。
そんなちびっこい花は、それとは別にして使わないコップに挿して、部屋に飾っている祖母の遺影に手向けるのだが、たった二、三の花でもかわいらしい蕾を見ると、どうせなら蕾のままで終わらせることなく、最後まで花として咲かせてやりたいと思うのである。
菊の切り花は中々どうして、固い蕾から花を咲かすことは余りない。私の育て方が悪いだけなのかもしれないが、全ての蕾が花開いたことはなかったような気がする。多少でも開きかけている蕾だと、何とか咲いてくれるのだが、そうでないと首の辺りが骨折でもしたように、下を向いたまま枯れてしまう。こんなさびしいことはない。
彼岸に飾った小さい菊が、段々と黄色い花を咲かせ始めた。まだ全開ではないが、もう少しで大きなあくびをするように開き切りそうである。
私に出来ることは、毎日の水の取り替えと茎の先を鋏でほんの少し切り落としてやるくらいだが、それでも花としてこの世に生を受けたなら、花として咲かせてやりたい。
そう願うのが人情というものではないだろうか。
どんなに小さい花であっても花は花なのである。
限界はあるかもしれないが、どうにかして咲かせてやりたいと思うのである。
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