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【麦酒夜話】第三夜 飲めなかったワンパイント

 文句の多い人は、どこの組織にも一人はいる。クラスにも、バイト先にも、サークルにも。同僚にも一人いた。内務部門のJさんだ。

 会社には締め日というものがあって、経理処理が集中するのだけれど、それがためにJさんは毎月同じように不機嫌になる。こちらが提出した書類を受け取らない、受け取っても一言文句を言う。なぜこんなタイミングなのだ。寝かせていたのではないか。先月も同じ話をした。今月は特にひどいのではないか。文句を言われる私も締め日は忙しく、いちいち付き合っていられない。しかし、この文句を聞かなければ、先にも進めない。精神鍛錬のつもりで、文句に付き合うようにすると、次第に雑談友だちになっていった。

 Jさんは、雑学が好きだ。締め日でなければ、心に余裕があるようで、何かと毎回捕まってしまい、雑談に付き合わされる。大体が言葉の由来や、漢字の成り立ちの話だった。回文が趣味で、何度か披露してくれたこともあった。

 美術にも造詣が深かった。上野に行って、初めてその場でどういった展覧会が開催されているのかを知り、チケットを購入して観るのだという。行き当たりばったりでも楽しめるのは、それだけ幅広く絵画の知識があるからだろう。ほとんどの週末は、美術館で過ごしているようだった。

 そしてビールが好きだった。HUBがお気に入りで、オフィス近くの店に毎週のように通っていた。私もよく行く店だったが、時間帯が違うからか、不思議と出会すことはなかった。その後オフィスが移転すると、3駅先のターミナル駅まで出ないとHUBはなく、私はすっかり行かなくなったのだけれど、Jさんは、そこが帰り道のようで、時々は通っているとのことだった。平日に1パイントだけ。さっと飲んで、さっと帰る。ついつい2杯目を飲まずにはいられない私にはできない芸当だ。

 Jさんは、大体見た目通りの年齢で、もうすぐかなと思ったら、その通りで定年を迎えた。いつもお世話になっているので、マグカップをプレゼントした。わざわざお返しをもらうほどの品ではない。そう伝えると、そうですかと怪訝そうな表情を浮かべていた。とはいえ律儀なJさん。大したものではないからと、お返しをくれたのだ。そこにはおしゃれな絆創膏。恵比寿で開催中の森山大道展で購入したのだという。ちょっと意外なチョイスだったけれど、こういった気遣いができる大人でありたいとつくづく思った。お返しのお返しではないけれど、渋谷PARCOでもらったHUBの無料券を差し上げると、子どものように喜んでくれた。そして、飲んできた報告までいただいた。

 東京へ来て早14年。これだけ話をしてきたJさんと、まだ一度も飲みに行ったことがない。HUB、ビール好きという共通点があるにも関わらず。しかし、後悔先に立たず。ある朝、出社するとJさんが急逝されたと社内メールが回覧されていた。明け方に起きた心臓の異変だったようで、前日も通常勤務だった。昨日は通勤が一緒だった。エレベーターで会話をした。同僚たちが口々に「だから信じられない」との言葉を発する中、私は茫然と彼のデスクに行き、背もたれに、ずれてかかっていた彼の上着を掛け直した。

 あんなに普段から話したのだから、もう話すことなんてなかったのかというとそうではない。Jさんは雑学や美術の話ばかりで、自身の話をあまりしなかった。心臓が悪く、近々手術があることは知っていた。でも、出身地も、入社経緯も、どういった仕事をしてきたかも、そういったことは全く知らなかった。聞きたいことは山のようにあるのだ。

 もし一緒にHUBへ行けたなら、Jさんはラガーを頼んだのだろうか。エールを頼んだのだろうか。そんなことすらわからない。ただこれだけは言える。1パイントでは終わらない。

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Connecting the Booksは、これまで培ってきたクリエイティブディレクター、コピーライター、編集者としてのノウハウを公開するとともに、そのバックグラウンドである「本」のレビューを同時に行うという新たな試みです。