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人の成長を願うということ 〜10年越しのセレンディピティに想う〜

本格的なフルリモートワークがスタートしてから2週間。時間の2〜3割くらいは、既に決まっていた企画の調整やリスケが主な仕事だったように思う。厳しく、制約が大きい状況の中でも、今できること、大切にしたいことにフォーカスして、ご一緒に仕事を調整してくださるクライアントの方々には、本当に感謝の念が絶えない。

そんな中、先日は嬉しい出逢いもあった。

長年変革の取り組みをご一緒しているクライアントでの現場インタビュー。こちらも当初は現地に出向いての取材予定であったが、自粛要請を受けて、Zoomでのインタビューに切り替えていただいたところだった。

初見の人とのインタビューをオンラインで行うのは自分にとっても初めての経験。些かの不安も抱えながらZoomにアクセスする。ところが、現れたのはどこかで見たことのある顔。お相手は、10年くらい前に取り組んだ、あるプロジェクトでご一緒した現場リーダーの一人だった。

事前にお相手のお名前を伺っていた時は、すっかり失念してしまっていたのだが、お顔を見て忽然と蘇る10年前の記憶。当時のプロジェクトも奇しくも震災の影響を受けて大きくスケジュールの変更を余儀なくされたものだった。

再会の喜びに浸りながら、いざインタビューに臨む。

自らの実践や想いを堂々と語り、メンバーを気遣い、新型コロナで大きな影響を受けたであろう、自身の仕事に真摯に向き合おうとしている姿勢に触れる。終始笑顔が絶えない和やかなインタビューであったが、私の心の中では、なぜか涙が止まらない感覚があった。

過去の記憶をたどると、当時から信念が強く、素晴らしい資質や感性をもった方だなと感じていた一方で、とがったところが周りとぶつかる中で、もしかしたら多少息苦しさを感じている部分もあるのかななどと、勝手ながら思うところもあった。

しかし、1時間余りのインタビューからは、時を経て、当時の力強さはそのままに、そこにしなやかさと包容力が加わり、さらに素晴らしいリーダーへと成長している姿がしみじみと伝わってくるようだった。

「関わった人が、長い時空を経て、想像や枠組を超えて成長している姿に出逢うことができる。そして、その成長を願うことができる。」それは、人の成長に携わる仕事をしている人にとって、この上ない至福の喜びの瞬間ではなかろうか。

こうした瞬間に立ち会いながら、ふと以前に同僚から教えてもらって読んだ内田樹さんのコラムにあった「教育の本質的豊穣性」という言葉が思い浮かんだ。

そこでは、教育の豊穣性がこう語られる。「自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。この不条理のうちに教育の卓越性は存する。それを知って『感動する』というのが教師の唯一の条件だと私は思う。」(内田樹、「教育の奇跡」から引用)

私自身は教師ではない。人に何かものを教えられるとも、教えようとも思っていない。

しかし、人の成長をこころから願ってプロジェクトの場づくりを行うものとして、この豊穣性、言い換えると表層にある意図や能力を凌駕して、人の本質的な価値が顕れる可能性に喜びを見出せる感性に、深く共感する自分がいる。

それは今回のインタビューの邂逅のように、出力過剰の存在や素晴らしさを、これまで幾度となく体感させてもらってきたからだろうか。あたかも豊穣の神から気まぐれにいただけるギフトのように。そして、自分たちの狭い枠組のみで刹那的に教育の効果やROIを測定・評価しようとすることが、時には実に浅はかなことであるのではないかと感じさせてくれるくらい十分に。

清々しく終わった1時間のインタビュー。あいにくこのインタビューを形にするプロジェクトも、その後新型コロナウィルスの影響で秋以降に延期になってしまった。しかし、不思議と残念な気持ちはあまり湧いてこない。こうした1つ1つの時間の積み重ねがまた別の花を咲かせることにつながる可能性を深いところで信じているからだろうか。今回の危機に対峙する私たちが、未来にどんな豊穣を生み出せるか、そんな可能性を願う自分でありたいからだろうか。