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第八話 夢見心地 連載 中の上に安住する田中

 夢見心地でもなければ、今日という日を完了することは決してなかっただろう。

 会議のプレゼンテーションの用意もなかなかに、夢うつつな表情を取引先の奴らに見くびられ、しまいには元彼女からと思われる携帯の着信音がオフィス中に響き渡っていた。上司や同僚は普段の私とあまりにもかけ離れた行動に困惑しながらも、
「いつも真面目にやってくれているから、今日くらいは……」
 などと大目に見てくれていた。ただ、アマ○ンでレコードプレーヤーを品定めしていたら、流石にしびれを切らした上司が大声をあげて注意してきた。だが、そんなことで懲りる私ではない。少なくとも今日からは。

 そういえば、と思って昨日買ったレコードの題名を検索窓に打ち込んでみると、英語の苦手な私にはどう読むのか検討もつかない歌手の名前が画面の上方に現れた。英語版のウィ○ペ○ィアのページにアクセスして、言語選択窓の日本語をクリックした。Esther Beauharnaisと書いてエステェ・ボアルネと読むらしい。暫くの間、グー○ル画像検索の恩恵に授かり人類の英知に感嘆していると、再び上司の怒号が飛んできたように思ったが、私の耳には全然響かなかった。

「もう今日は帰れ」
 例の上司がそう言ったのを良いことに、というよりかは、そう言われた側から、私は職場用のカバンも席に残して、オフィスビルの四十五階から秒速五キロで地上に舞い降りた。
 家では彼女が待っている、と足早に家に帰ると、そこには二人の「彼女」がいた。一人は私のもので、一人は私のものではなかった。一人はダイニングの椅子に座って、もう一人は、今朝部屋を出たときと一寸もずれることなく、テーブルの上に寝転んでいた。

 昨日までは私のものだったが、今は私のものではない方の彼女は、私を二十四時間前までタイムスリップさせた。正確には私の心理的状態だけだが、人間の認識はその心理によって定義されているだけだからタイムスリップしたと言っても全く過言でない筈だ。
 有る種の放心状態に陥りそうになる自分を戒め、なんとか正気は保ったがこちらから会話を切り出すのは不可能だし、そんな筋合いもないし、そんな勇気もない。私はなるべく普段通りの手順で靴を脱いで、コートをハンガーに掛けた。私はいつも通り、ダイニングへと足を進めていった。
 何か言い出すだろうという不確かでぼんやりとした希望を胸に彼女の反応をいつまでも待っている私に、彼女は急に抱きついてきた。何が何だかわからなくなり、私は不意に笑い出してしまった。

 続く

第九話 超現実的な精神離脱

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連載 中の上に安住する田中 ——超現実主義的な連載ショートショート——

お読みいただきありがとうございます。普段は京都市芸で制作をしながら、メディア論や写真論について考えています。