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【特集】幻の遊園地を探して

【2022年11月1日/大阪歴史倶楽部】

はじめに
明治時代に夏目漱石も訪れたという、大阪市にあった幻の遊園地「天下茶屋遊園地てんがちゃやゆうえんち」についてご紹介いたします。

今回はいつもより長い記事となってしまいました(約7,300字)。すみません。けれども、貴重な文献をいくつも引用したり写真もたくさん(20枚)掲載致しました。もしよろしければ、お時間がお有りのときにでもご覧いただければ嬉しく有り難く存じます。


天下茶屋遊園地
天下茶屋遊園地てんがちゃやゆうえんちは、現在の大阪市阿倍野区あべのく橋本町はしもとちょう相生通あいおいどおり晴明通せいめいどおりの範囲内にあったとされています。戦前の「天下茶屋」は現在の「天下茶屋」と呼ばれている地域(おおむね大阪市西成区にしなりくの南海電鉄および大阪メトロ堺筋線さかいすじせんの天下茶屋駅周辺地域)よりも(とくに東のほうに向かって)かなり広い範囲をさしていました。

現在、天下茶屋遊園地の跡地であろうとされている大阪市阿倍野区の晴明丘せいめいがおか小学校のフェンスには、大阪市教育委員会が設置した史跡顕彰板があります(後ほど詳しくみます)。

(01)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(全体)

当時の遊園地は、現在の私たちがイメージする遊園地のようなアトラクションなどがあったわけではなくて、どちらかといえば「風光明媚な公園」という意味合いが強いものでした。上記の大阪市教育委員会によって設置された史跡顕彰板に掲載されている写真を見ても、池と和風の建物が写っているだけのようです。

(02)史跡顕彰板掲載の写真

下の写真は、上記写真を大阪歴史倶楽部が独自に自動でカラー化を試みたものです。

(03)自動でカラー化を試みました

下の2枚の写真は、現在の晴明丘小学校付近の様子です。

(04)晴明丘小学校(東から)
(05)晴明丘小学校(西から)


付近の概要
現在の大阪市阿倍野区あべのく橋本町はしもとちょう相生通あいおいどおり晴明通せいめいどおりの町名は、1929(昭和4年)8月20日の町名改称によって生まれました。

晴明通1丁目はもと阿倍野町の一部。晴明通2丁目はもと阿倍野町および天王寺町の各一部。相生通1・2丁目はもと阿倍野町および天王寺町の各一部。橋本町はもと天王寺町の一部でした。晴明通、相生通の名前はそれ以前の天王寺村であった当時から通称としてはありました。

橋本町の名前は明治の初め頃にこの地を開拓した橋本尚四郎・久五郎兄弟の名前から、相生通の名前は東(上町台地の上)の阿倍野村からの道と、西(上町台地の下)の天下茶屋村からの道がここで「相会う」という意味で、また晴明通の名前はこの地で生まれたとされる平安時代の陰陽師・安倍晴明の名前に由来しています。


天下茶屋遊園地に関する資料
天下茶屋遊園地に関するまとまった資料はなく、断片的な資料がいくつか散在しているに過ぎません。ここでは、それら断片的な資料を集めて読み解いてみたいと思います。

天下茶屋遊園地の正確な場所については、現在ではよく分からなくなっています。上記の大阪市教育委員会による史跡顕彰板には、

[上段]
天下茶屋遊園地跡
(阿倍野区橋本町)
明治25(1892)年頃、当地付近の開発を行った橋本尚四郎・久五郎兄弟によって開園された行楽地でかつてこの地にあった鯨池を中心として料亭や茶室を配した風光明媚な公園であった。
大阪市教育委員会

[下段]
かつてこの一帯は植木山と呼ばれ、 明治 20 (1887)年頃まで田畑や原野の広がる場所であったが、当時、天王寺警察署長であった野田正教の創案により、橋本尚四郎らが私財を投じて開発した。地名の橋本町はこれにちなむ。
この遊園地は周辺の開発事業の一環として計画されたもので、この場所にあった鯨池(くじらいけ)という小池の廻りに「千成楼」・「瓢亭」といった料亭や茶室を配していた。今日イメージする遊園地とは異なり、自然条件を活かした風光明媚な公園であった。
明治36(1903)年、天王寺公園で開催された第5回内国勧業博覧会の折には貴族や政府要人が多く訪れ、 また明治42(1909)には、遼東半島・朝鮮半島の旅からの帰途、夏目漱石も来訪しており、「閑静にて家々皆清楚なり、秋光澄徹頗る快意」 と日記(10月15日)に残している。

(大阪市教育委員会による史跡顕彰板)

とあります。

(06)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(上段)
(07)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(下段)

また1899(明治32)年発行の『南海鉄道案内』には、

天下茶屋遊園
此公園は好況の遊所といふ意味で、真個の公園ではありません、二八年に野田橋本の両氏が発起で開発したので、今では、千成楼、瓢々亭、ひさごやなどといふ料亭が出来、かすがといふ待合もあり、写真屋もあり、豪商紳士の別荘なども建られ、多くの植木屋がありますから、自然四時の花を見ることが出来、月にも雪にも好い遊び処です。此公園の写真は、公園の上の橋の上から北を向いて採影したのです。
(※原文旧字体)

(『南海鉄道案内』1899年)

とあります。

(08)『南海鉄道案内』「天下茶屋遊園」
(09)上記『南海鉄道案内』掲載の写真01
(10)上記『南海鉄道案内』掲載の写真02


また、1912(大正元)年発行の『南海の栞』には、

天下茶屋遊園
天下茶屋駅りよ(※大阪歴史倶楽部 注:ママ)四丁東

天下茶屋は林源次郎の復讐と是斎の和中散にて古来其名高し大阪に接近して交通便利なるが故に今は別荘と植木屋多きを以て其名を知らる遊園地は天下茶屋駅よりするも阿倍野線東天下茶屋停車場よりするも四丁図斗りにして聖天山の南にあり公園とは其趣異にすれど四季花の絶ゆる間なし。
(※原文旧字体)

(『南海の栞』「天下茶屋遊園」1912年)

とあります。

(11)『南海の栞』「天下茶屋遊園」1912年


1925(大正14)年発行の『天王寺村誌』には、

これの計画は、時の天王寺警察署長野田正教氏の創案に関わる。氏は夙に地方開発の志あり。且つ、此地故橋本尚四郎と友とし好し、乃ち同氏及び道野源七、増山正直其の他の有志を促し、鋭意達成を冀へるものたり。
(中略)
勢、概ね斯の如し。野田氏の特に開発を企つ亦洵に偶然にあらざるなり。而して、氏は即ち先づ本村大字天下茶屋『鯨池』を中心として、北、聖天山、南、阿部野神社、東、大字阿部野江久保家附近、及び、西、坂下桜筋を画れる元、植木山と称せし一区、約十五万坪を以て一大『遊園地』を設置せんことを期せしものたり。
(中略)
既にして、道路を拓き、又南海鉄道株式会社と計り、一に交通を便にし、且つ、風景絶佳の所をトして『千成楼』(初め聖山天に設けたりしも、後、野田橋東南側に移したるものにして、大阪市東区博労町魚利支店として経営せるものなり)『瓢亭』(聖天山の南高地現在森氏邸内。其の他今は西隣玉出町に属するも、其の際専ら天下茶屋と称へ来りし時の天下茶屋駅東辺に『瓢々亭』なるものを経営し、是亦遊園地と相俟って切りに遊客を招けり…是等は皆天下茶屋=太閤=瓢=を連想せるもの)を設営せしめ、又、富田屋共の他の遊女をして盛装歌舞を演ぜしめ、切りに遊客を招き以て発展の端を開けり。
(※原文旧字体)

(『天王寺村誌』「修補 其二 天下茶屋遊園地」1925年)

とあり、このことから、
「当時の天王寺警察署長野田正教氏の創案で、南海鉄道(現在の南海電鉄)によって『鯨池』を中心として、北は聖天山、南は阿部野神社、東は大字阿部野江久保家附近、西は坂下桜筋の範囲で、もとは植木山と呼ばれていた地域(約15万坪=約50万平方メートル)を『遊園地』とした」
ということが分かります。

1956(昭和31)年発行の『阿倍野区史』には、

明治十年の頃では地価もなく一反に凡そ清酒五升乃至一升を添えて譲渡する如き状態で極めて寂しい処であったが、元来が高台地で風景に勝れた地点であることから(※大阪歴史倶楽部 注:明治)二十五・六年時の天王寺警察署長野田正教が天下茶屋・聖天山・阿倍野神社一帯に遊園地の計画などを企て、漸く高級住宅地として世人の認識を得た。もとより日清・日露両戦役以降の大阪市の膨張が天王寺村・住吉村の発達の主因であるが、交通機関も漸く整備されるに至っては大阪市周辺中正に絶好の住宅地と目されたのも当然であった。

(『阿倍野区史』「第七章 明治時代」1956年)

とあります。このことから、
「1877(明治10)年の頃には、地価もつかないような荒れ地だったが、もともと見晴らしの良い台地で明治25・26年当時の天王寺警察署長であった野田正教氏が、天下茶屋・聖天山・阿倍野神社一帯に遊園地の計画をたてた」
ということが分かります。

さらに大阪歴史倶楽部が調べてみますと、1929(昭和4)年8月20日の町名改称にあたって(それに先立って?)当時の阿倍野区長が発行した公文書(申報)に、

明治の初年大和の与力橋本尚四郎氏及兄久五郎氏は此地に移住し、天下茶屋と唱え特に白字を以て天下茶屋を表徴して盛に売薬その他の行商人を派遣し此地の開拓に努力し、故人尚四郎氏は智謀衆に勝れ夙に大阪府会議員に推され又明治二十五年五月頃天王寺警察署長野田正教氏其他の同志二三名と共に頻に天下茶屋の発展を計り当時僅かに戸数百六、七十戸なりしに自邸に明治大帝の行幸(明治元年、同十年)を仰ぎ、二度の行幸を千古に胎す等事功洵に尠少ならず南海鉄道の前身阪堺線北天下茶屋、聖天坂停留場の設置に奔走し且つ聖天坂の道路開設に着手し、日夜東奔西走し多額の自費を投じ更に明治二十七年五月此地に天下茶屋遊園地を設けて土地開発に努力し是又多大の自費を投じ自己の家庭を失ひ遂に晩年に於いて不遇の境涯に陥りたりと雖も今日天下茶屋の一大発展を見たるは全く氏に負う所とす此に橋本氏の由緒を記念する為め名称を付したる所以なり。
(※原文旧字体)

(『阿倍野区史』1956年より)

とあることを見つけました。この公文書(申報)は、1956(昭和31)年に発行された『阿倍野区史』に引用されています。

これによると、
「明治の初め頃に大和国(現在の奈良県)の与力であった橋本尚四郎・久五郎の兄弟が阿倍野区に移住して来て、橋本尚四郎氏はその後大阪府議会議員となった。橋本尚四郎氏の自宅には1868(明治元)年と1878(明治10年)に明治天皇が訪問された。1892(明治25)年の五月頃に当時の天王寺警察署長であった野田正教氏やその他の2~3人とともに天下茶屋地域の発展を計画した。またさらにその後に橋本尚四郎氏らは南海鉄道の前身である阪堺線(現在の阪堺電気軌道)の「北天下茶屋きたてんがちゃや」駅や「聖天坂しょうてんざか」駅の設置に奔走したり聖天坂地域の道路を開設したりした。そして1894(明治27)年5月に天下茶屋遊園地を設置した」
ということが分かります。冒頭の大阪市教育委員会の設置した史跡顕彰板によると、夏目漱石がこの天下茶屋遊園地を訪れたのは1909(明治42)年とのことですから、遊園地が開園してから15年後のことだと分かります。

また、竹谷新という人が、月刊誌『大阪春秋』第40号(1984年発行)に「天下茶屋遊園地のこと」と題して短いエッセイのような文を書いておられます。在りし日の天下茶屋遊園地の様子などについて詳しく書かれているのですが、その文をここ(インターネット上)に引用して不特定多数者に公開することは著作権法違反(著作権の侵害等)となりますので、ここでの引用は控えます。興味がおありの方は当該の『大阪春秋』(第40号/1984年)をご覧になってください。


まとめ

現在の大阪市阿倍野区あべのくにあったとされる遊園地「天下茶屋遊園地」について、その概要をみてきました。その結果、

天下茶屋遊園地は、現在の阪堺電車「東天下茶屋」駅から西へ4丁(約430m)ほど行った所の聖天山の南側にあり、鯨池という池があって四季の花が絶えることのない美しい見晴らしの良い公園であった。

この土地は、もともとは地価がつかないような荒れ地だったのを橋本尚四郎・久五郎の兄弟や当時の天王寺警察署長野田正教氏などが天下茶屋地域の開発・発展計画を策定し、南海鉄道(現在の南海電鉄)等によって1894(明治27)年5月に『鯨池』を中心に広さ約50万平方メートルの「天下茶屋遊園地」が造られた。

そして夏目漱石は1909(明治42)年にこの天下茶屋遊園地を訪れた。

などということが分かりました。阪堺電車「東天下茶屋」駅から西へ430mほどの所には現在、大阪市立晴明丘せいめいがおか小学校があります。大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板がある場所です。

余談ですが、上に引用した当時の阿倍野区長が発行した公文書(申報)によると「橋本尚四郎氏の自宅には明治天皇が1868(明治元)年と1878(明治10年)の2回訪問された」とは驚きですねぇ。

現在この天下茶屋遊園地の跡地に立ってみても、そのあたりの航空写真を見ても、また地形図をみても天下茶屋遊園地の痕跡は全くありません。まさに「幻の遊園地」となっています。

(12)天下茶屋遊園地跡地付近
(13)付近の航空写真(Google Earth)
(14)付近の地形図(国土地理院地図)


天下茶屋遊園地跡への行き方

天下茶屋遊園地跡へは、阪堺電車はんかいでんしゃ(阪堺電気軌道)上町線うえまちせんの「東天下茶屋ひがしてんがちゃや」駅から西へ約500m(徒歩約10分)です。大阪市立晴明丘せいめいがおか小学校北側のフェンスに史跡顕彰板が設置されています。

(15)阪堺電車「東天下茶屋」駅

また、その他の鉄道を利用する場合は、南海電鉄および大阪メトロ堺筋線さかいすじせん天下茶屋てんがちゃや」駅から南東へ約1km(徒歩約20分)、阪堺電車はんかいでんしゃ(阪堺電気軌道)阪堺線はんかいせん聖天坂しょうてんざか」駅から東へ約500m(徒歩約10分)、大阪メトロ四つ橋線よつばしせん岸里きしのさと」駅から東へ約1.2km(徒歩約20分)、大阪メトロ御堂筋線みどうすじせん昭和町しょうわちょう」駅からは西へ約1.4km(徒歩約30分)です。

南海電鉄、大阪メトロ堺筋線、阪堺電車阪堺線、大阪メトロ四つ橋線を利用する際には途中、長い坂を登ることとなります。


おわりに(東天下茶屋付近の史跡散歩のすすめ)
天下茶屋遊園地跡の最寄り駅である阪堺電車はんかいでんしゃ(阪堺電気軌道)「東天下茶屋ひがしてんがちゃや」駅の上りホーム(南側ホーム)上には、大阪馬車鉄道発祥の地を記念して「馬車鉄道跡」の立派な記念碑が設置されています。

(16)馬車鉄道跡記念碑(正面)
(17)馬車鉄道跡記念碑(側面)

さらに、この「東天下茶屋ひがしてんがちゃや」駅から南東へ約200m(徒歩約3分)のところには、旧熊野街道に面して平安時代の陰陽師・安倍晴明の生誕地跡とされている「安倍晴明神社あべのせいめいじんじゃ」があります。

(18)安倍晴明神社

また、「東天下茶屋ひがしてんがちゃや」駅から東へ約200m(徒歩約3分)のところには、小説『檸檬れもん』で有名な、昭和初期に活躍した作家の梶井基次郎かじいもとじろう旧居跡の史跡顕彰板が阿倍野筋に面してあります(梶井基次郎の旧居そのものは残っていません)。

(19)梶井基次郎 旧居跡史跡顕彰板
(20)梶井基次郎 旧居跡史跡顕彰板(拡大)

今回ご紹介いたしました天下茶屋遊園地跡の最寄駅である阪堺電車「東天下茶屋」駅付近には上記のような由緒ある史跡があります。この地を訪れられた際には史跡散歩などをされてはいかがでしょうか?

今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

【謝辞】
今回、この天下茶屋遊園地について調べるにあたり大阪市立図書館さま、ならびに大阪市内各区の図書館さまには大変お世話になりました。ここに記して感謝の意を表します。


【参考にしたおもな文献】
◎『南海鉄道案内』南海鉄道 1899年
◎『南海の栞』南海鉄道 1912年
◎『天王寺村誌』1925年
◎『阿倍野区史』1956年
◎『大阪春秋』第40号 大阪春秋社 1984年
◎「天下茶屋遊園地」史跡顕彰板 大阪市教育委員会 2016年設置


【写真の出典】
(01)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(全体)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(02)史跡顕彰板掲載の写真(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(03)自動でカラー化を試みました(2022年10月 大阪歴史倶楽部 作成)

(04)晴明丘小学校 東から(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(05)晴明丘小学校 西から(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(06)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(上段)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(07)大阪市教育委員会設置の史跡顕彰板(下段)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(08)『南海鉄道案内』「天下茶屋遊園」1899年/パブリックドメイン(国立国会図書館蔵)

(09)『南海鉄道案内』掲載の写真01/パブリックドメイン

(10)『南海鉄道案内』掲載の写真02/パブリックドメイン

(11)『南海の栞』「天下茶屋遊園」1912年/パブリックドメイン

(12)天下茶屋遊園地跡地付近(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(13)付近の航空写真(Google Earth)

(14)付近の地形図(国土地理院地図)

(15)阪堺電車「東天下茶屋」駅(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(16)馬車鉄道跡記念碑(正面)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(17)馬車鉄道跡記念碑(側面)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(18)安倍晴明神社(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(19)梶井基次郎 旧居跡史跡顕彰板(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影)

(20)梶井基次郎 旧居跡史跡顕彰板(拡大)(2022年10月 大阪歴史倶楽部 撮影) 

(『大阪歴史倶楽部』第1巻 第7号 通巻7号 2022年11月1日)

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※次号は2022年12月1日に投稿する予定です。

《次号予告》
【文化財紹介】
(内容未定)
いつものように近代の文化財をご紹介させていただきたいと考えています。

※予告内容は変更する場合があります。ご了承ください。