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今の私の、noteの書き方。


書けないでいる。

何回かは書きかけた。さらさらと筆が進んで(?)数百字まで書いたものもあった。でも、それも結局消してしまった。

はた、と思考が止まり、書いた部分を読み直す。次第に、「これじゃない」感がしてくる。内容が薄っぺらい。着地点が見えない。説明だけが無駄に多い。稚拙な部分ばかりが目について、次の文が浮かばない。読み直すのも苦痛になり、とりあえず、下書きに保存、そのうち本当に書きたいのかさえも分からなくなる。このところ、その繰り返しだ。

似たような人はきっといるだろう。だからこんなに#noteの書き方の記事が読まれるのだ。中には毎日書いて毎日更新されている方もいて、内容や目的はそれぞれながら、そんな人たちが沢山いることに、素直にすごいなぁ、と思う。

きっと、そんな人たちは、書くこと自体が自然に生活に組み込まれているんだろう。ウンウン言いながら毎日推敲して公開する人だってもちろんあるかも知れないが、考える(ひらめく)→書くという行為が、苦労なくできるコツやシステムみたいなのを習得しているのだろう。

ならば、私が毎日欠かさずしてることはなんだろう?と、 #習慣にしていること、の記事も幾つか読んだ。‥みなさんスバラシイデスネ。分かったのは、自分が習慣にしていると言えるのは、朝起きてからブラックコーヒーを飲むことくらいだった。‥まだこれについて一本記事を書けるほど、私は習慣について思考を深められてはいない。


noteを、日記のように書く。そんな人も多いらしい。毎日続けるコツに挙げている人も何人もあった。誰かに見せるためではなく、自分のためだから、続けられる、と。

何をかくそう、私も紙のノートには日記をつけている。(最近では毎日と言うより3日・4日ためて、まとめて書くスタイルではあるけれど。)5年日記が今年で3冊目になった。これだけ続いてるんだから、私書くこと嫌いじゃないし、というのが、noteを始めた理由の一つでもある。


なのに、noteだとなかなか書けない。やっとこれが4本目だ。時間がない、は理由にならない。書くことが見つからない訳でもない。なら、何故か。

紙の日記は完全に、自分しか読まない。たまに子どもがのぞいてきたりはするけれど。夫が見ることもまずない。実家にいた時も書いていたが、親や兄弟が読むことも(おそらく)なかっただろう。日記はそもそもそういうものだ、と思う。私が死んだら、読むなり焼くなり、残った人にお任せしよう。生きている人が困るようなことは書いていないはずだし、多分全部読むような身内もいないだろう。

でも、いくら自分のために書くと言ったって、noteは人に見せるものだ。少なくとも自分はそう思っている。そして、毎日人に見せるための文章を書く、と言うハウツーを幾ら読んでも、どうも、自分が書きたいのはそんなものではないという気がする。

さらに、書くことにビジネス的な目的がある訳ではないので、内容も対象も、完全に、自由。書かなくても、誰も何も困らない。

誰に向かって、何のために書く?


何人もの人が挙げていた、書くにあたって大切なこと。


初めのプロフィールにはこう載せた。
あっという間に過ぎ去る日々、忘れていってしまう出来事、折々の想い。それをつなぎ止めるために書きたい、と。
私が書きたいのは、結局は、日記なのだ。

ただ、それを読んだ人が、もしかしたら、それに共感してくれるかも知れない、そんなこともあるんだと立ち止まってくれるかも知れない。私が読んできたかつての文章に、勝手に共感したり、何かを発見したりしたように‥ほんの少しそんなことを期待したから、私はnoteを始めようと思ったのだ。

こんなことがあったんです。こんな風に思ったんです。私。

それを見てもらうためのnoteだから、やはり、紙の日記のようには書けそうにない。
本当にそれを言葉に残したいのか?本当にそう感じたのか?自問自答して、推敲して、打ったり消したり、ああやはり自分には文才がない、そう思いながらも、もう少しやってみようかなと、他の人の文を読んで、また気持ちを新たにしながらも。


それが今の私の、noteの書き方 であるようだ。




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