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パレスチナの被占領地ヨルダン川西岸地区のビルゼイト大学を訪問し、学生たちと話した 1983年10月12日 ー その 2

前回投稿でも書いたように、写真は当時訪れたビルゼイト大学の学生評議会の部屋。実情を話してくれたパレスチナ人学生たちのうちの 3人。壁には左からジョージ・ハバシュ(非宗教・世俗主義の左派パレスチナ解放組織「パレスチナ解放人民戦線」 PFLP の創立者)、パレスチナの旗(彼らにとってのパレスチナ国旗)を挟んで、ヤセル・アラファト(「パレスチナ解放機構」 PLO 執行委員会議長、パレスチナ自治政府初代大統領)、ライラ・カリド(またはレイラ・カリド、初めて飛行機をハイジャックした女性としても有名な PFLP 女性活動家)などの肖像が飾ってありました。

今回は、前回の投稿の続編です。前回投稿「その 1」は以下 url です。

https://note.mu/dailyrock/n/nde12b9f31611

引き続き、1983年10月12 日の自分の日記から、そのまま転載します。

1983年10月12 日(水曜日)<< 後篇 >>

学生たちと話したこと(今 思い出せるもののみ、簡単にメモる) << 前回投稿分の続き >>

・その他

マオ(注: 毛沢東)( a) はわりと評価してる。"save China too much" は確かと)、ガンジー(評価してない。a) "too ideal man" と)など。詳しく知ってる。

多くはモスレム(注: 現在、日本語表記は「ムスリム」が一般的だと思いますが、当時の日記では「モスレム」と書いていました)かと訊くと、クリスチャンもいる、コミュニストもいる、そうしたことは問題ないと言った( a), d) はモスレム)。

Korean airplane の事件(注: 前月の 1983年9月1日、大韓航空のボーイング747が、ソ連の領空を侵犯し、同国戦闘機により撃墜され、乗員・乗客合わせ 269人全員が死亡した事件)。「たぶんソ連領に "investigation" の目的で入ったのだろうが、撃ち落とす方もひどい」(注: 彼らの発言)。特に d) は、こっぴどくソ連を非難した。e) もソ連を嫌ってるみたいだった。

USA は当然のように嫌われている。

ヒロシマ・ナガサキ(注: 1945年8月6日, 9日の米軍による原爆投下)にも詳しい。名のみでなく。

日本がアジアを侵略したこともしっかりと認識しているが(彼ら自身から言った)、しかし USA は勝つために「アトミック・ボム」は不要だった(注: 彼らの発言)。あれは "test", "experiment" だった( d)(注: の発言)。

現在の日本のことも知っている(そんなに詳しくはないだろうが)。「今、日本は rich になって、アメリカのしたことを忘れてしまっている」と言うと、呆れた顔をした。

日本の憲法のことも知っている。今、軍があることも。「どう思うか」と言われたので、日本に軍は必要ないし、石油がないので戦争なんか続けられないとか言っておいた。

フォークランド(注: 大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡って、1982年3月から 3ヶ月にわたって続いたイギリスとアルゼンチンの間の紛争もしくは戦争のこと)について訊かれたので、フォークランドはアルゼンチン領と思うが(注: 本来はそうあるべきとの趣旨)、あの大統領(注: 当時のアルゼンチンの大統領レオポルド・ガルチェリ)は people の目を逸らすために(コトバがみつからず "to escape from the people")やったと言うと、その通りだと言った( a))。

ゲバラの T-shirt を着た学生、1人見た。

その他、女のこと(注: 日記に乱暴な書き方をしていますが、要するに「女性」のこと、若者同士の会話の流れです!!)、音楽のこと( a) はオミ・カウスン(注: 他の日の私の日記を読み直していくとはっきりしそうですが、現在の記憶では、これはおそらくアラブ諸国で絶大な人気を誇っていたエジプトの女性歌手 Umm Kulthum のことだと思います。ただし 1975年没)について "old generation" が彼女を好きで、オレは オミ・カウスン は好きではなく、レバノンの .. ナントカ(注: 当時その場で聴き取れなかったもの)という若い女性歌手が好きだと言った。American songs を好きなのはここにもいるが、a) は好きではないとのこと)、カラテのこと(なんとここにも club あり。オレは今までのように適当に茶帯だとか何とか言っておいたが(注: やった経験はありますが、茶帯ではありません) ーー 日本人はみんな空手をやっていると思われてしまってるので面倒くさくて ーー 、彼ら、日本人のみんなでないことは知ってるし、ブルース・リーは中国人、フィルムの中ほどには強くない、などもよーく分かってました。当たり前か)(注: ここに「ブルース・リーの映画では日本が悪役、最初日本が悪いことをして最後にやられる」とのメモあり。おそらく彼らの発言だと思います), etc. 話した。

a) にしても、d) にしても、religious なフンイキは感じさせない。コミュニストもわりといるだろうし、アッラーフ・アクバル(注: アラビア語「神は偉大なり」)と冗談っぽく笑って言う学生もいた。

みんながみんな、英語を流暢にしゃべるのではない。しかし、完璧なのは多いと思う。d) も完璧みたい。理系の科目の授業は英語で、文系科目はアラビア語。はっきり言って、オレの英語力は、彼らと話すのには全く力不足。 外国人の先生もけっこういるらしい。

彼らは、(注: 隣りの国)エジプトに行くのにも、"study" などの正式な理由が必要(26才以下の場合)。

1948年以前のパレスチナの政府について。"All Palestine" の政府。ユダヤ人もパレスティニアンとされていた(注: 彼らの発言)。イギリス委任統治を言おうと思ったが、「委任統治」の英語見つからず(注: "Mandatory Palestine" の呼称を使って言えばよかったのですが、当時その英単語が思い浮かばず、そこで言いたいポイントが言えぬままでした)。

ジャーナリストかと訊いた学生もいた。よく来るのだろう。また、オレのような訪問者も全然めずらしくないみたい。なんと昨日も、日本の経済学の "teacher" が来たとのこと。

サウジの歴史も話に出た(詳細は聴解力不足)。

彼らは、パレスチナについて話すときも、全然激しい口調でない。落ち着いた話しぶり。しかし、重みがある。

Prisoners はけっこういるらしい。

もちろん、その他、いろんな話をした。今後どんなことをするつもりか vision を訊こうと思ったが、具体的なことを単なる訪問者に言えるはずもないと思い、やめた。

彼らは真の学生。Life に結びついた勉学をしているのではないか。

今日はビルゼートに行った。楽しかった。疲れた。

ビルゼートでもラマーラ(少し歩いたのみ)でも、銃を構えたソルジャー(注: もちろんイスラエル兵のこと)を見なかったが、デモのときなどはすごいのだろう。ホリさん(注: この旅行中、イスタンブールの宿で親しくなり、エルサレムで再会、同宿だった人で、現在も友人)がラマーラで見たときは、何かコトの後か前かだったのだろう。ビルゼートでは、普段はソルジャーなんかまず歩けないだろう。

(注: エルサレムに戻る)バスに乗ってて、途中、当然のようにソルジャーを見る。山の方にはたくさんの住宅。for ユダヤ人だろう、もちろん(注: 要するにイスラエルが建設した国際法違反の入植地)。

話した学生たち、外国の状況にも非常に詳しい。正確な情報が得られているようす。

女子学生も多い。男女、普通にワイワイやってます。

付け足し:

a) は、パレスチナがベトナムと違う "situation" であることを話した(難民化したあと、ヨルダン、出されてレバノン、そこも出され、その他の理由、聴解力不足)(注: ヨルダンから出され、レバノンからも出されとは、明らかに PLO のことを言っていたわけですが、詳細については私の聴解力不足だったようです)。

トルコのことも話した。2年半前から軍事政府。ひどい政府(注: 彼らの発言)(オレがトルコでもパレスティニアンと会ったと話したとき)。

コラ、英語をしゃべれるようにせよ! only because of その便利さ。(注: 自分向けのメモです。彼らの英語による話の内容は、私自身の聴解力不足で分からなかった部分も少なくなく、またこちらから言いたいことも私の英語力不足のために思うように言えなかったところがあり、こうしたメモをしたのだと思われます。only because of 云々と書いたのは、おそらく「言語帝国主義」的な側面を持つ英語という言語への反発を、当時、今現在よりも持っていたからだと思います。)

(注: 最後に以下のようなメモが、日記に書かれていました。)

ヨルダンのパレスチナ難民キャンプ(アルワヒダット・キャンプ?)、football チームがあって、ヨルダンのチームと試合をやると、観衆も fighting するとのこと(口論か実際のケンカか)。"Political game" になってしまう、とのこと。

明日はナブルスであります。

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この日の日記は、この「明日はナブルスであります」というメモで、終わっています。

実際に、翌日、1983年10月13日、同じくヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の街ナブルスを訪れ、そこでも大学(An-Najah National University という大学名ですが、非政府、評議員会によって運営されている大学、Birzeit University のように伝統のあるパレスチナの大学です)を訪問して、学生たちと様々なテーマで話をしました。

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