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パレスチナの被占領地ヨルダン川西岸地区のビルゼイト大学を訪問し、学生たちと話した 1983年10月12日 ー その 1

写真は当時訪れたビルゼイト大学の学生評議会の部屋。実情を話してくれたパレスチナ人学生たちのうちの 3人。壁には左からジョージ・ハバシュ(非宗教・世俗主義の左派パレスチナ解放組織「パレスチナ解放人民戦線」 PFLP の創立者)、パレスチナの旗(彼らにとってのパレスチナ国旗)を挟んで、ヤセル・アラファト(「パレスチナ解放機構」 PLO 執行委員会議長、パレスチナ自治政府初代大統領)、ライラ・カリド(またはレイラ・カリド、初めて飛行機をハイジャックした女性としても有名な PFLP 女性活動家)などの肖像が飾ってありました。

さて、先月11日、2019年9月11日に note に新規登録した私は、これまで 911 アメリカ同時多発テロに関わって 3本、「ボブ・ディランの不都合な真実」(パレスチナ・イスラエル問題に絡むもの)について 2本を投稿し、ディランについては続編を予定していますが一旦そこから離れ、その後は 1983年10月4日にイスラエル(1948年同国建国以降)・ハイファを訪れた時のこと、更には同年10月7日に、イスラエル(同上)のテルアビヴで、その日、パレスチナのガザ地区からテルアビヴにやって来ていたパレスチナ人一家に出会った時のことを投稿しました。今日は 8本目の投稿となります。

前回も書きましたが、当時、私は 1983年4月から翌 1984年2月にかけてユーラシア大陸をほぼ一周する形で(あくまで「ほぼ」です。細かいことを言うと、パレスチナ・ガザ地区に滞在したのち陸路でエジプトに行っているのでアフリカ大陸もかすめました)バックパックを背負っての海外貧乏旅行一人旅をしていました。その際、9月から10月にかけて 3週間ほど旅した場所が、パレスチナ及びイスラエルです。その全旅程 10ヶ月にわたる旅の間つけていた日記を、最近になって家の押入れから引っ張り出し、35年ぶりくらいに開いて中身を見るようになったのですが、そのうちの 1983年10月12日付けの日記を、以下にそのまま転載したいと思います。

あくまでも36年前に(同年 9月11日にシリアのパルミラを訪れた時に 23歳になったばかりのまだ若かった青年が、笑)旅したその時点の「リアルタイム」の日記であり、毎日異国の街を歩き回り疲れて宿に帰ってから書いたような、推敲なしの文章です。

いま日記を読み返しながら、その後に得た知識や主としてパレスチナ問題に関わる自分自身の経験、それらに基づく今現在の自身の思考を織り込みつつ、本年2019年 9月11日に 59歳になった人間として加筆や編集をしながら、あらためて当時を振り返る文章にしてもよいのですが、あの旅に関わる投稿は当面、日記を使う時には、前回同様にそのまま転載して投稿するかたちにしようと思っています。

ひとつには、あの時の約10ヶ月の海外貧乏旅行については、いずれ、全体にしろ一部にしろ、あらためて日記の転載と今現在の自身の考察などを混じえながら、歴史の資料となるような紀行文としてまとめてみたいという気持ちがあることと、その一方で、今こうして個別具体的な切り口で一日だけを取り出して紹介する際は、まずは当時の日記をそのまま転載した方が、36年前の「リアル」が、文字通り「リアリティ」をもって伝わるのではないかと考えているからです。

例によって(?)前置きが些か長くなりましたが、以下が、1983年10月12日の私の日記です。上記の通りですので、全く推敲していない文章であることをあらかじめおことわりします。ただし、転載するに当たって、分かりやすくするために一部に括弧書きにより注記を入れたり、また、日記の中の例えば「住めん」といった口語体の表現を「住めない」というように改めるような、最低限の編集だけ施してあります。

1983年10月12 日(水曜日)

宿代が 170シュケルになった(昨日 150シュケルになったばかりなのに ← 140)(注: 前々日の宿代 140シュケルの時点で 1シュケルが日本円にして 4円弱。ただし、そういうわけで、当時シュケルの価値は日々落ちていっていました)。今日から物価が 50% up との話。ドイツ人夫婦もたまげてた。シュケルの対ドル・レートも相当落ちてることだろう。

現在、ホステルのとなりの店にいる(注: ビルゼートから帰ったあと、東エルサレムの宿の隣の店に寄って、そこで日記を書いていたようです)。ピザが 150 → 200シュケルになった。チーズは今日 double price になったという。

今日はビルゼートに行った(注: 本投稿の表題では「ビルゼイト」としていますが、当時、日記に「ビルゼート」と表記しており、以下も当時の日記のままの表記とします)。ラマーラ乗り換え(22 + 15 = 37シュケル、片道)。ラマーラでの待ち合わせで確か 1時間弱(ラマーラ行きのバスstation はヘブロン等の station と違う。少し離れている)(注: 前日、同じくヨルダン川西岸地区のヘブロンに行って、そこに住むパレスチナ人たちと話したり、イスラエル軍に占拠された建物を見たりして、当時の酷い、しかし皮肉にも今現在よりはマシだったと思われる、イスラエルの違法占領やパレスチナ人住民に対する人権弾圧の実情を見聞したりしています。いずれそれについても投稿するかもしれません)。ラマーラでの少しの間、アメリカから帰ってるパレスティニアン(注: Palestinian 日本語ではパレスチナ人。日記の中では所々このような書き方をしていました)と話した。彼は West Bank (注: ヨルダン川西岸地区の主として欧米諸国による英語での呼称)で生まれたが、現在アメリカにいる。学生。どうりで完璧な英語を話す。

ビルゼート大学は new one (エンジニアリングなど)と old one があり、オレは new one では降りず(手前に車をチェックするところがあった)、街のなかにある old one に行った。

キャンパスに入るにはパミッションが必要とのことで、声をかけてくれた学生に連れられて建物(校舎)の中の office に行った。きれいな女性(パレスチナ人と思う)がいて、「少し待って」。そのうちペニーさん(だったと思う。この人はたぶん from Europe or USA)という、やはりきれいな女性が来て、(注: 私が)事情を話す。アテネでたまたま、ある(one)(注: 英語で one と表現したらしいことをわざわざ括弧書きしています。some でよかったと思いますが)日本のパレスチナ委員会の代表(注: 日記ではここで括弧書きして個人名を書いていました)と会い、彼に「ビルゼートに行けば active なパレスチナ人学生と会える」と言われたこと(学生にはあらかじめ話してあった)。

オレと学生それぞれにお茶を出してくれた。資料をくれた。そのうち(たぶんパレスチナ人の)男が来て、名や住所(資料を送る、その他のためらしい)、tel, 目的などを書く紙をくれ、オレはそれらを書き、office をあとにした。

a) 学生(英語・英文学専攻、当然 英語ペラペラ)に連れられ、b) 学生評議会の部屋(と思う。council というコトバを使った)に行った(注: 表題の上の写真がその部屋です)。

そこで、ダンボールに入った手投げ弾とも催涙弾とも見えるものを見せてくれた。昔 学生が使ったものか、それともイスラエリ(注: Isreali イスラエル人)がデモ(注: もちろんパレスチナ人のデモ)に投げ込んだものか(このへんオレの聴解力はすさまじいね)(注: 当時の英語力不足とやや緊迫した環境下でのやり取りで上手く聴き取れませんでしたが、今振り返ると、どちらかというと後者の方かなという気がします)。

c) カフェテリアで話し、それから小さな建物の屋上にある野外カフェテリアのようなところへ。そこで、もう 2人の学生が加わる。1人は中東地域(history など)の専攻 d) 、もう 1人 e) はソ連に留学したことあり。そのうち学生 e) が席をはずし、a) も授業へ。そこで d) としばらく話し、そして 2人で食堂へ(うどん?(注: みたいなもの)、魚フライ、サラダ、パンで 90 シュケル)。食い終わるころ a) がテーブルに来て、d) は席をはずす。構外のカフェでコーヒー飲み(おごってくれた)、しばらく話す。入れかわってもう 1人、横にもう 1人 学生。

そして再び、b) 学生評議会の部屋へ。入れかわり立ちかわり、いろんな学生が出入りした(もちろん、オレがいたからではない)。写真を 2枚撮った(初めは撮ってはいけないかんじだったが、学生評議会の委員に確認してからと言われ、結局 撮ることができた)。4時少し前にバスでビルゼートを発ち、ラマーラで乗り換え、エルサレムにもどった。

b) 壁にいろいろ貼ってある。パレスチナの国旗、アラファト、ハバシュ、ライラ・カリド、prison にいるもの、死んだもの、などの写真、イスラエルの prison や prisoner のイラストレーション, etc.

c) ここにもパレスチナ国旗、モサド(注: イスラエルの情報機関、諜報組織、アメリカの CIA のようなもの)に殺されたアメリカのパレスチナ人、アラファト、ハバシュ、ゲバラ(たぶん)、in prison あるいは殺されたものなどの写真が貼られてある。

ラマーラでビルゼート行きのバスに乗ると、乗客はほとんど学生。学生特有のフンイキ(もっとも日本の学生にそういうフンイキがあるかどうか?)。もちろん女性も完全に学生のフンイキであります。先入観もあったかもしれないが、バリバリの学生のフンイキに若干押された。

*(注: 当時の日記に記されている注記) ビルゼート大学は 1920年代創立、1960年代(?)にカレッジになり、わりと最近(数年前?) Univ. になった。

学生たちと話したこと(今 思い出せるもののみ、簡単にメモる)

・パレスチナ関係等

> 1970年代のハイジャック闘争について(ライラ・カリド etc.)

あれは重要だった。当時、世界中の人間が、パレスチナに no problem と思っていた(これはまずオレが言った)。今は必要ない。あの闘争にイスラエルのプロパガンダが加わって、some people はパレスチナ人はテロリストと思うようになったが、また others はパレスチナ問題を理解するようになった(これもまずオレが言った)。彼 a) は、あの闘争が必要だったことをしきりに言った。あれ無しでは、パレスチナ問題は忘れ去られていた。

> オカモトについて(この名は多くの学生が口に出した。彼らの発音ではコザモートに聞こえてしまうが)(注: 岡本公三、元日本赤軍メンバー、1972年5月30日のテルアビヴ空港乱射事件実行犯のうちの 1人)

彼(注: 岡本公三)はやはり crazy にさせられたらしい(かなり確実性あるようす)(注: イスラエルの獄中での拷問によって、という意味)。

> 日本人はパレスチナ人をどう思ってるか。

Some of them は今もテロリストと思ってると言うと、彼 a) は本当に悲しそうな顔をした。

> オレはホロコースト・ミュージアム(注: 西エルサレム)にもディアスポラ・ミュージアム(注: テルアビヴ)にも行ったことを話した。後者に Return to Zion とあったことを話し、あれはユダヤ人をシオニスト(注: Zionist, ツァイオニスト) にさせるものだと言うと、彼らはうなずいた。

> イスラエルのレフティストやリベラリストとコンタクトがとれるか。

とれる(しかし、もちろん難しいようだ)。ほんの数回みたい(今まで)。

> 未来のパレスチナ国家について

a) 1つの国でユダヤ人とともに住める。そのとき一緒だったもう 1人も同意見。これは全部でないが、majority の意見だ(注: 彼らの発言)。

しかし、シオニストとは住めない。

多くのユダヤ人は拒絶してる(注: 彼らの発言。パレスチナ国家を拒絶、という意味)。

以前は一緒に住めたのだ(注: 彼らの発言。イスラエル建国前は、という意味)。

1935年製のコインを見せてくれた。英語、ヘブライ語、アラビア語で、パレスチナと書いてある(円周部分に)。

彼らはピースナウその他、イスラエルの(一応)リベラリストたちをよく知っている。

レーガン・プラン(注: レーガンとはもちろん当時のアメリカ大統領のこと)は West Bank のみにパレスチナ人自治区をつくって、それで finish にさせてしまうものだ(注: 彼らの発言)。

ヘブロン(注: 前日、私は同じヨルダン川西岸地区 West Bank のべブロンを訪れています)で学生が殺されたのはやはり確か。ビルゼートの学生でなく、ヘブロン大学の学生。誰もつかまってない(West Bank には 4つの大学あり。ビルゼートとナブルスとヘブロンとベツレヘムとに)(注: 私はこれらの 4つの地域を全て訪れましたが、大学についてはビルゼートとナブルスの大学を訪れ、この日のように学生たちと話しました)。

ビルゼート大学は、今までに、13回 close させられている(イスラエルによって)。大きなデモがあったときなど。イスラエルのソルジャーは、たとえ国連が「いかん」(注: 「ダメだ」)と言おうが、入ってくる(注: 彼らの発言)。

I hear シリアはレバノン北部を占領中(occupies)と言うと、a) occupies とは違うと言った。理由も言ってくれたが、オレの聴解力不足。

> 去年のイスラエルのレバノン侵攻について。

世界の世論は我々を支持したが、結局、何もできなかった。UN (注: 国連)さえも。サブラ・シャティーラ(注: 1982年9月、イスラエル軍が包囲するベイルートの同パレスチナ難民キャンプにおいて、イスラエル軍の協力のもと、イスラエルのレバノン内の同盟者であるキリスト教右派民兵たちによって、女性や子供、老人たちを含む 3,000人以上のパレスチナ難民が虐殺され世界を揺るがした事件のこと)は、PLO 退去(注: ベイルートからの)の後あった(注: 彼らの発言)。

アメリカのユダヤ資本の力は大きい。彼らはホワイトハウスさえコントロールできる(注: 彼らの発言)。

> キャンプの悲惨さ(注: パレスチナ難民キャンプ)

ここのキャンプ(in West Bank)も 2F は建てられない。難民出身の学生とも会った。ガザ出身。彼の家族は難民になる前、家(と農場?)を持っていたが、結局は今は rent している。

> West Bank とガザ以外のパレスチナに住むパレスティアン(注: 要するに 1967年以前からのイスラエル領に住むパレスチナ人)

人権について、悪状況。投票はできる。

> その他

アレッポ大学(注: アレッポはシリア第2の都市、パレスチナに入る前にヨルダンを、更にその前にシリアを訪れており、アレッポ、パルミラ、ダマスカスに滞在しました)でのシークレット・ポリスについての話を言うと、アラブではどこもそうだと言った(つまり、どこもダメだ)。

その他、バルフォア宣言、イギリスの二重外交(注: バルフォア宣言、サイクス・ピコ協定、フサイン・マクマホン書簡を合わせれば、二枚舌ならぬ三枚舌外交と呼んでよいと思いますが)、ユダヤ人のディアスポラなどの話も出た。 etc, etc, etc.

ベギン(注: イスラエルの首相についての話)のあと誰になった? そいつは How だ? と訊くと、d) は笑いながら「ブーだ。オレが聞きたい」と言った。

<< 本日の投稿はここまで。学生たちとの話では、引き続き、パレスチナやイスラエルに関わること以外にも、日本を含む外国の事情など、様々な話題が出ました。本投稿の続編において、紹介します。>>

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