耳をすませばと「さようなら」
家にいることも多くなり、毎日毎夜ネットフリックスやユーチューブにお世話になっている私。
この間、ネットフリックスでジブリ作品「耳をすませば」を鑑賞しました。ジブリの中で1、2位を争う大好きな作品。
でも見るのは数年ぶり。ちっちゃいときはよく見ていたな〜。
数年のブランクを経て見た「耳をすませば」。
環境や心の変化によるものなのか、今までは普通に流していた小さなディテールに気づいたり、感じることがあったりと、発見の多い鑑賞となりました。
これが大人になるというやつか...?
今回の観賞での一番の気づきは
「そういえば、さようならって最近使っていないなあ」でした。
「耳をすませば」では、雫が友達のゆうこちゃんやせいじくん、地球屋のおじいちゃんに「さようなら」と言ってから別れる場面があります。
そこがひっかかった。
私、「さようなら」て最後に言ったのいつだっけ?
友達や誰かとの別れ際にいつもなんて言っているっけ?
ロンドンに住んでいて日本語を使う機会が減っているというのもありますが、たまに日本人ともおしゃべりします。その時でも「さようなら」て使っていない。
思い出してみると、私はよく
「またね」「お疲れ様(でした)」←職場は特に。時間によっては「おやすみ」を使っているようです。
また、自分が使っていないと気づいたと同時に、雫が友達に対して使っている「さようなら」がちょっと堅くない?て感じてしまいました。
思い出してみると、私は小学校や中学校、高校では先生に対して「さようなら」と言っていた記憶はあります。けど、友達には使っていなかった気がする。
でもね、雫の「さようなら」を聞いたときにとっても心地が良くて。響きが素敵だなあ、余韻があるなあとしみじみ感じていたのです。
「耳をすませば」を見終わってからも「さようなら」が頭から離れない。
気になって語源を調べてみました。
元々は「左様なら」
(接続):それなら。それでは。
(感嘆)さようならば、これで別れましょう。
2つ目の感嘆が半分以上省略されて、今の別れの挨拶になったそうです。そして、別れの挨拶として相手の身分や地位、年齢に関係なく使える万能な言葉なんだそう。
確かに「さよなら」「バイバイ」「またね」とかは目上の人には使わないな〜。
オールマイティーに使えるからこそ、「さようなら」を友達に使うのを聞くとどうも違和感を感じてしまったのかしら。近しくない人に使う言葉の印象が強いのかもしれないですね、潜在的に。
ちょっと調べてみると
「さようなら」って使わない人が多いみたい。大人になるにつれて多くの人が使わなくなっているとのデータがあるらしいです。
上にも書いたけれど「さようなら」には余韻が感じられるんですよね。だから意識的に使っていきたいなあと思っていたり。
で、
なんで余韻が感じられるんだろうと考えたときに、元々が接続詞だったからではないかなと。
後ろに本来は言葉が続く。これが余韻の正体なのかなあて。
もしかしたら「(今日も楽しい日だったね)さようなら(ば、明日も良い日にしましょう)」とか「(明日からロックダウンだね)さようなら(ば、くれぐれも気をつけるんだよ)」とか。
相手を思いやった言葉が続きそうでとっても素敵だなあ。
たった5文字に実は大切な意味が込められているんだと思うと、意識的に「さようなら」て使っていきたいなと思っちゃいますね。
日本語ってとっても深い。
普段意識して喋らないけれど、ジブリ作品のおかげでたまにはこうして立ち返って、自分の母語をじっくり観察するのも大事なことかもしれません。
そして
直感で感じた「さようなら」への印象があながち的を外れたものではなくて、少し嬉しかったりもしました。笑
さようなら
あえて、「う」もきちんと発音してあげる。
さようなら、さようなら。
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