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友人を亡くして、立ち直れなくてもいいんだと思った日

2024年はとても辛い災害から始まりました。
大きな事故もありました。
多くの人が「今年は何か変だなぁ」と思ったに違いありません。
自分も「もう今年は大きな事件や事故、災害がなければいいな」と考えていました。

しかしそんな自分にも大きな出来事が起きました。友人二人を同時に亡くしたのです。
詳細は伏せますが、この出来事は大きなショックと悲しみの津波となって自分に降りかかってきました。
年末に電話で話ししたばっかりなのにたった数日後に訃報を受けるなんて。
とめどなく涙が流れ「あの時もっと優しくすればよかった」などの後悔の念も湧き上がりました。

その時の自分の感情は悲しみ、怒り、自責、無力感などなど、様々な感情が自分に押し寄せてきました。
正直今も立ち直れていません。
でも見方、考え方を変えてなんとか日常に戻れました。
立ち直れないままで日常に戻るという荒業ができた理由を以下に書いていきます。

葬儀に多くの人が訪れて、悲しみにを共有できた。
これは大きなことでした、多くの友人を持っていた故人は本当にたくさんの涙と共に見送られることとなりました。
その時には故人の思い出話に花を咲かせ、時々軽い笑いも出るほどでした。
でも最後の別れ、出棺となるとやはり多くの悲しみと絶望感が押し寄せてきました。
ただ、同じ想いを、本当に多くの人が共有できたことは自分にとって救いでした。

友人が亡くなって悲しむのは当然の感情だということ。
大切な友人でした。
ちょっと電話がかかってくる回数が多くて大変だったけど(笑)。
そしてもう一人は繊細な性格で、傷つけないようにするのがなかなかに難儀でした。
そんなことも亡くなってしまえばとても小さなことで、もっと電話にちゃんと対応すればよかった、もっと本音で話せばよかったと後悔の念は尽きません。
でも友人を亡くして悲しまない人はいるでしょうか?
おそらくほぼ100パーセントの人が大なり小なり悲しむのではないでしょうか。
大切な人を亡くして悲しむのは正常な反応です。
その気持ちまで否定してしまうとさらに辛くなって、いつまでも喪失感から抜け出せまん。
だから悲しい時には大いに泣きました。友人と思い出を語り合いました。
自分の感情に素直になることで感情を思い切り吐き出すことができました。
そのせいか、今は悲しくなることはあっても、泣くことはなくなりました。

20年以上前に友人を自死で亡くしているという経験をしていたということ。
自分がまだ二十代の頃に自分は友人を一人、自死で亡くしています。
自分のライフステージの中でいちばんの喪失体験です。
その当時は病院に勤めていたため、人の死というものが身近ではあったのですが、友人となると、しかもその死因が自死ともなるとその悲しみはとても大きく、体を半分持っていかれた感覚に陥りました。
その当時は統合失調症の陽性期だった上に喪失感が重なり気が触れてしまいそうになり、結局入院することになりました。
入院中もわずかなことで涙が出たり、些細な出来事でも亡くなった故人と関連付けては悲しくなっていました。
彼の自死のせいで、自分は人の死に対する耐性がわずながら身につくことになりました。
そんな耐性いらないよと思いますが、それほど自分の生死感を大きく変えることになりました。

これらの出来事があったため、自分は悲しみを悲しみのまま受け入れながら、日常を取り戻す術を身につけられたのだと思います。
何より亡くなった友人はいつまでも悲しんでいることを望んでないと思えています。
もう何も痛くない、辛くないところへ行ったのですから、きっとあちらで幸せに暮らすことになるんだろうなと思っています。

人を亡くすことはそれは耐え難い悲しみと喪失感で、心にぽっかり穴が開いてしまいます。
でもその穴に新しい思い出を詰め込んで、それでも埋まりきらない隙間を悲しみながら生きていくのだろうと思います。
そしてそれが生きるということなんだろうなぁとも思っています。


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