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仮想⇆現実の幸福論|第1話|家族を楽しい共同体(ファンタジー)にする

こんにちは作家の村上大樹といいます。うちの家は、ぼくと、妻のミワコちゃん、娘のユモちゃん、ぼくの弟のタカちゃん、犬のエマ、ワタとの、合計6匹(人)で住んでいる。2年前までは法律上も家族でしたが離散した。

ミワコちゃんは本名のキスミワコという名前に愛着を感じていた。ぼくと法律上で結婚していたときは村上ミワコになってしまった。大変な違和感を感じていたそうなんです。

「村上キスミワコに変名するねん!」

と裁判所にいって名前変更の申し立てをしましたが、前例がないという理由で却下されました。ふふふ。ミワコちゃんはもともと村上になりたかった訳でもないので、思い切って籍を外すことにした。相変わらず一緒に住んでいるけど、ミワコちゃんはキスミワコという名前を取り戻した。ユモちゃんは2年前の当時は村上という名前に愛着を感じていたので、村上ユモカのままにしていた。ぼくたちの住む因島には村上姓が非常に多く、娘も性に固有性を持たせたいという願望が生まれたのか、キスユモカに名前を変えたいと希望したので変名した。離婚したとは捉えてないけど、家族という言葉(概念)を少々重々しく感じていたから、夫婦別姓にしたのはいい機会だった。ぼくたちは法律の中だけで生きてる訳ではない。カラダとカラダが同じ空間にいて触れたり泣いたり笑ったりするために一緒にいるんだと感じている。

「家族の一体感が薄れる」という理由で夫婦別姓を合法化しないそうですが、別姓にしたことで、確かに旧来の家族に感じた嫌な一体感から開放された。ミワコちゃんも名前を取り戻せて、なんだか以前にも増して自由だ。窮屈な一体感なんて必要なんだろうか?
いまぼくたちは家族という意味の重々しさから開放されて、小さな共同体(ファンタジー)になって軽やかに生活している。

ぼくたちの体の中にはファンタジーがある。空想というと物語の中にだけある抽象的なものと思われがちだけど、心とか無意識とか曖昧なところでもなく、もっと物質的な脳にファンタジーは存在しているじゃないかと仮説している。

とにかく人は妄想する。未来を予想して、楽しくなったり、不安になったり、スピッたり、常識に囚われたり、鬱になったり、躁になったり。ぞれぞれが独自のファンタジーを個別をやっているのだ。全世界にいる人間の数だけファンタジーはある。このファンタジーと現実とを繋げる回路が上手く機能しているときに幸福を人は感じるのではないだろうか。

ファンタジー⇆現実

人はありのままの現実を観ることはできない。自分自身のファンタジーを通して、猫や花を観る。誰かの目と唇を観る。いまの時代を生きる人が感じている生き苦しさの原因は、お金や政治のせいだけではないのかもしれない。ファンタジー⇆現実の繋がりが上手く機能していないときに、人は苦しくなったり不安になるのではないのかな。

去年からバタバタと友人知人が離婚している。うちの事情とは違うマジ離婚だ。ぼくは離婚大賛成派なので相性が悪かったり、一緒にいても窮屈な気分になる人とはどんどん離れたほうがいいと思う。
ぼくは超お節介人間なので、1人になった友だちを心配して孤独でも豊かに生きることができる方法をあれこれ考えて伝えると

「1人でぜんぜん孤独ちゃうわ! むしろ家族といたときの方が孤独やったわ!」

と断言された。ふふふ。1人でも幸せになれる人もいる。さっきも書いた

ファンタジー⇆現実

の回路のファンタジーの部分が膨張して脳や全細胞に宇宙があるような人たちだ。

ファンタジー(小説、映画、詩、アート、漫画、音楽、ゲームなどその他にも諸々もふくむ)を体験しているときはたった1人のはずなのに1人ではない。孤独で苦しみのある現実から離れて、全く別の世界を生きることができる。

別世界を体験して日常に帰ってくると、淀んでいたはずの意識には、新鮮な風が吹き込まれる。その往来により肉体そのものが再構成される。

人間社会に宗教があるのも、このような再構成が必要だからだろう。神が実際にいるかいないのかはわからないけど、神を感じることや瞑想や儀式は、人生をリテイクするための通過儀礼なんだろう。だけど神や精神世界(スピリすぎたり、抜け出せない鬱など)に行ったっきりになることを推奨してはいない。旅行から帰ってきたときに日常がリフレッシュしているように、生活の中のちょっとした時間、肉体はいまいる所のまま、意識だけ遠いどこかに行って帰ってくることができる何か。そういう意味では、メタバースや、スピること、鬱状態も帰ってこれるなら、自分を変化させる儀礼としての生の体験だといえる。

深度がある芸術(心の冒険)にふれると、それまでとは世界の見え方が全く変わってしまうときがあるんだ。

少し脱線したので家族の話を戻す。正直に書くと娘が生まれて1年くらいは夫婦関係も険悪だったので、ぼくも家族に孤独を感じていた。そこで思いついた。

家族=ファンタジー

にしちゃおうと。ぼくの中のファンタジーを家族にまで浸透させる訳です。

家族は親が子どもを支配する場所でも、夫婦でいがみ合う空間でも、子どもが親を「殺したい」と憎む関係でもない。

家族に優しくしたいのだけど、ちょっとしたことでどうもイライラしてしまうときがある。そんなときは、

ミワコちゃん、ユモちゃんはアンドロイドという設定で妄想(ファンタジー)しながら生活することにしている。

2人は旧型のアンドロイド。この旧型アンドロイドは廃盤になってしまって現在は販売されていない。アンドロイドたちは交換式のバッテリーで動いている。このバッテリーだけはしばらく生産されていたが、ついに生産中止になってしまった。バッテリーはメルカリで大量に購入した。ついにネットでも店舗でも扱っている所はなくなってしまった。購入したバッテリーは全部でたぶん持ったとしてもあと1年。ミワコちゃんとユモちゃんはあと1年するとバッテリーがなくなり動かなくなってしまう。そうなるとぼくは動いている(生きている)彼女たちに会えなくなってしまう。

「だーいちゃーん」

島の山手に住んでいるぼくは傾斜のキツい坂道を自転車を押しながら上がっている。ユモちゃんは坂の上で出迎えてくれた。山にこだまするほど大きな声でぼくの名前を呼ぶ。

「だーーーいーーーちゃーーーん!!!」

夕焼けの光でユモちゃんの肌がオレンジ色に染めまる。春の新しい緑。山の木々が静かな風に吹かれて小刻みに揺れる。娘の胸に自転車の空気入れを抱えている。家の前の坂道でぼくが帰ってくるのをずっと待ち構えていたようだ。

「だいちゃん自転車に空気入れてぇ〜」

昨日の夜に約束していたんだ。しばらくタイヤの空気が抜けていて放置していた自転車に空気を入れてサイクリングしようと。ぼくが自転車に空気を入れていると

「ユモちゃんもやってみたい!」

と言い足踏み式を空気入れを不器用に踏み始めた。ぼくはアンドロイドのユモちゃんの足に変にチカラが入ってバッテリーの減りが早くならないかと心配になる。無事に空気は入って久しぶりにユモちゃんは小さな自転車を駐車場で乗り回す。ミワコちゃんは庭仕事をしている。2人とも元気だ。一日中、動き回っている。最後の日まで元気な姿を見れるのは嬉しい。だけどたまには休んでほしい、というのが本音だ。もう少し省エネで活動してくれるとバッテリーは長持ちするしその分、2人で過ごせる時間は長くなるから。2人にはもう少ししかバッテリーがないことは内緒にしている。しかしバッテリーが少なくなってから、ますます2人の活動は勢いを増している。まるで最後の命を盛大に燃やしているかのようだ。

「ユモちゃん!ミワコのカナヅチ出しっぱにしてたやろ!ちゃんと片ずけてな!」

ミワコちゃんは怒りっぽいアンドロイドなんだけど、あとどれくれらい元気に怒っている姿を見れるのだろうか。以前は怒っているミワコちゃんを見ると嫌な気分になっていたが、いまはそれすらも愛おしく思える。ただ怒るとバッテリーのエネルギーを使ってしまうのだが、いまは最後の日までめいいっぱい感情を爆発させて生きてほしいと思える。

夜は寝る前にミワコちゃんのマッサージをした。最近、足や背中が痛むそうだ。ミワコちゃんタイプのアンドロイドにあう型より少し旧式のバッテリーも使っている。たぶん体が痛むのはバッテリーが合ってないからだ。もうぴったり合うバッテリーがなくなりつつある。少し不具合がでる場合もあるらしいのだが、ずいぶん旧型バッテリーを使っている。そうしないと今月末にでもお別れの日がやってくる。せめてあと1年は2人と一緒に過ごしたい。

「なんでこんなにカラダ痛いんやろぉ」

とミワコちゃんに聞かれた。ぼくはトボけたような返事をする。アンドロイドにマッサージなんてしても気休めにしかならないかもしれない。

あ、いまファンタジーの世界に完成に没頭して書いていた。泣きながら書いていました。ははは。いまコタツでこの文章を書いているんだけど、休日に起きてきたユモちゃんがぼくの膝に乗って昨日の残りのハンバーグご飯を食べ始めた。はっきり言って膝に乗られると仕事しにくいんだけで、いまはファンタジーを書いていた状態なので、そのまま、ユモちゃんを膝に乗せたまま書く。普段は鬱陶しいと感じることでも実は見方を変えると幸福であることが多い。娘を膝に乗せたまま仕事できるなんてこんな幸せなことはない。

余命1年の彼女たちと過ごすと、今日はなんだか機嫌悪いミワコちゃんも愛おしいと感じる。ワガママ放題のユモちゃんのワガママを全部叶えてあげたくなっちゃう。誰かのワガママも不機嫌だってあと数日で最後だと思うと、その瞬間は奇跡に感じる。そしてそういう風に大事に接すると彼女たちもぼくを大切にしてくれる。世界は映し鏡なんだ。自分がしたように相手の反応は帰ってくる。つまり、

自分の世界(ファンタジー)を変えれば社会(他者)も変わるんだ。

無力感や不安も自分の世界の見方によって根幹から変化させることができる。

気ままなアンドロイドであるミワコちゃんはいつも自分のペース。ユモちゃんはミワコちゃんを「ミーミー」と呼ぶ。ユモちゃんにとってミーミーは気ままなお母さん。

「ミーミー遊ぼうよ!」

とユモちゃんが言っても、いつも自分のやりたいことに夢中なマイペースアンドロイドは、遊んでくれることのほうが奇跡。ミーミーは実在のユモちゃんよりもスマホの中のユモちゃんに夢中になっているときもある。ミワコちゃんはスマホの中に記録されたユモちゃんに会いに行くことでファンタジーを再構築しているのかもしれない。

そんなアンドロイドのミワコちゃんが絵を描き始めた。ちょうどアンドロイドのバッテリーが廃盤になった頃だ。自分の残りすくない時間を悟ったからだろうか。娘のユモちゃんの絵を『わたしのゆもちゃん』と名ずけシリーズ化して描いている。ユモちゃんの絵を描いているときのミーミーは、笑いが止まらなくなったり、泣いたり、上手く描けなないことに苦しんだり、笑顔に満たされたり、感情が目まぐるしく動いている。別世界に行ったり来たり。

ミーミー画伯の『わたしのゆもちゃん』シリーズ

画家のデイヴィッド・ホックニーは『春はまた巡る』という本の中で、

「描くことに本当に没頭していると自分を意識しなくなるが、結局のところ、ほとんどの人は、それこそが自分たちが達することのできる最高の境地だと考えている」

と語る。この本の中で心理学者ミハイ・チクセントミハイが形にした幸福論について引用されている。それはホックニーと同じ種類の体験で、チクセントミハイが「フロー」と呼ぶ状態だ。

「集中力が高まっているので、その行為と関係のないことを考えたり、あれこれ悩んだりする時間はない。自意識は消え、時間に感覚は歪む。このような経験を生む活動は非常に充足感のあるものなので、その活動を行うこと自体が目的となり、そこから何を得られるかについてほとんど考えない」

ホックニーは「ストレスとは何だろう?」と問いかける。ストレスとは

「将来の心配をすることだ。芸術はなのだ」

と語る。

ミーミーは今日もユモちゃんの絵を描く。それに触発されてぼくもミーミーとユモちゃんの絵を描く。


ユモちゃんもミーミーやダイちゃん(ぼくのこと)やタカちゃんの絵を描く。それぞれがそれぞれの幸福というファンタジーをかく。

ホックニーはコロナの少し前、2019年にノルマンディーの田舎に引っ越した。自然あふれる場所で木や草など身近な風景を描き始めた。そしていまも静かに描いている

「私は描かずにいられないのです。絵を描きたいとずっと思ってきました。小さいときからずっと、絵を描きたいと思っていました。それが、絵を描くのが私の仕事なんだ思いますし、60年以上もそれを続いてきました。まだそうしていますし、今でもまだおもしろいと思っています。世界は、ちゃんと見ればとても、とても美しいのに、ほとんど人は、あまり真剣に見ようとはしないのです。そうじゃありませんか? でも、私は真剣に見ています」

気ままなミーミーはユモちゃんから見ると変わったお母さんだ。だがミーミーは描くことで娘を真剣に見ている。まるで風景や大自然、大宇宙を描くように。

幸福とは集中することにある。

「わたし、やりたいことも作りたくもないし、ダメだな」

という誰かの声が聴こえて来そうだけど、そんなあなたは、日常の中にある、ささいで静かで大それたことではない何かにも、集中するという幸福はあるという設定(ファンタジー)で生きてみてはどうだろうか。信頼や結果や努力だけが幸福な訳ではない。掃除や料理など生活に必要なことこそほど、惰性ではなく、集中して健やかに楽しむというファンタジーがこの社会のどん詰まり感を再構築することもある。静かなレジスタンスとして集中するのです。それはどんな時代でも、お金や地位などなくても、たったいまからでもできる幸福な抵抗だ。

つづく

この連載は無料公開だけど、読んで心地よくなってくれて、もし何かぼくに気持ちを払いたいという天使のような人がいたら、下記のリンクの予約販売の作品を買ってくれたらうれしい!もちろん無理に買わなくても大丈夫よ〜。気持ちよくいきましょう。




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