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走るを考える

「走る」ということについてちょっと気づいたことを書こう。
あたし以外の人にはとってもとってもどうでもいいことなのだけれども。

割と意識的に時間をとって、走るようにしている。
脳にいいからだ。

あのハンセン先生も言っている。「走れ」と。脳にいいぞ、と。

「走るために生まれた」なんて本もある。

さらに、減量プロジェクト遂行中ということもあり、走ることへの意識は高まるばかりだ。

そうは言っても時間がいつも取れるわけではないので、
なるべく効率的に走りたい。

できることなら体に負担はなるべく少なく、でも効果は大きい、みたいな。
そんなふうに走りたいものだとずっと思っている。

どうすればいい感じで走れるのか?
そんなに体力があるわけでもなく、もう歳も40を超えて、無理も効かないお年頃だ。そんなことばかり考えながら、先日も走っていた。

そんなことばかり考えていたせいか、そこでふと気づいたというか、体感したことがある。
それは走るという動作の奥深さ、
そして決して洒落ではなく、「体幹」の重要性である。

走るという動作をよくよく考えてみると、「足踏みと何が違うのか」ということに行き当たる。歩くでもいい。走るのと同じような動作で、その場で足踏みすることはそれほど難しくない。
でも、足踏みでは前に進まないのに対して、
走るのときには前に進む。

これは一体何が違うのだろうか?そう考えたとき、なんというか、走るという動作に関しての理論のようなものが急に立ち上がってきた。

ランニング仮説

あらかじめ断っておくが、あたしはランニングの専門家でもないし、陸上部のエースとして走ることをとことん追求したあの輝かしい高校時代のようなものがあるわけでもない。

どこにでもいる42歳のおっさんが、自分の身体と対話しながらおそらくこういうことなのではないかとロジックを積み重ねた単なる推論である。

だから、もし推論が的を射ていたとしてもそれは何ら新しいことではないし、的外れだったとしたら、いずれあたしは膝を壊して自分の理論も壊すことになるだろう。そういうものとして書いていく。

足踏みと走りの違い

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