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育児のこと

4年と少し前に父親になったあと、ずっとしんどいと思っていることを書く。最近ようやくなんとなく折り合いをつけられるようになって、以前ほどしんどくはなくなってきた。それでもしんどいことには変わりない。おそらく、このしんどさは親になった多くの人が共通して感じてきたことだろうと思う。そういう人の共感が得られたなら少し嬉しいし、これから親になる予定がある人は、もしかしたら心構えのようなものができるかもしれない。そんな話である。

人生の主役を生きる

自分の人生の主役は自分。みんなそう思って生きている。自信満々で生きていようと、絶望に打ちひしがれていようと、誰もが自分の人生の真ん中にいる。自分に自信がない人は人生の主役が自分だなんて思ったことがないかもしれないが、それは間違いだ。自分が人生の真ん中にいるからこそ、自分の成功を願ったり他者との関係で悩んだりするわけで、どんなに控えめでシャイで自意識が低くても人生の主役は自分以外にはあり得ない。

ただ、このことに自覚的かどうかは人よって違う。自分の人生について、イメージ通りにコントロールできていると思いまたそうなるように行動する人もいれば、ままならぬ我が人生を恨みに思ってなぜ自分ばっかり上手くいかないのかと日々悶々とする人もいる。前者にとっては人生の主役は自分というのは当たり前のことだろうが、後者にとってはなかなかそれに自覚的になるのは難しい。

僕はといえば、たぶん、これについてあんまり自覚的ではなかったと思う。それなりに、というか人並み以上の自意識はあった気がするが(バンドでボーカルやったりしてたし笑)、それが人生のコントロール感につながっていたことはないし、人生の主役などという概念すらはっきり持ったことはなかった。なんとなく生きていた。とても長い間、僕はなんとなく生きていたんだと、ある日急に思い知らされることになった。

急すぎるシナリオ変更

ある日急に、というのは、いうまでもなく子供が生まれた日のことだ。もちろんその前には妊娠期間というのがあるわけで、昨日までなんの兆候もなかったところに急に子供が生まれるわけじゃない。ただ、その妊娠も僕にとっては当事者ではない。少なくとも物理的には。もちろん妊婦さんに色々な困難があることは理解できる。でもそれはあくまでも自分の手に届く範囲の想像に過ぎない。たとえ妻が妊娠中でも僕自身は夜中に急にフライドポテトを食べたくなったりしないし、僕の体の中で心臓が二つ拍動したりはしないのだ。

もちろん諸々の準備は人並み程度にはしてきたつもりである。健診にはほとんど立ち会ったし、父親講習的なものにも参加した。育児書なんかも読んだりした。でも、準備は結局準備であり、子供はまだそこにいない。想像上の子供のために想像上の子供と同じ重さの重りを背負ったり、想像上の子供を可能な限り具現化した人形相手に首が安定する抱き方を教わる。これらは全て、もし生まれたとしたらというシミュレーションであり、どこまでも紛うことなきフィクションだ。避難訓練。それでは臨場感は生まれないし、できることはせいぜい手順の確認が関の山。結局事件は現場でしか起こらないのだ。

いささか例えが不適切な気がしないでもないが、ともかくそんなわけで万端ではないにしてもそれなりの準備は整えて(ほとんど妻がレールを敷いてくれた準備だったが)、いよいよ我が子誕生という慶事を迎えることになったのが4年と少し前。そして、この時僕の人生のシナリオは書き換えを余儀なくされた。自分史上初めて自分よりも優先しなければならない存在の出現したことによって。

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