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[考察]点を楽しむ/線を楽しむ
点と線。
スティーブ・ジョブズのコネクティングドッツにも登場する点と線。
線は点の連続だ。
サッカーワールドカップなどのスポーツ大会も、点としてみている人、線としてみている人がいる。
点としてみている人は、いわゆるにわかファンと呼ばれたりする。
線で見ている人に比べて、細かい文脈はわからないけどなんだか盛り上がっていることを楽しもうとする人。
一方、線で見ている人はこれまでの前の文脈をそれぞれ繋げた延長でワールドカップをむかえているのだろう。
どちらがどうだということではない。
なぜなら線の始まりはいつだって点だったはずだからだ。
別の視点から点と線について考えてみよう。
たとえば写真と動画も、ある意味では点と線といえるかもしれない。
写真は流れている時間の一部を切り取った点だし、
動画はその点を繋いだものだから。
ただ、写真が好きな人が動画の「にわか」なのかといえばそんなことはない。
線である動画は、線であるがゆえに線以外の部分を見ることはできない。
一方、点である写真には次なる点を想像する余地があるようにおもえる。
これをワールドカップに当てはめてみると、点で見たときのワールドカップは、線で見たときのワールドカップとはちがう見方ができるということかもしれない。
2022年大会を線で見ている人は、ドーハの悲劇がドーハの歓喜に変わった、という文脈に大興奮する。
しかし点で見ている人はもしかすると、サッカーってこんなところがあんなふうに面白いんだという部分に感動していたりするのかもしれない。
線で見ている人にあって点で見ている人にないのは「文脈」。
点で見ている人にあって、線で見ている人にないのは「観察」だ。
イマココを大切にするマインドフルネスな「点」。
コンテクストから喜びを見出す「線」。
本質が何か感じとるところからはじめるなら「観察」をしてFEELするのがよいだろうし、
この「観察」が何をなすのか、並べてつなげて「文脈」をTHINKすれば意味になる。
ブルース・リーは先にFEELせよと言った。
きっとFEELで得た何かをTHINKして意味にせよと言った人も探せばいるはずだ。
点と線にはそれぞれ楽しみ方がある。
でも人間は意味を見出したがる生き物だ。
目を閉じているときに、冷たいものが手に触れたならそれがなんなのか想像してしまう。
「冷たい」と感じただけで終わることはない。
「冷たい」という「点」を頭の中で別の点につなげて何に触れたのか考えて「線」にしてしまいたくなる。
あとは一度「線」になったものを再び分解して、「点」からはじめられる勇気があれば、この世界は何度だって味わい直せるということを心にとめて生きたら、もっともっと楽しめるのかもしれないね。
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