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多様性のパラドックス

 最近友達が言っていました。
「多様性って言葉嫌いなんだよね、多様性を認めろっていうけどさ、"多様性を認めない人"のことは認めないじゃん。一貫してない。」
つまり、多様性を認めない人という存在も含めて多様性であり、その時点で自己矛盾。
そう指摘したかったわけです。

 でもね、私はそうは思わない。
 多様性って全ての人を許容しようという話ではないから。極端な話、多様性の重要さを主張している人たちが「人を殺めてしまう人も許容しよう」とまで思っているでしょうか。
文脈を読まずとも答えはNOだとわかります。

 多様性を認めようという言葉には、(社会の大多数の人にとって実害のない)色んな要素を持つ人を認めようという括弧の意味が内包されていると思うんです。そして多様性を認めない人たちの行動は実害があると考えられている。ただし、今私が使った「多様性を認めない」という言葉には、それを示す態度や行動を全面に出すという意味を含んでいることを、ここで断っておきたいと思います。思想・良心の自由は日本国憲法で認められている不可侵な権利ですし、私もそれは正しいと思っています。

 ただ、それを説明してもなお、多様性を認めない人たちはいるでしょう。そして頑なに意見を曲げない理由がまだあるように思えます。それは、「存在することに嫌悪感を持つ、だから実害をもたらしているのはお前らだ」という主張です。そもそもなぜ他者の存在を認めなければならないの?と。自分が良ければそれで良いじゃん、と。
 その主張をされてしまうと、あとは正義vs正義の話になってきます。異なる文化・思想という前提から出発しているからこそ、論理的に正しくても異なる結論を導いてしまうわけです。
「勝者だけが正義だ」
漫画ワンピースに出てくる名悪役、ドフラミンゴが言った言葉です。私はこの言葉がとても本質的で、人類史を巧みに表現しているように思えます。切れ味が鋭すぎる気もしますが。尾田先生の表現力にはいつも驚かされます。

 このような話に帰着してしまうからこそ、人間は戦争という失敗を繰り返してきたんですね。生き物としてとても賢く、なのにとてもアホです。
 だからこそ、多様性を推し進めていく側は、歴史を繰り返してしまわないように、多様性を拒む人たちにもメリットがあると説明できなければならない。可能な限り多くの人がより幸せを感じるように、メリットがあるように、そして一部の人に過度な重荷を背負わせないよう注意しながら主張するというのは骨が折れますね。

 折衷案を探すというのは、如何なる場合においても大変なのだと分かります。ちなみに他の投稿でも主張していますが、多様性を高めることに対しては肯定派です。ただし、決してキラキラしている概念ではないとも思っています。多様性を高めるというのは、全ての人の思想を容認するが、全ての態度や行動まで認めるわけではないのですから。

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