読書感想文 その3 『A3 上・下』(集英社文庫) 著:森達也 〜オウムを知らない子どもたち〜
森達也作品は映画『A』『A2』をはじめ、今年(2023年)話題となった劇画『福田村事件』、ドキュメンタリー映画『FAKE』、その他のテレビドキュメンタリー等の映像作品(DVD保持)、書籍『オカルト』『ドキュメンタリーは嘘をつく』『放送禁止歌』『死刑』などの文筆作品、鑑賞、拝読しています。
しかしながら、こちら『A3』の上下巻、加えて2017年11月に発売している『A4』に関してチェックを怠り10年以上の時が経っておりました……。なので自分の中に今更感があるのですが、この「今更感」こそ、今回自分が払拭しなくてはならない、忌むべき存在なのではないかと、このnoteを書きながら思っています。
ちょうどこの『A3』が単行本化された頃に大学生だった私は、映画『A』『A2』を学内の視聴覚資料で観ました。それに衝撃を受け『A3』を読もうと思いましたが……正直もうお腹いっぱいなのでした。
そうこうしているうちにその大学を卒業し、数年経った2018年7月6日(および26日)には麻原彰晃をはじめとしたオウム真理教事件に関与した確定死刑囚計13人の死刑が、全オウム裁判終結後7年と経たない(麻原の死刑確定は2006年9月15日)うちに執行されました。確定から執行までの期間に明確な規定は存在していないにせよ、付属池田小事件の宅間守の執行などがあったにせよ、歴史的には異例と呼べるほどに早い執行だったと思います。映画『A』シリーズから、多少森達也の発言や周辺の話題に触れていた私の目には、この執行が不都合な歴史を掻き消し、強制終了させたように見えました。
というわけで、今回『A3』上下巻を読了。
〜『A4』は少し後で、空腹を待ちます。〜
さて私も含めて、オウム真理教による事件を知らない世代が次々に大人となっていますね。危険や禁止に溢れ、ありとあらゆる自由に規制がかかり、粛々と無機質に狭くなる世間を目の当たりにしてきた世代であると、個人的には感じています。そんな過剰な“セキュリティ社会”が生まれる始まりに位置していたかもしれないこの事件について、私たちは殆ど知らないわけです。
〜勿論、95年のその日から沢山の事がありましたし、一連のオウム関連事件だけが、そんな現状を生んでいるのだと私には言えませんし、そうではないでしょうが、“始まりにあった”のだとは思います。〜
私も、森達也が一貫して主張してきたように、「真実」には必ず“誰かの主観(目線)”が入っていると考えています。私たちが目にするメディアは誰かが見聴きし、記録され、編集されたものであり「ありのままはありえない」のです。目にする情報には必ず、どんなに小さい物事だとしても、何かが隠されているはずなのです。今回も読み終えて改めてそう感じました……と同時に、この国の権力への疑問、民衆の恐怖と共鳴し思考の画一化(単純化)を煽動するメディア、についてを考えさせられ(というより、知らしめられ)ました。
事件の頃私は幼少であり記憶はまるでありませんが、今冷静に俯瞰すれば、一連の報道やオウム排除に動く民衆の思考と挙動は、あからさまに偏っていたと思います。
決してオウムや麻原を擁護するものではありませんが、麻原裁判から見えるのは法治国家としての裁判所への疑問、善悪の二元化による思考の単純化、民意のポピュリズム(大衆迎合主義)化、それらから来る明らかな差別、には目を覆うものがありました。
〜その昔「戦後最も成功した社会主義国家は日本だ」なんていう皮肉を残した何処ぞの国のお偉いさんがいたそうですが、その皮肉にも納得してしまいそうです。〜
麻原裁判の1番の論点は「訴訟能力の有無」でしょうが、結論から言うと私は「なかった」と思います。
7年間誰とも口を聞かず(聞かせてもらえず?)、同じ身体の挙動を反復し続け、娘の前ですら自慰行為を行い、寝ても覚めても糞尿にまみれ、便所ダワシで身体を清掃される人間が「詐病」であったとは私には思えません。
また弁護人抜きで秘密裏に麻原に接見し、訴訟能力がある(意思疎通ができる)と判断した須田裁判長の行動には疑問が残って当然ですし、訴訟能力の欠如と精神鑑定を求め、控訴趣意書の提出延期を求める二審弁護団の依頼による精神鑑定にて、6人の精神科医が「拘禁障害」ととれる症状を診断し、治療による回復の可能性を示す中、裁判所からの指名を受けた西山詮精神科医の{「偽痴呆症の無言状態」であり「意思疎通可能」}という鑑定結果はあまりにも粗雑で、検察側への偏りを感じました。
〜実際の鑑定結果の中身も、結果に対して理に適い切れておらず、恣意的で情緒的な個人の主張と取れる言葉が多用されており、医師の鑑定書としてはあまりにも信憑性に欠ける物だと感じました。〜
さらには控訴趣意書の提出再延期を許可(弁護団と期限内での提出を約束)しておきながら、期限を待たず西山詮精神科医の鑑定結果を持って控訴を棄却するに至った(死刑が確定も同然な状態となった)、一連の流れに法治国家としての疑問を抱くのは当然かと思います。ここに「公平な裁判」は存在していたのでしょうか?
〜「麻原に裁判など必要ない」と言う意見はまた別の論点です。それがそもそも善悪の二元化(単純化)であり、批判対象なのですが、その辺りも含めてぜひ読んでみてください。〜
私は読めば読むほど「詐病」に疑問を抱き(明らかに異常で麻原に訴訟能力があるとは思えない)、警察・検察・裁判所には隠したい何かがあるのではないか?…とまで思わされました。前述しましたが、事件の頃私は幼少であり記憶はまるでありませんが、今冷静に俯瞰すれば、一連の報道やオウム排除に動く民意は、あからさまに偏っていたと思います。だって、これらの事実がありながら、民意も報道もただ一択「麻原裁判の早期終了」(及び「死刑執行」)に疑問を抱かなかった訳ですから。
〜麻原が何も語らず死んだ以上、なぜこの事件が起きたのか、真相はもう何を言っても空想に過ぎないのです。〜
「メディアは民意の鏡像だ」。森達也が本書内で使っていた言葉です。メディアは常に「わかりやすさ」を目指します。売れることが正義だからです。このような事件では民衆が感じた「悪」とメディアが強く結びつき、善悪の二元化が起こります。そして民意は単純化し、肥大しながら一直線に突き進みます。そこで疑問を感じ「正しさ」を求める人(「逡巡」「煩悶」する人)は置き去りにされ、批判の的になってしまいます。
しかしながら、私にも、この時代の中を実際に物心を持って生きていたとしたら、これほど冷静に状況を俯瞰できていた自信はありません。
〜事実この『A』シリーズが無かったら、考えることもなかったでしょう。〜
しかし、だからこそ、知らない世代である我々は、知り、自らで考えるべきだし、考えることができる人なのだと思います。
上の世代が忘却したい記憶であっても、俯瞰することで、情報が高密に統制され危険性に極めて敏感になり続ける社会が形成されてきた歴史を改めて捉え、一人一人が今を生きる自分にとっての「真実」を掴むことが、良識かつ自由な未来を生み出すきっかけになるのではないでしょうか。
戦いばかりの世の中で反吐が出ますが、逆手に捉えればこれらは「自衛合戦」です。人はいつも自らの物、人、権利、権力、主義主張、を衛(る)ことに必死です。当たり前といえば当たり前です。ですがその時武器を手にするば「戦争」に変貌して行きます。これは例えばの話ですが、最終局面で身を衛(る)人であれるのか、それともその反対側に立つのかを決めるのは、何に騙されようとも自分です。だから、私はいつでも見極められるよう努めていたいと思うのです。
オウムを知らない子どもたち。
そんな、「今」の「僕ら」だからこそ。
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