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第一章「泡沫」峰橋志夏

 初めて咲子が僕の家に来たのは、小学校2年生の夏だった。玄関を開けると、薄手のワンピースに麦わら帽子を被った君が柔らかな笑みを浮かべ立っていた。「遊ぼう」そう言って君は真っ白な歯を見せて笑った。君はまるで天使そのもので、僕は導かれる様に、極自然に君に恋をした。
 僕等は同じ小学校のクラスメイトで、登下校の方向が同じだった事もあり、よく行動を共にした。咲子は幼い頃からとても美しい容姿をしていて、髪は長く肌の色は透き通る様な白さで、目は大きくくっきりとした二重瞼、唇は薄く、シャープな顎。幼いながらに周りの同級生達も皆彼女の容姿が群を抜いて美しい事に気が付いていた。そんな咲子が何故僕の家を訪ねて来たのかは未だにわからない。なにしろ咲子は気まぐれな性格の持ち主で、当時から僕は翻弄されっぱなしだった。けれど咲子は決して僕以外の異性に靡くことはなく、男に見向きもしなかった。今思えば、先に恋をしていたのは僕の方ではなく、恐らく彼女の方だったに違いない。
 咲子は時々前触れもなく僕の家を訪れた。僕が習い事を多くこなしながら生活をしていることを知った上で、唯一全ての習い事が休みである水曜を狙って。僕等は決まって水曜の午後になると公園や家で遊んだ。それは小学校3年生に進級するタイミングで行われたクラス替えで別々のクラスになっても、変わらず続いていった。けれど小学校4年生になり僕がバスケット部に入部すると環境は著しく変わった。毎日部活や習い事で忙しく遊んでいる暇など全くなくなってしまい、咲子との時間を設ける事が難しくなったのだ。それと同時に、思春期が始まり、僕は恥じらいの様な感情を咲子に対して抱き始めていた。そんな僕とは裏腹に、咲子は更に美しくなった自らの容姿にまるで気が付いていない様子で、変わらず僕に接するのだった。
「志夏、一緒に帰ろう」
僕は部活の仲間達と一緒に帰るからと言い、よく咲子の誘いを断った。けれど、断った理由はそんな単純なことではない。本当は、彼女の美しさがただただ怖かった。その美貌がいずれ僕を狂わす様な気がしていたし、芽生えかけた性に対する興味の矛先が彼女に向けられている事実から逃れたかったのだ。それでも僕等は時々同じ時間を過ごす事をやめなかった。夕方のほんの少しの時間公園で話したり、長期休みの間に人目を避けるように電車で2駅程離れた街を当ても無く歩いたりした。咲子はいつも並んで歩き始めると、僕の手を握り照れたように笑った。その度に僕は胸の奥に熱く締め付けられる様な痛みを覚えた。

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