倉本裕梨

1997年12月12日生まれ/ 多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業/同大学院デザ…

倉本裕梨

1997年12月12日生まれ/ 多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業/同大学院デザイン専攻修了/Twitter https://twitter.com/kuramotolian / ✉️note1_ok1212world@icloud.com

マガジン

  • 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用

    2022年に執筆した論文『写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 』を章ごとに連載しています。友人の死から写真の意味を考察することに始まり、数人の写真家や社会評論家のヴァルター・ベンヤミンの著作から写真の場所性と記念碑性、そしてそれらの歴史観への応用について考えます。

最近の記事

ポートレート写真は『真実』と言えるか?

ポートレート写真は『真実』と言えるだろうか? 一般的に写真は『真実』を写すメディアであると認識されていると思う。写真表現は『真実=世界がありのままに写る』という特殊な性質ゆえにこれまで独自の発展をしてきたのだろう。写真術が興った初期こそ、写真も伝統的な絵画表現の範疇に収まってはいたが、人々は次第に『世界がありのままに写る』この特殊性に気づき始め、ついには絵画から独立していった。そしてこの性質は、今日でもなお写真術の根幹に揺るぎなく立ち続けているものである。今回私が書いていく話

    • 原芳市 写真集『常世の虫』 - “語り尽くせぬこと”を写真は語る

      《常世の虫》 『現の闇』『光あるうちに』に続く、原芳市が紡ぐもうひとつの闇と光の世界。 引用: 写者舎 https://www.shashasha.co/jp/book/tokoyo-no-mushi 原芳市による「常世の虫」。後書きによると「常世の虫」という言葉は日本書紀の中にあるようだ。タイトルの通り、この写真集にはたくさんの虫が登場する。巣を張って獲物を待つ蜘蛛、小さな虫を食べるカマキリ、フェンスを移動する芋虫、葉にとまる蝶などだ。それらと同じ視線で、虫を追いかける子

      • 山崎茂 写真集《Weekend》 -時を超える『視線』

        《Weekend》 写真家 山崎茂が1974-77 / 2015-20年に東京、横浜を撮影した写真集。 この写真集を読み解きながら私は「なんだか安心した」。 何が安心したのかというと、『二つの時代に同じ視点が存在できたのだ』と感じることができたからだ。 いつも私は私が生まれるもっと前の写真を見た時、ただイメージをイメージそのものとしていいものと感じたりしていたのではなく、『失われた昔の景色である』というその時代の隔たりを加味して写真を味わっていた。むしろそれがあるからこそ

        • ayakaendo ”when I see you, you are lumious” 『気持ち悪さ』の正体

          遠藤文香さんの個展 ”when I see you, you are lumious”を鑑賞しての感想。 入ってまずぐるっと会場を一周した。視覚的には綺麗であり目は満足しているのに、生理的に『気持ち悪かった』と感じた。そう、私のこの展示に対する第一の感想は『気持ち悪い』だった。この『気持ち悪い』という感情を抱いたのはこの展示に意図的に隠された数箇所のギャップによるものである気がしている。今回は私が感じた数カ所のギャップを辿り、この写真展の意味を自分なりに考察してみようと思う

        ポートレート写真は『真実』と言えるか?

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        • 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用
          9本

        記事

          ブレッソンが見ていた『風景としての群像』

          今回はヘンリ・カルティエ=ブレッソンの4冊の写真集《AMERICA IN PASSING》、《EUROPIAN》、《INDIA》そして《Photographer》を踏まえた上で、私の考える彼が写真を通して見ていた景色『風景としての群像』について考えていこうと思う。 私は《AMERICA IN PASSING》、《EUROPIAN》、《INDIA》という特定の地域を題材としたブレッソンの写真群をそれぞれの序文などを参考にしながら考察を進め、一つの仮説を立てた。それは「ブレッソ

          ブレッソンが見ていた『風景としての群像』

          デジ-アナ論争 『写真』とは『イメージ』か?

          終わらない論争として『写真のデジアナ論争』がある。デジタル写真とアナログ写真はどのような意味において違うのか。それともそもそも媒体が違うだけの全く同じものなのか。数ヶ月前、私はある写真家とこのような話をする機会があった。彼は『デジアナ論争なんてする意味ないんだよ』と言った。彼はデジタル写真もアナログ写真も『像を写したイメージ』として同じように捉えているようだった。 私は彼と話していて、『写真』とは単なる『イメージ』なのだろうか、とふと思った。『イメージ』としてデジタルとアナ

          デジ-アナ論争 『写真』とは『イメージ』か?

          【♯9】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第4章 写真と記念碑】 -4

          4 - 4 他作品から考える風景の保存 4 - 4 - 1 ベアトリス・ゴンザレス『無名のオーラ』 場所を作品として保存した例として、ベアトリス・ゴンザレス *『無名のオーラ』を取 り上げる。この作品は、70 年前に建造され 2003 年に取り壊しが決まったコロンビアの ボゴタ中央墓地を、記憶の共有場所として保存する取り組みである『Lugar de memoria(記憶の場所)』というプロジェクトの一環で制作された。個人の存在や感情を軽視する 自国の公権力に対し、彼女は無

          【♯9】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第4章 写真と記念碑】 -4

          【♯8】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第4章 写真と記念碑】 -1,2,3

          第4章 写真と記念碑4 - 1 ヴァルターベンヤミンの墓標  写真の場所性とベンヤミンの歴史観の関係をさらに深く考察するために、マイケル・タウシグ*の著書『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』*21)第1章を一つを手がかりとして考えてみる。第1章ヴァルター・ベンヤミンの墓標は、文化人類学者マイケル・タウシグがベンヤミンの墓標を探すため、彼が1940年に自死を遂げたスペイン、カタルーニャ地方及びピレネー山脈を探訪するという話である。このピレネー山脈では、第二次大戦中、ナチスからの迫

          【♯8】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第4章 写真と記念碑】 -1,2,3

          【♯7】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -2

          3 - 2 ベンヤミンの史的唯物論と写真の場所性  ベンヤミンやバルトの写真論の中では、彼ら独自の写真論を展開させる際に時間や生死といったキーワードが関連してくる。これまでの私の論でも、一人の人間の生死から写真を考えることを通して時間や歴史まで考察を伸ばしてきた。ここでは特にベンヤミンが著した歴史観や時間概念や、バルトの写真論などを通して私の主張する「写真の場所性」と、写真が持つTimescapeとしての性質を考えていきたい。  3 - 2 - 1 写真における「危機の瞬

          【♯7】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -2

          【♯6】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -1

          第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性  ここで示した「写真の場所性」に対する私の見解は、ヴァルター・ベンヤミンが彼の著書、『歴史の概念について』*15)などで著した彼独自の唯物史観などの歴史観、時間観念に大きく影響を受けて形成された。そこで語られているベンヤミンの時間に関わる見解は、“写真の中に堆積した時間が保存される”という私の意見を補強し、大きく飛躍させた。  実際、写真に関してはベンヤミンも前掲の『写真小史』や『複製技術時代の芸術』などで意見を述べてはいたが、あまり前向

          【♯6】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -1

          【♯5】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第2章  写真の場所性】 -2

          2 - 2 Timescapeとしての写真  以上のように、写真の場所性の説明には、場所が内包する(記憶する)時間について理解する必要があった。では、この理論を受け写真が表しうる時間の概念についてもう少し深く考察してみる。  写真とは言うまでもなく、機械の眼を通して人間の視覚がとらえた場所を像として残す技術である。写真の機能は何か、と聞かれて多くの人は主にこのことを挙げるだろう。しかし、前章で説明した通り、写真にはもう一つの大きな機能が備わっていると言える。写真の機能とは言

          【♯5】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第2章  写真の場所性】 -2

          【♯4】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用━ 【第2章 写真の場所性】 -1

          第2章 写真の場所性 第一章で触れた写真が持つ過去とのつながりの過程と、過去とのつながりによって得られる写真の深みの正体を考察したところで、この論文の本題に入ることにする。  写真とは時間の流れから瞬間を切り取るものであり、動から静を生み出すものでもある。しかし我々はしばしば完全な静止画であるはずの写真から、その写真の中に存在する大小の時間の流れを体感として感じることがある。それは「静から動を生む」こと、つまり、写真術それ自体の機能である「動から静を生む」ことの逆転の現象が

          【♯4】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用━ 【第2章 写真の場所性】 -1

          【♯3】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第1章 過去とのつながり】 -3

          1−3 遺影 1−3− 1 遺影と過去   数ある写真の中でも、特殊な意味をもち我々に影響してくるものがある。それは遺影だ。遺影とは言わずもがな故人を偲ぶために仏間などに飾られている故人の肖像写真のことである。遺影に対して我々が持つ特殊な意識と遺影自体が持つ特殊性から写真そのものが持つ性質について触れていきたい。我々は遺影を故人の身代わりであり、ある種神聖なものと捉えるが、それはなぜなのか。   まずは遺影における「過去の対象との実質的な繋がり」を考えてみる。私たちは遺影を

          【♯3】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第1章 過去とのつながり】 -3

          【♯2】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用━ 【第1章 過去とのつながり】 -1

          第1章 過去とのつながり   「はじめに」でも述べたように、私たちは写真を見ることを通して過去に撮影された対象物と繋がっているような感覚を覚えることがある。これは写真がその誕生から現在まで私たちを魅了してきた一つの要因であると考えられるが、私たちが感じるこのような感覚は一体どのような理由から来ているのか。このことはカメラの成り立ちとその仕組みから考えていくことができる。 1−1 写真の成り立ち  まず、写真技術の成り立ちを見ていく。Webサイト『Canon Global

          【♯2】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用━ 【第1章 過去とのつながり】 -1

          【♯1】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ はじめに / 研究の目的

          はじめに   私は5年前の親友の死をきっかけに写真についてよく考えるようになった。彼女が死んだことを知ったとき、彼女が写った写真はいつも見ている他の写真とは全く違う意味を帯びていた。私は写真の中に彼女の声や仕草、彼女との時間など存在そのものを投影していた。その時私はこの自分の感覚に違和感を覚えた。それは実際には彼女ではない写真という単なる「像」に彼女の存在を見出していることへの違和感だった。私が見ていたのはスマートフォンに写る、0と1のデータに置き換えられ、ただの色の組み合わ

          【♯1】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ はじめに / 研究の目的

          東日本大震災─アートにできることはなんだろう

          卒業制作の記事を書いてから早くも2ヶ月半が過ぎてしまいました。 お久しぶりです。あれから私は大学院に進学し、学部時代の作品の想いを引き継いだ作品制作を始めています。今回はその作品について私が考えていることを記事にしたいと思います。 文末に作品制作のための調査として簡単なアンケートを用意していますので、そちらもご協力いただけると幸いです。 まずは大学院での研究の土台となっている学部時代の2つの作品を紹介させてください。 8月6日、ヒロシマ。 1945年8月6日午前8時

          東日本大震災─アートにできることはなんだろう