見出し画像

ayakaendo ”when I see you, you are lumious” 『気持ち悪さ』の正体

遠藤文香さんの個展 ”when I see you, you are lumious”を鑑賞しての感想。

入ってまずぐるっと会場を一周した。視覚的には綺麗であり目は満足しているのに、生理的に『気持ち悪かった』と感じた。そう、私のこの展示に対する第一の感想は『気持ち悪い』だった。この『気持ち悪い』という感情を抱いたのはこの展示に意図的に隠された数箇所のギャップによるものである気がしている。今回は私が感じた数カ所のギャップを辿り、この写真展の意味を自分なりに考察してみようと思う。

ayakaendo "when I see you, you are luminous" 展示風景 1面目

まず最初に感じたギャップは、冒頭に書いたようなことだ。基本的に視覚的に美しいモチーフが美しく撮られ、構図も安定している日の丸構図や、上下分割構図が多用されており、さらには展示も複数の写真が長方形に綺麗に収められた壁面が3面で構成されていて非常に理性的と言える。つまり意図的に『美しく見せようとしている』ともとることができる。が、この逆にわざとらしいとさえ思える綺麗さの中、ところどころにその『気持ち悪さ』に気付くための布石となる写真が紛れているのである。それが生気なく横たわる犬の写真と数枚の目の写真だ。そこまで見進めてきたその他の写真からは動物たちのの動的で生物的な息を感じることができていたのに、この数枚の写真で急に道を断ち切られたように足を止められる。写真の中の犬は打ち捨てられたモップのように横たわっており、全くと言っていいほど生命力を感じることができない。(生きているかもはや死んでいたのかはさておき)ここですでに『そういう』写真展ではないことが仄めかされる。進むと目を大きくトリミングした写真が現れる。ここではっきりと違和感に気が付く。目はアイコンとして美しさや生気を象徴することもあるが、この展示の中では圧倒的に現実的に描写されており、目が生物の内に隠された内臓の一部なのだと痛感させられる。私はこの目の写真に対して異常な気持ち悪さを覚えた。『美しいものであるはずだ』という思い込みからの落差にもよるものだ。そしてここでハッとする。そして「あれ、生き物って本当は美しいんだっけ…?」と。そう思い始めてから、そこまで『美しい』と思って見てきた動物たちが急に醜く見えてしまうのだ。ここに一つ目の気持ち悪さへ向かうギャップが存在する。

私が感じた2つ目のギャップは1つ目のギャップありきで見えてくるものだった。それは冒頭で述べた「視覚的に美しいモチーフが美しく撮られ」という部分に関わってくる。撮影時のストロボとレタッチなどの効果によって、生き物たちはどこかこの世ではない場所で人間など露知らず生活しているように見えて(見せて)いる。まるで動物たちの楽園を覗いているような画角だ。ただ「表面的には」、である。1つ目のギャップによって生命本来の美しさに疑問を持ってしまった視線では、動物たちがわらわらと巣食うその世界が天国なのか地獄なのかはもはやわからなくなっている。その中からキッとこちらを見つめ返してくる数匹の動物たちが我々に何を問いかけているのか…。きっとファンシーな言葉ではないだろうことも容易に予想がつく。

ayakaendo "when I see you, you are luminous" Main visual

この2つ目のギャップがこの写真展に存在していることを確信したのは展覧会のメインビジュアルでもある大きくトリミングされた鳩と、展覧会の順路的に最後のブロックに配置された小屋にいる無数の鳩との対比だった。この二つの写真で私は「これは全部意図的に仕組まれている」と確信した。空を自由に飛んでいるかと思われた真っ白な鳩は、実は他の鳩たちに囲まれながら管理された狭い小屋の中で必死に羽ばたいているだけだったのだ。この鳩は決して空には飛び立てない。そうだ。この展示に示されている動物の地獄には人間が関与している。

ここまで全て含めて『気持ち悪い』という感想に至ったのだ。

ストロボライトとニュートポグラフィクス


またこの写真群に共通するのはストロボを使って撮影されているということも挙げられる。ストロボによる強い発光には、画角の全てに均等に光を当て、さらにカメラ側からの光であるために影が画面から消え、さらには被写界深度も深くすることが可能だ。つまり、手前にあるモチーフも奥にあるモチーフも『全てが均等に表現される』ということになる。これは撮影者の視線がその画面上から可能な限り排除されているということだ。

1970年代に「ニューカラーフォトグラフィ」というスタイルがアメリカで起こった。スティーヴン・ショアなどが代表的なニューカラーの写真家として挙げられる。これは大型カメラを三脚に固定し、シャッタースピードを遅くしてピントを最大に絞って撮影するという手法を取ったもので、画面の中のものをとにかく等価値にするという意図のものだった。ニューカラーは発展を続けるアメリカの郊外(自然と都市の境)にこの圧倒的に客観的な視点を向けた。さらにニューカラーに続く「ニュートポグラフィクス」ではニューカラーと同じ手法を用いて、さながら地理学者のように土地を見つめ、『人間が変えていく風景を客体化する』ことを目指した。そこに自己の意見は存在しない。ただそこに赴き観測を行っただけ、である。

遠藤のこの写真群におけるスタイルにも、ニューカラーや、ニュートポグラフィクスと同じような視点が見られるのではないかと感じた。「この世界は天国か、地獄か。」と問いかけてはいるが、問うているのは撮影者である遠藤ではない。この世界に『存在してしまった』生き物たちなのだ。遠藤自身も鑑賞者側を装っていることもこの展示においてアイロニカルな部分である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?