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ブレッソンが見ていた『風景としての群像』

今回はヘンリ・カルティエ=ブレッソンの4冊の写真集《AMERICA IN PASSING》、《EUROPIAN》、《INDIA》そして《Photographer》を踏まえた上で、私の考える彼が写真を通して見ていた景色『風景としての群像』について考えていこうと思う。

私は《AMERICA IN PASSING》、《EUROPIAN》、《INDIA》という特定の地域を題材としたブレッソンの写真群をそれぞれの序文などを参考にしながら考察を進め、一つの仮説を立てた。それは「ブレッソンは集団が、集団として内包している空気=風景としての群像をカメラで捉えることに長けていたのではないか」と言うことである。その時代や集団がその全体として無自覚にもっている思想や感情などの大きな運動を、彼はその特定地域の群像の中に見ていたのではないか。私は彼が集団の中に見ていた地平を『風景としての群像』(群像が、ある風景のように、一つの大きなものに溶けているような状態)と名づけてこのような考察をしてきた。ブレッソンは一般に「決定的瞬間」を切り取る魔術師だと言われたり、その絵画的魅力によって世に知られていることは間違いないが、私は常々ブレッソンはそのために偉大である訳ではないのではないか、とも考えていた。

《Photographer》

《Photographer》の序文を参考にこの『群像としての風景』について考えてみる。序文は詩人のYves Bonnefoyによるもの。非常に驚いたのだが、彼も私の考察していたようなことを少し違うい言い回しで考察しているようだった。「彼は、空間の特定の地点からではなく、すべての生命の同時代人であり、すべてのものの隣人である死を認めるところから写真を撮っているのである。」これは人々を全体(時代や世界とも言える?)に溶け合う群像として捉えていた、と言うことだといえるだろう。全てのものには死が訪れ、やがては時代に、世界に還元されると言う視点が前提としてあった。ボネフォイはこれと禅や弓道と関連づけているようだ。「直感、静謐な速さ、絶え間ない緊張から引き出される平和--カルティエ=ブレッソンのこれらの才能はすべて、禅僧の精神の準備に極めて近いものである。敵や世界と一体でなければならない日本の決闘者のように、彼は死への恐怖を克服することを学んだようです。」私の観点から述べると、世界(アンリが存在したある場所)と自分を融和させる精神を持っていたと言い換えられるかもしれない。つまりブレッソンもまた『風景としての群像』の一部として撮影を行なっていたのだろう。

《INDIA》

この、ブレッソンが写真家として持っていた”世界と自分を融和させる精神”は、写真集《INDIA》の中で最もよく考えることができる。《INDIA》序文を書いたYves Vequaudによると、『ヒンドゥー教徒は原則的に聖と俗を区別しない。人生全体が神職であり、宇宙の営みを可能な限り調和的に分かち合う。だから、あらゆる行為が儀式となる。食事にも、恋愛にも、入浴にも儀式がある。小宇宙と大宇宙が対応しているので、すべての行為、つまり儀式がうまくいくと、神々と呼ばれる宇宙の力が呼び起こされるのです。』とされている。この写真集の成功の理由は、このようなヒンドゥー教の理念と、彼の写真を撮ることを通して、彼が存在する世界と自分を融和する精神がうまく重なったからであるかもしれない。ブレッソンはヒンドゥー教徒たちの生活の側面を覗くことで、彼らが持っている宗教の宇宙へと到達できると確信していたのだろう。このような視点を持つと、写真集で見ることのできる何気ない生活の風景の中に、この集団が集団として内包している1つの大きな宇宙を見ているかのような気持ちになる。

《INDIA》

 またボネフォイはこうも述べる。「しかし、報道写真家のように歴史的価値のためにこれらの瞬間を珍重したと考えるのは大きな誤解であろう。彼の教訓は、玄関にいる老婆は、行進する軍隊や賢人の死と根本的に同じ重要性を持っているということでもあります。」これはヴァルター・ベンヤミンの『量的変化による歴史知覚』と『質的変化による歴史知覚』の言及にも重なるところがある。つまりこの場合は、時代を大きな物語の中で認識するのではなく、『人々が時代を超えた大きな塊としてどのように運動しているか』と言うことをもって時代を認識すると言うことだ。物語ベースの歴史認識下では、必ず無視され存在をなきものにされるものたちが現れる。彼は確かに常に時代の変化の中心にいて、その地域を撮影してはいるが、決してその人々が個人として意味を持つことはなかったと言えるだろう。逆説的に、彼が常に時代の変化の地にいたことが、世界を群像として捉える精神の形成に寄与したのかもしれない、とも思える。しかし、ブレッソンの自分自身の写真についての言及からは、彼は自分でそのことを認識していなかったのかもしれない。(彼は自分の写真について、構図などの表面的な特徴しか話さなかったようだ)

《AMERICA IN PASSING》

 またボネフォイによる「しかし、報道写真家のように歴史的価値のためにこれらの瞬間を珍重したと考えるのは大きな誤解であろう。彼の教訓は、玄関にいる老婆は、行進する軍隊や賢人の死と根本的に同じ重要性を持っているということでもあります。」という意見は、ブレッソンが一人の人間を、全てが平等な群像の中の構成員として考えていたことを示唆している。このことについては、写真集《AMERICA IN PASSING》を通してよく考えることができるだろう。まずこの写真集を考える上で重要なのは、ヨーロッパの人間であるブレッソンがアメリカをどのように捉えていたか、ということである。ジル・モラによる序文から考えてみる。「そこにはカルティエ=ブレッソン、エヴァンス、スティグリッツ、フランクが逃れられないほど厳しい現実からの前提条件として従わなければならなかった原初的な兆候、建築や地理的特性によるアメリカがあったのだ。」ブレッソンが撮影を開始した30年代は、戦間期でもあり、さらに世界恐慌の影響によりアメリカは不況に陥っていた。アメリカの写真家たちはこのような状況の中を実際に生き、身体的に理解した上でアメリカにカメラを向けていたのである。そのようなアメリカに対して、ブレッソンはどのように対峙していたのか。アメリカの写真家たちとどのように違う視点を向けていたのか。ジル・モアはアメリカの写真ではない写真(自動的に主にヨーロッパの写真についての話になるだろう)について「本質を見極めるには不向きだが、ポイントやインパクト、雰囲気を再現するのは得意だ」と説明し、加えてブレッソンの写真について「アンリの写真には独特の「色彩」、ヨーロッパの無形な批評的感覚、形の優雅さがある」とも述べた。その通りブレッソンは「決定的瞬間」を切り取る天才として知られており、その構図やタイミングなどに由来する絵画的美しさが評価されている写真家でもある。よってジル・モアは彼を“ヨーロッパ的な”写真家であると評している。ボードリヤールの『アメリカ-砂漠よ永遠に』には「アメリカの真実は、単なるヨーロッパ人には見えていないのかもしれない。」と書かれているようだ。

「しかし、エヴァンスやフリードランダー、ウィノグランドは、逆に、目立つようなシーンを捨てて、周囲に関心を寄せていることがわかった。ここでは、自然、文化、人物、人間などが、何のヒエラルキーもなく、ごちゃまぜになっており、そこから特定の視点が生まれ、道徳や、さらに悪いことにヒューマニズムとなって他のすべてを打ち負かすような意味の深さがないのだ。」《AMERICA IN PASSING》でのブレッソンの視点はこの逆であり、地理的に特定の視点を持たず、自由で享楽的、刹那的に捉えられたアメリカがそこに写っているように感じられる。しかし言ってみれば人種も多様でさらに30–80年代という激動のアメリカの最中において、ブレッソンのこのようなストリート的視点は、アメリカの資本主義を土台に揺れ動く文化を皮肉的に捉えるのに適していたのではないか。

《AMERICA IN PASSING》

《EUROPIAN》

彼の写真集《EUROPIAN》もこの考えのもと考えることができる。この写真集は1930-1970年代までのブレッソンのヨーロッパ各国での写真群をまとめたものである。つまり第二次世界大戦最中から終戦後の傷跡が残る時代に渡って撮影されたことになる。不思議なのはロバート・キャパやユージン・スミスのような軍に従事した写真家の写真のように直接的な戦争の写真はほとんどないのにも関わらず、《EUROPIAN》の写真からは戦争による疲労や悲しみ、そして新しい時代への躍動や希望というヨーロッパ全体の大きなムーブメントが感じられるのだ。我々は、ブレッソンのジャーナリズムを通して、その時代の群像が持っていた一つの宇宙を見ているのだろう。

これがブレッソンの「群像としての風景」に対しての考察である。もしかしたら群像としての風景とは集団が持つ集合的な記憶とも関係があるのかもしれない。また、これはまだ考察には及んでいないが、ボネフォイが序文で述べた「写真の中に出来事があっても,それは何らかの形で置き去りにされ,形而上学的な数ミリメートルによって,生命に対する優位性が奪われてしまうのだ」また、写真の中の物を全て等価にしてしまうと言う写真術の性質も、ブレッソンの『群像としての風景』捉えると言う特徴をさらに発展させる要因であるだろう。

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