見出し画像

デジ-アナ論争 『写真』とは『イメージ』か?

終わらない論争として『写真のデジアナ論争』がある。デジタル写真とアナログ写真はどのような意味において違うのか。それともそもそも媒体が違うだけの全く同じものなのか。数ヶ月前、私はある写真家とこのような話をする機会があった。彼は『デジアナ論争なんてする意味ないんだよ』と言った。彼はデジタル写真もアナログ写真も『像を写したイメージ』として同じように捉えているようだった。

私は彼と話していて、『写真』とは単なる『イメージ』なのだろうか、とふと思った。『イメージ』としてデジタルとアナログは簡単に括られてしまっていいのだろうか。

ここで私が言う『イメージ』とは写真の中の像が、現実世界のそれの存在を『指示している』という状態である。写真に写っている物や風景が現実世界のそれらを示している、と言うことである。バルトも『明るい部屋』の中で『写真はただ“それ”と言うだけだ』と書いている。究極的には写真、いや写真の中の『イメージ』とはそう言うものである。この意味で「どちらの写真も誰かが見た物体や風景=イメージの証拠である」と言うことは一旦納得できる。わかりやすく言い換えれば『見た目』と言う観点からはデジタルもアナログも同じと言っていいのかもしれない。

しかしご存知の通り、我々が普段見ているデジタル写真(プリントされたものでもスマホなどで見る写真でも)はデジタル処理を経てデータとして保存されている写真が元になっている。一方アナログ写真は撮影からプリントまで、すべての処理が科学的に、主に光と感光剤の反応によって行われる。先ほど『見た目』の観点からは同じと言えると言ったが、では果たしてこの2種類の写真は、写真の持つ『意味』として同じと言えるのだろうか?

もちろんデジタル、アナログ共に物体からの放射を受け取り像を作り出していることには変わりない。しかしイメージが実際に私たちの目に届くまでの間にその放射の影響がどこまで残っているか、がこの論点では重要である。つまり過去に受けた光が、現在その結果としての写真を見ている我々に実際どのくらい影響しているかはデジとアナでは比較するまでもなく大きな差がある。

デジタルの撮影では受けた放射(物体から反射した光)をすぐさまデータに変換する。言うまでもなく物体が反射した光そのものと0と1によって構成されるデータは物質的には別物である。二つの事柄は現実世界における実際的な関係性はない。デジタル写真は撮影の瞬間からその過去との実際的な関係性はほぼないと言うことができる。もちろん写真の中の『イメージ』は過去をしっかりと写しているのだが。(いやもはや写すぎているとも言える。撮った日時、時間、場所まで記録されてしまう。この点でデジタル写真は現在-過去の繋がりと言うよりは点として現れる現在と言う印象がある。)逆に過去とのつながりが希薄だからこそ、デジタル写真ではイメージが先行し単なる『視点』としての写真の意味が大きくなるということも言える。

その一方アナログ写真はフィルムが光の影響を受けることによって像を成す。現像後も私たちは過去の光の影響下にあるフィルムに触れることすらできる。暗室でもう一度フィルムに光を通すことになるが、この時も過去の光の影響によって作られた形が印画紙の像を決定する。最終着地点の印画紙さえ最初の光の影響を受けているのだ。アナログ写真は過去の光のかけらを写しているものだと私は考えている。過去の光が現在その写真を見ている我々にまで僅かながら届いているのだ。デジタル写真が写真を撮った過去のその時を点として見るものだとすれば、アナログ写真は過去から現在まで(同じように未来までも含まれるだろう)の時間の層を、過去から届いた光によって凝縮されたものとして見ることができるのではないか。このような非常に特異な性質を持つアナログ写真という表現方法を単なる『イメージの指示』でしかないと考えるのはあまりにもナンセンスだろう。

この理由から私は『デジタル写真とアナログ写真は全くの別物だ』と言い切ってしまいたい。彫刻家が、自分が表現したいことによって素材や道具を変えるように写真を撮る人たちも、写真で何を表現したいかによってデジタルとアナログを適切に使い分けるべきではないだろうか。


ちなみにこの僕がアナログ写真に抱く感覚は、子供の頃からデジタル写真が当たり前だった僕ら世代(小学校低学年くらいまでの写真はぎりぎりアナログ写真で残っている)だからこそ感じられるのかもしれないとも思っている。単なる『イメージ』を得るための選択肢がアナログ写真しかなかった時代を生きてきた世代からすると、アナログ写真の特殊性を考察する必要がなかったのだろう。しかし「フィルム写真ブーム」(2015年~2020くらいからの流行)の影響でフィルムカメラを使い始めた僕からすると、撮影した過去がフィルムという物体に光の跡として保存されていて、さらには持ち歩けるし触れもするというのは非常に不思議な体験に感じられたのだ。だからこそ、その特異な性質が新鮮で面白かったし2、30年経ってからブームとしても表れたのだろう。

現在フィルムの高騰化が続いている。デジアナ論争なんて繰り広げている間に、この世からフィルムがなくなってしまいそうだ。数年もたてばフィルム写真なんて物理的に取れなくなってしまってデジタル写真しか写真を撮る術は残されていない状況になるのかもしれない。だからこそフィルム写真の芸術的意味と、その芸術的価値をあらためて考え直し、フィルムメーカーはフィルムをもう一度たくさん作って値段を下げて欲しい。切実に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?