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「旅をする」ということ

わたしが、海外へ"旅"をするようになったのはいつくらいかふと考えてみたのだけど、それはたぶん大学に入って3年目になったくらいからだと思う。

高校生の頃、なぜかわたしの中で海外へ"旅"をすることはどこか神格化されていた。

その強い憧れというのはもとを辿ればしょうもないことだった。当時好きだった女の子がグローバルスタディコースというところにいて、カッコええな!と思っていたこともあるし、わたしの親は親でこれからは英語だ!みたいなこと言って英会話教室通わされていたこととか、確かそんな単純なことだった気がする。

そして、念願叶って大学3年目の時に、1年近くカナダのビクトリアという場所に留学させてもらって、その後に1ヶ月くらいヨーロッパをフラフラして。今思えば、他の人と比べるとどうしようもなく贅沢な生活をさせてもらっていた。

それから、時間さえあればいろんな国へと行った。

気づけば訪れた国は30カ国超えていて(それが多いか少ないかはよくわからないが)、今も海外への興味は尽きることがないのだ。

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なぜ、自分がそんなにも海外への"旅"に固執しているのかわからない。

個人的な考えを述べれば、"旅"と"旅行"という言葉には明確な定義の違いがあると思っている。"旅"は自分にとって、"journey"である。どこがどう違うのか。

"旅行"としたときに、一番近い言葉はきっと"travel"。

 travel - 名:(遠方または外国への)旅行
 → 余暇を利用して、友人や家族と息抜きのために訪れること

そして一方で"journey”とはどういう意味か。

 journey - 名:(通例陸上の比較的長い)旅行、(人生などの)行路
 → きっとひとりで黙々とバックパッカーで行く人のことを指している
   たぶん、死ぬまでこの旅は終わることがない気がしている

わたし自身、ひとりで海外へ行くことと友人たちと海外へ行くことに意味というのは明示的に分けている。おそらくどこぞやの海外のエージェンシーとか旅行ツアーとか介していくのとでは大きく意味合いが異なる。(あくまで個人的な所見だが)

友人や家族たちと行くのは、あくまで思い出を作る上での出来事。一方で、ひとりでどこか異国の地を歩き回るというのは、一種何か探している上での過程だと思う。だから、その興味は決して尽きることがない。1回行ったくらいでは満足しない。

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このコロナショックが起こる前、ゴールデンウィークにネパールに行くつもりだった。ところがこの騒ぎでもはや旅するどころ話ではなくなってしまった。それだけに余計に"旅"に対する思いが日に日に高まっていくのだ。

それまでじぶんの中で意味をなさなかった音の素晴らしさだとか、喧騒だとか、光の差し込み方だとかそんなものがものすごく遠い存在になってしまった。海外に行くと、ガイドブックを読んでいただけではわからない不自由さだとかアクシデントが起こったりすることはある意味じぶんが、たとえ嫌な事があっても平常でいられるための一助になっていたのだと今では、理解できる。

だから、早くこの事態が収束することをただひたすら願っている。

そしてきっとこの状況が落ち着いて友人や家族と、当たり前のように会える日が訪れたならば、その”当たり前"であることに心からきっと感謝する日が来る、そんな気がしている。その日のために、できるだけ多くの人が外に出かけずに、家にいる事そのものの楽しみ方を覚えて、いつか"当たり前"の生活を過ごせる日のことを願う。

末筆ながら、応援いただけますと嬉しいです。いただいたご支援に関しましては、新たな本や映画を見たり次の旅の準備に備えるために使いたいと思います。