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偽日常日記【母親の手柄】

駅のエレベーターで息子がおばあさんに「お先にどうぞ」と言った。
おばあさんは感心して「まあ、偉いわね!」と言いながらゆっくり歩き、振り返ってから更に言った。

「お母さんが、いつも言っているのね!」

私はただ、にっこりと笑って、子どもの手をひき、スタスタと先へ進んだ。
心の中で思っていた。

「違うんです!!お先にどうぞはチャギントンが言ってたんです!!」


社会のマナーはチャギントン(電車のアニメ)と、しまじろうが、教えてくれた。
かしこい知識(宇宙の成り立ちとか)は、突然饒舌に長い説明を披露するドラえもんから学んだ。
素敵な視点はEテレの「デザインあ」だし、子どもらしい疑問は同じくEテレの「ピタゴラスイッチ」だろう。

明確にわかっていることでも、心当たりのある番組があることでも
「息子さん、すごい感性ですね!(どんな子育てをしているのですか?)」と言われると、「なんでしょうね、私は何もしてませんけど(にっこり)」と含みを持たせて濁してしまう。

「私は何もしてませんけど」はわりとその通りなのだけど、どうしても「何もしていない、子どものありのままを信頼している、だけどすごい子を育てる母」に、無意識に持っていきたくなる。


・・・・・


子どもがお茶碗を落として割った。お父さんの黒釉のお茶碗である。
こういう時、素の私は「大丈夫?」とは聞かない。
大丈夫かどうかなんて見ればわかるからだ。
見て大丈夫そうなら、普通にイライラしたり怒ったりしながら面倒臭そうに片付けをする。

20歳そこらであらゆるモテに関する本を通読した。過激なタイトルからファンタジーなタイトルまで多分50-100冊くらいの本を手に取った。
色んな立場のプロたちが「モテ」に関しての持論をまとめているわけだが、どの本にも「悲しい気持ちに寄り添え!」「気の利いた言葉をかけろ!」「優しさが大事!」みたいなことが書いてあって、「ふーん」と思った。

誰かが食器を割ったら「大丈夫?」と聞くのだ。
目視で「よし、大丈夫!(怪我してない!)」とする人はモテないらしい。

怪我してないことが目視で確認できた後に「大丈夫?怪我はない?」と聞く。
割った本人が「ごめんね、割っちゃった・・・」と言ったらすぐさま「いいよいいよ!怪我がなくてよかった。」と言う人がモテるのだ。

この知識は、子育てでももちろん生かす。 
「知識だけあって行動にうつさないやつはバカだ」と誰かが何かの本で言っていた。

子どもがお父さんのお茶碗を割った。
明らかに適当に扱っていたし、夫も私も気に入っていたお茶碗だったので「あぁぁなんだよ!!」と反射的に思ったが
そうだったそうだった、こういう時は「大丈夫?」と聞くんだった、と思い出して、「大丈夫?」と声をかけた。

子どもが泣いている。

「いいんだよ、怪我しなくてよかった」
しっとりと寄り添う、モテ的な母親になれた。良い良い。
自身に酔いかけたところで
「そんなこと言うなあーーーーーーーー!!!!」と子どもが叫んだ。
「お茶碗が割れたのに、よかったなんて言うなあああああーーーーー!!」「ぜんっぜんっ!よくなぁぁぁぁぁいっ!!!!!」と叫んでいる。

え?

なんでも、お父さんのお茶碗を自分が大きくなったら使おうと思っていたのに、割れてしまって、それじゃあ、僕は大きくなったらどのお茶碗を使えばいいんだよ?????というパニックで叫んで泣いていたそうです。
激しすぎるんですけど。

え?この子、いま自分のことで泣いてるんだ?

泣き喚く子どもを、自分とはまったくの別の人間をみるような好奇心で(ちょっとひくかんじで)子どもをぼんやり眺める…というのが素の自分だけど、それをわざわざ「子どもって本当、大人の私が忘れていたようなことを思い出させてくれる存在なんです」と大きく含みを持たせて、寛大な大人な感じに持っていきたくなってしまう母親はこのわたしです。

しかしだな。大きくなったらお父さんのお茶碗を使おうと思っていたというエピソードは可愛すぎる。可愛すぎるし、面白すぎるし、普通に嫉妬する。

私も可愛い、面白いと、誰かに嫉妬されたい。
「誰か私にも、嫉妬してしてくれないかな」は、わりと私の中に常にある願望です。小5の2学期くらいからある欲ですね。

おわり。

これは本音を書こうと頑張るが、どうしても良く見られたいという欲が出てきてしまう人間の偽日常日記である。
(今回の自分解放率78%)



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