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「会う」ということ。

「会ってみて」と友に言われたひとだからこれが私の価値なのだろう


1月最初の文芸選評、短歌のお題は「会う」でした。これは、番組で読まれた私の短歌です。素直な自分の思いをそのまま詠ったものなのですが、友人からは「ちょっとドキッとする」「ウィットがあるね」「ざらっとした感触が残る」という感想が。また選者の方からは「価値」という言葉を使った点がユニーク、との評をいただきました。

私のこれまでの入選歌は、短歌としての洗練度合いや上手さで優っていたわけでなく、他の人と違う目線で詠んだという点で選ばれていたのかも、とここにきて思い至りました。
そもそも、去年の二月に初めて文芸選評に投稿して採用されたあの歌がそうだった気がします。

鳩がみなこちらを向いて飛んでくるこのまま行っていいのだろうか

これが詠まれてからそろそろ1年、つまり私が短歌を作るようになって1年なんだなと思うと感慨深いですが、本題の「会う」に戻ります。私は、長年外資系金融業界に勤めています。この業界では転職する人が多いので、私だけでなく皆が常に自分の価値(時価、いくらで売れるか)を意識しています。ヘッドハンターを通じて転職する時は特にそうです。まず、現在の年収を聞かれ、どの程度昇給を望むのか、あるいは昇給がなくても転職したいかなどを確認します。そこを詰めないと仕事探しができないからです。

外資系金融ではリストラが頻繁にあるので、いま仕事を探していなくても普段からヘッドハンターと接触しておくことが重要です。用がなくても彼らとランチをしたり、会社帰りにお茶をしたりして情報交換をします。面白いことに、自分が仕事を真剣に探している時は案件が来ないのに、探していない時はヘッドハンターがしきりに転職をすすめます。ヘッドハンターは不満たらたらの人でなく、冷静に自分を見て仕事に取り組む有能な人を紹介した方が採用確率が上がり、結果として企業から報酬をもらえるので、当然なのですが。

会わなくて気楽な人はいるもので北西の風やや強く吹く

ヘッドハンターと会う時、自分の市場価値を意識するように、婚活をする時も人は無意識に相手を通して自分の価値を見定めているのではないでしょうか。
私はめったに恋愛をしないたちなので、適齢期の時には友人が心配半分で男性を紹介してくれました。紹介されて互いに会うということは紹介者である友人から見れば私たち二人は「釣り合っている」ことになります。つまり目の前にいる異性が自分の「価値」とほぼと言えます。

そう思うと、婚活は自分の価値を思い知らされるやや厳しい経験でもあります。人は誰しもナルシスト。鏡に映る自分を信じてはいけないと言われる所以です。一方、友人に紹介された異性は「写真に写る客観的な自分」。現実を突きつけられた時に、失望するのか、それとも自分にもこんないいところがあったのか、と相手を見て前向きにとらえるかは、その時自分がどれだけ心からパートナーを求めているか、また相手との接点がどの程度あるか、で決まるのかもしれません。

宇宙なる君を抱きて新星(ノヴァ)になり弥勒菩薩に会いにゆく夜

恋をしている時、人は一種のトランス状態になり、相手と自分をまとめて極大化してしまうものではないでしょうか。Little deathという言葉があるように、究極の悦楽は死と隣り合わせです。それが子孫を残すための行為だから終わったら本当に死んでもいいかというと、子供を育てるのに年数がかかるヒトの場合は、蟷螂(かまきり)の雄のようにはいきません。はるか上空から冷静に自分を見つめているもう一人の自分がいて、ほどなく現実に引き戻してくれます。そう考えれば、蟷螂の雄と、ヒトの雄と、どちらが幸せなのでしょうか。(終わり)


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