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最近、授業が上手くない

圧してる気がする。
塾って学校よりも分かりやすくて、おかげで点数が上がりました、となるはずなんですが、最近のムードはあまり良くありません。

それでも、こちらがワイワイとやっていれば楽しい授業とは映っているんでしょうが、こちら側がなんだか晴れません。
いろいろと原因を考えました。

自分が賢くなり過ぎた

この仕事をするにあたって、学生のように受験勉強をすることは、決して青春のやり直しではありません。
イタい大人ではなく、直接的に仕事に結び付く自己投資なのです。

例えば私は英語講師なのですが、中学であればある程度どんな文章でも読めるという領域まで来ています。
そこで欲が出て、英文の背景にあるものまで話せたらいいなという思いと、あとは学生時代に逃げてしまった科目ということで、世界史を勉強し始めました。

実際、世界史を勉強することで、英文への深みは変わっていきました。

世界史とは、いかにキリスト教がクソであったかを語るものだというのを聞いたことがありますが、それが割と分かってきているところです。
キリスト教の知識があるから、生徒たちに話せる面白いことも増えました。

簡単な話だけ紹介しますが、キリスト教世界では、曜日ごとに予定が決められているため、人々は曜日に張り付けられて生活しています。
月曜から金曜は労働に勤しみ、土曜は休暇を取り、そして日曜には教会でお祈りを行います。
そんなところから生まれた発想が、「〇曜日に」、という表現の際には、カレンダーの面に引っ付くという意味で「on」という前置詞を使うということです。

他の話をします。
日本語では、「兄・弟」、「姉・妹」ときょうだいの序列を表す言葉が個別に存在しますが、英語は「brother」、「sister」と特に区別を設けません。
これは、キリスト教世界では、神のもとに皆が平等という考え方があるからです。
年齢で見ると、「old」側、「young」側とはあるものの、兄だからといって偉い、弟だからといって偉くはない、と受け取られかねない表現は、そもそも存在していないのです。

20世紀に盛んとなった女子教育も、キリスト教の影響が大きく、現在でもカトリック系の女子中・高が多いのは、女子も男子と変わらず平等に教育を受けるという部分をキリスト教に助けてもらった経緯があったりします。

ちなみに、中国語も独自に勉強しているのですが、中国語にも「兄・弟」、「姉・妹」を区別する表現はあるし、「あなた」を意味する「你」の下に心という漢字が付くと、「您」となり、これは目上の人に対する表現となるのです。
当然、このような表現の背景には、儒教の影響があります。

さて、ここまでいくと、もはや英語の範囲外です。
俺はこういうの好きだし、賢い子や向上心のある子にはハマる話なんだろうけど、塾って親が入れさせているんですよね。
自分から勉強が好きで入ってる子って、ほとんどいないんです。

私の場合、勉強が好きで塾に入ったので、勉強が好きで塾に入る子は少ないという事実を知った時は意外でしたが、まあそうですよね。
在来線ではなく新幹線に乗ったり、自炊をせずに外食をしてみたり。結局はお金かけて楽したいってだけです。

多くの子にとっては、知りたいのは点の取り方。点の取り方なんて知ってますから、それ以上のことを、という逸材級には、なかなか巡り合えません。

それなのに、そこを基準としてしまっていました。

生徒を信じていない

そんなことはないんですが、それ以上に自分に自信があるんだと思います。
生徒に任せることよりも、自分が自分がで説明してしまい、話を聞かされているだけの、つまらない空間にしているのかもしれません。

子どもたちって、塾で先に教えておいて、ある程度形にしておけば、後に学校で習った時に理解を深くしてくれて、そこで初めて完成みたいなところもあるんです。
つまり塾の役割は、取っ掛かりを崩すだけでいい。

ですが、塾の段階での完成を求めてしまったのか、まあ自分で全部言いたいみたいなのがスルスルッと生徒に対して当たっているような気がします。

生徒たちの点数を、自分の手柄にするみたいな考え方が、強くあり過ぎた結果です。この考え方自体の否定はしませんが。

話し方が悪い

オチにたどり着くまでの説明が長いような気がしてきました。

1年目の頃はまだ授業が下手で、話したいことが頭の中にある状態からすぐに放出してしまわないと上手く説明ができない、という状況でした。

そこから年々と授業が上手くなっていくわけですが、この上手さのせいで、授業を芸術作品のように極める方向へと考えてしまい、決め打ちのパッケージ化された授業が増えてきたと思います。

つまり、ライブ感がないんです。
言ってみれば、ウィキペディアをただ読んでいるみたいな授業が何回でも同じようにできるようになるんです。

難しいことを教えたいですから、何行もある説明書を隅々まで読んで、完全無欠な授業を展開します。
けれども、「結局はどうなのか?」というところを強調させたい頃には、生徒たちはもう飽きているのです。

圧してる気がする

授業をするのでどうしても自分がMCのバラエティー番組みたいになるんですが、ここらでちょっと趣向を変えてみます。

彼ら彼女らをMCに置くような授業を目指してみようと思います。

未履修の単元を教えますから、放っておくとあらぬ方向に行く。
でも、行かせてみて、その軌道修正をしてみる先生というのを、来週からはやってみようと思います。

圧するのではなく、裏からルートを示す。
これができるようになるのも、また経験ですね。


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