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It is time for a change side A

 勤務先の三井住友銀行新宿支店から新宿駅へ向かう途中で今日発売の「週刊マガジン」でも立ち読みしようとファミリーマートに寄ると、クロノスの新曲が流れていた。男性特有の甘い歌声が耳に心地よい。メロディもいい。けれども高校生から大学生ぐらいにかけて夢中で、それこそ擦り切れるほど聴いていたときのようには、自分の胸に響いてこなかった。歌詞に耳を傾けると、チープな言葉に頼っているような印象がある。
「あれ? これ、新曲だよね?」
 雑誌コーナーで並んで立ち読みをしていたカップルらしい男女の女性のほうが、男性に訊く。
「そうそう。聴いた? いいよね。峰岸さんが書く歌詞って飾ってない感じがして、最高だよね」「うんうん。この曲もさ、最後のサビで、『何があっても、僕は君が好きなんだよ』ってあってさ、峰岸さんに、そんなこと言われたら、やばいよね」
 カップルは頷き合っている。峰岸さんというのはクロノスのヴォーカルで、かつ作詞作曲を担当し、クロノスと言えば峰岸徹というぐらい世間一般で知られている。曲を作ればヒット間違いない彼で、昔は僕も心酔していた。彼が曲に載せる世界観に心の底から惚れていた。けれど、最近は、飾らない言葉はただ売れるためだけに使われているストレートで誰もが共感するような表現のように感じられ、作り出している世界観も大衆や歌っている峰岸さん本人さえも騙すために、生み出されているのではないか、と思っている。自分が使っているどの音楽プレイヤーにも、今やクロノスの曲は一曲も入っていない。
 クロノスよりも、「週刊マガジン」だ。先週の続きが気になっている漫画がいくつかある。
 「週刊マガジン」を手にしたとき、カバンの中で携帯が震えている気配があった。僕は慌てて携帯を取り出すと、「着信 真鍋杏子」という文字が折りたたみ式携帯の背面ディスプレイに見えた。開いて、通話ボタンを押しながら、「週刊マガジン」をラックに戻す。
「もしもし?」
『あっ、ようやく出た。伸一郎、今大丈夫?』
「大丈夫だけど、どうした?」
『制作の由美子と話していて今回の公演の招待者の件なんだけど、美奈は私が招待ってことでいいの?』
「ああ。それでいいんじゃない?」
『いいんじゃないってあなた、人ごとみたいに。自分の彼女でしょ? 自分の枠で招待したら?』
「いや、なんかやっぱ恥ずかしいよ。今回は杏子も出演しているわけだからさ。杏子の招待ってことで、頼むよ」
 盛大な溜息が受話器越しに漏れてきた。僕は胸のなかで、溜息を返す。
『何言ってんの? あんた主役でしょ?』
「だから余計恥ずかしいんだって。お前だって主役みたいなものだろう?」
『まあ、そうだけど』
 二週間後に僕らの劇団が打つ芝居で、僕と杏子は夫婦役だった。結婚二年目でやや醒めた夫婦がネット上のあるサイト掲示板で、お互いハンドルネームを使って出会い、それぞれ相手の愚痴を相手に言い合い、仲良くなり、メールアドレスを交換したところで、自分の妻であることを、夫であることに気づき、致命的に仲が悪化し、だが冷静になってお互い歩み寄り、ハッピーエンド。そのような起承転結のはっきりとした話を、やる。相談相手の友人やマンションの隣人など登場するが、ほとんど僕らがメインで話は進む。二人とも主役であるから、僕が恋人の飯島美奈を劇に誘おうが、杏子が友人の飯島美奈を誘おうが、大差ないはずだ。
「前回の公演は杏子が仕事が忙しくて出られなかっただろう。だから、俺が招待したけど、今回は杏子が出るわけだし、美奈は大学のときから、杏子が招待していただろう。杏子の招待ってことでいいんじゃないか? 美奈にはどちらでも関係ないだろう」
『そうだけど、あのさ』
「ん?」
『まあ、いいわ。なんでもない』
 遠慮という言葉を知らない杏子にしては歯切りが悪かった。杏子がこういう態度を取る場合は、何か自分にとって言いにくいことがあるときで、相手には非がない。
「なんだよ? 言いたいことあるなら言えよ?」
『別に。なんでもない』
 少し挑発してやれば食いかかってくると思っていたが、外したようだ。学生時代なら徹底的にやって、何を言いたいのか言わせてやるところだが、もう26になった会社帰りの男には、そんな力は残っていなかった。
『それよりさ』
「うん」
『学生のころから毎回招待している神崎美音ってだれ?』
「生き別れた姉」
『嘘言わない。なんで住所知ってんのよ。練馬区って全然近いじゃない』
「生き別れたけど、偶然近くに住んでいたんだよ」
『なによ、それ。確か大学一年のときから招待してるよね? なのに、一回も来たことないよね?』
「姉さんにも何か事情があるに違いない」
『どうせ、あれでしょ? モトカノとかでしょ?』
「そんなん、ちげーよ」と言いながら、それは違わない。神崎美音とは高校時代に付き合っていた相手で、初めてセックスした相手で、それ以前に僕を演劇に誘った女だった。毎回公演に招待するのは、義理というか礼儀というか、そういう気持ちが強くて、未練があるというわけではない。ただ毎回来てくれないと、子供のころに、おもちゃ売り場で気づいたら母親がいなくなっていたときとよく似た不安を感じる。あの時の僕は途方に暮れて泣いていた。別れた男が、何かを演技している姿なんて見たくはないという気持ちはわからなくもなく、いつも気が向いたら来てくれればいいな、というような程度の期待で招待状を出すが、本当のところは自分が今も演劇を続けているということを知ってほしい、知らせたい、というわがままな気持ちが根付いているのを、26歳になった僕は知っている。
『まあ、どうでもいいわ。モトカノだろうが、姉だろうが』
「じゃあ、聞くなよ」
『新田と話した?』
「何を?」
『あなたの独白のシーンよ』
「いや、話してないけど?」
『え? 本当に? おかしいな。あの野郎、まだ決めてないのね』
「独白の演出ってこと? 客席に背中向けてってことでよかったんじゃなかったっけ?」
『それじゃ、中途半端にならない? とにかく週末の稽古で詰めましょ』
「前々から感じていたけど、今回やけに気合い入ってるよな」
『私だって、本気でやれるうちには、本気でやりたいのよ。あなたはどうなのよ?』
「え?」
『本気なの?』
「……本気だよ」
『なに、今の間?』
「安心しろよ。本気だよ。俺が中途半端に主役なんて張れないってこと、杏子ならわかってるだろ? ただ不安なんだ」
 いくら不安でも誰も来ない。おもちゃ売り場で取り残されたままだ。
『不安って?』
「いつまで演劇続けるつもりだ?」
『なにそれ?』
「まあ、この年になるといろいろと考えるんだよ」
『しっかりしてよね。主役なんだから』
「わかってるって。とにかくあと二週間しかないから、全力でやるよ」
『よろしくね。じゃあ、土曜日に』
「ああ、また」
 電話を切ると、クロノスの曲は終わっていて、他のアーティストの曲がかかっていた。柔らかい女性の歌声を耳が拾うが、知らない声だった。「週刊マガジン」を読む気はなくなっていて、何も買わずにファミリーマートを出ると、カバンからipodを取り出して、耳にイヤホンを差した。好きな、モノクローグというバンドの曲を聴きながら、家へと急いだ。


 会社が休みの土曜日に公民館の一部屋を借りての稽古が終って携帯を見ると、美奈からメールが一時間ほど前に入っていた。「今日どうする? 夕飯はみんなと食べるの?」折りたたみ式の携帯の液晶画面に自分の汗が落ちて、慌てて首に巻いていたタオルで拭き、額のあたりも拭う。
 正直なところ、今日はこのあと演出の新田と飯を食べながら、劇の細かいところの意見をぶつけ合わせたかった。新田が曖昧にしているところと、自分ができていないところに関して話したかった。僕は携帯でメールを書く。
「ごめん。今日はみんなと食べるよ」
 読み返して、どこか冷たい響きがあるように感じた。それはきっと美奈が社会人にもなり僕が演劇を続けていることに対して不満を持っていて、そのあたりの事情が最近の僕らの空気を重くしていて、逃げ腰な僕がいるからだろう。美奈は決してその不満を言葉にしない。その分、如実に感じてしまう。
 メールを書き直す。
「本当にごめん。もう公演も近いから、打ち合わせもあるから、今夜はみんなと飯食べるよ」
 読み返して、溜息をついた。どこか言い訳がましい。
 携帯のアドレス帳を開いて、電話をかける。発信音を聞きながら、部屋を出て、公民館の二階へと続く階段のほうに歩いて行き、その階段に腰をかけようとすると、途中で美奈が出た。『もしもし?』という声が遠慮がちに響く。僕は階段に腰を下ろした。
「もしもし。今、大丈夫?」
『うん』
「今稽古終わったところで、さっきメールみたよ」
『うん』
「あのさ、今日はみんなと飯食べようと思うんだ。もう公演も近いし、話したいこともあって」
『そっか』
「ごめん。待たせちゃったよな。昨日のうちに言っとけばよかった。本当にごめん」
『そんな気を遣わなくてもいいって。待ったりしたけど、それは私の勝手だし。やっぱ忙しいの?』
「うん、まあ、忙しいかな」
『学生のときもそんな感じだったもんね。公演前になると』
「悪い。今回のは結構いい感じなんだ。楽しみにしていてよ」
『それって公演が終わるまで、会えないってこと?』
「いや、そうじゃないけど」失言だったか。
『そうじゃないけど?』
「明日は一緒に飯を食べよう。いい?」
『うん。わかった。けど、別に無理しなくてもいいんだよ?』
「無理してないって」ふわっと笑ったような息を吹いたのは、演技だっただろうか。「また連絡するよ」
『わかった。待ってる』
「うん。じゃあね」
『うん。じゃあね』
 電話の切り際というのはいつも難しい。妙な沈黙ができてしまわないうちに切りたいが、さっさと切るのは、薄情な気がして躊躇してまった。一瞬の間の後に美奈から切ってくれた。
 僕は携帯を畳むと部屋に戻り、新田の姿を見つけると声をかけた。まるで学生時代と変わらない感じで。「飲みにいこうぜ」

 結局、その場にいた全員で飲みに行くことになった。学生時代と変わらずに安いチェーン店に群れて入り生ビールで乾杯する。初めこそ劇の話で盛り上がり、これからどう詰めていくか、あそこが悪い、誰それの演技がなってない、などと言い合い、険悪な雰囲気になりながらも、そこにいる誰もが学生のときと変わらない自分たちを前にして「演劇をやっているっていいなあ」と思っているのは間違いなく、そして酔いが回ってくるうちに、下世話な話になり、いつもと変わらない飲み会になっていく。
「ねえ」と声をかけられたと思ったら、杏子が隣の座席に滑り込んでくる。
「なんだよ?」
「あのさ、美奈ちゃんとはうまくいってるの?」
「え?」と杏子の顔を見ると、真顔だった。わざと面倒臭そうに息を吐き出して見せた。「わかんねーよ。知らないって。むしろ、何か聞いてるのか?」
 杏子と美奈は学部学科が一緒だった。もともと杏子が出ているということで僕らの劇を見に来ていた美奈と仲良くなったのだ。
「この前ちょっと電話で話したよ。でも、何も聞いてない。聞いてないけど、伸一郎が演劇をやっていることが不安みたい。もしかしたら、私に対しても心配してくれているのかも。まあ、会社でもアップアップしてるのに、演劇にもエネルギー使って、大丈夫なの?ってところかなあ。でも、あの子、そういうところ、口に出さないじゃない。余計な口を出したくないのだろうけど」
「そうなんだよなあ。でもわかりやすいから、だいたい何が言いたいか、わかる」
「そうそう。ちゃんと話したら? 信一郎だって、このまま不安定な状態で稽古続けられないでしょ?」
「不安定って、言い過ぎだろ」ジョッキの生ビールを飲み干すと、通りかかった店員に生ビールの追加を頼んだ。杏子もついでとばかりに生ビールを注文する。
「不安定じゃないにしても、余計なストレス抱え込むよ? 好きな人が好きなことをやることに対して、よく思っていないのは、結構」
「なにそれ。実体験?」
「半分そう」
「そういうのに半分とかないだろ」という言葉を喉に押し込んで、「大丈夫だと思うんだよ。よく思ってないわけじゃなくて、美奈もなんか不安なだけだと思うんだ。まあ、でも、うん、わかった。話してみるよ」と言った。そこに生ビールのジョッキがふたつ運ばれてくる。
「それとさ、神崎美音って人は、なんなの?」
「なんなのって、何が?」
「大学四年間劇に招待し続けてこなかった女。それでも招待したい女。何者?」
「生き別れた姉っていうのはダメ?」
「ダメだって」
 杏子の視線から逃れようと、生ビールのジョッキを傾け天井を見る。天井の照明器具の裏には、よくわからない染みがたくさんできていて、何か隠されたものを示す地図のようだった。
「昔さ、高校のときに、俺を演劇に誘ってくれた人なんだ。一緒に舞台をやった」
「それだけ?」
「付き合って、フラれた」
「馬鹿じゃないの? その人にとってはいい迷惑じゃない」
「そうかな」
「昔の男が、未練がましく、招待状を寄越してくるわけでしょう?いい迷惑よ。そんなことやめなさい」
「でもさ」
「でもなんかない」
 厳しいな。それでも続けた。酒の勢いを借りていると思い込んだ。
「でもさ、わからないけど、なんか自分が演劇をやろうって思った原点って、その誘ってくれた子にあるわけで、なんか自分の演技を見せたいって意思がないとさ、その演劇を最初にやろうって思った当時の自分を裏切るような気がするんだよ」
「はあ?」杏子は僕のことを、不格好な新種の動物を見るような目で見る。ようは馬鹿にしている。
「俺もよくわからないよ。でも、そんな気がするんだ」
「それって、今の自分の不安定さを昔の自分に丸投げしてるんじゃないの?」
「え?」
「演劇を続ける理由をそこに求めているっていうか、今の自分だけじゃ続けていくだけのパワーがないっていうか、だから、昔から引っ張り出しているみたい。そのモトカノって位置も都合がいいんじゃないの?」
 思考が停止する。
「あれ? 図星?」
 黙った僕を無遠慮に見て、杏子はけらけらと笑った。目を逸らしたが、杏子の切れ長の目が残像として漂っていた。ビールを飲もうとしたが、ジョッキは空だった。泡だけが、喉を伝う。杏子にどう言い返そうか悩みながら、別のところで、この女は人を追い込むのが好きなのか、それともそういうコミュニケーションしか取れないのか、考えていた。後者かな。
「杏子はさ、どうして演劇を続けているの?」
「それって、反撃のつもり?」
「ちげーよ。たださ、気になって」
「私は、他にパワーを発散させるところがないって感じかな」
「仕事に向けろよ、そのパワーを」言いながら、杏子とは逆隣の席で、おそらくビール一口で酔い潰れてテーブルに顔を伏せている音響の高岡からビールのジョッキを奪って、口に流し込んだ。
「仕事には無理だって。そういう種類のパワーじゃないの」
「どんな種類のパワーだよ?」
「自分のために、純粋に使えるエネルギーよ。いや、使いたいエネルギーかな。積極的に、自分の好きなことに費やしたいパワーってあるじゃない。それが演劇って形じゃないと、使えない自分がいるのよ。演劇で食べていきたい、とか、金を稼ぎたい、とかまったくなくて、ただ、できるだけ、可能なら、続けていきたい。いろいろなことが許す限り」
「まあ、わからなくはないけど。むしろ、わかるけど」
「そこのところってさ、美奈ちゃんはわからないんだよ。だから不安になってるんじゃないの?」
 そのことはわかっていた。それを承知で僕は美奈と付き合い続けている。そのことはマイナス面ではないと考えている。お互いすべてを理解し合う必要はないはずだ。理解し合わないからこそ、すべてを見せ合わないからこそ、続けることができる関係があると思っている。きっとそういう僕は甘いのだ。甘すぎる。
「子供のころ、泣きじゃくった記憶って残っている? 今もある?」
「なによ、突然」
「ない?」
「あるけど……」
「どんなときだった?」
「どんなときって、えっと、なんかお祭りかなんかですくってきた金魚が、水道に流れちゃって、それで、きっと耐えられなくて泣いたんだと思う」
「そのあとのことって覚えてる?」
「いや、覚えてないなあ。たぶん、泣き疲れて寝ちゃったんじゃないかな」
「俺もさ、昔、子供の時に迷子になったときに泣いたことは覚えているんだけど、そのあとのことって覚えてないんだ」
「うん」
「すごい不安だった。一人ぼっちで」
「うん」
「きっと人って泣いてるとき、思考が止まるんだ。思考が止まるってことはさ、その人にとって、世界は止まっているのも同じじゃないかな。それで、止まる前の世界が、強烈に印象に残る気がしない?」
「うん?」
「だからさ、俺、そのときの不安な感じ、こう、なんつーか、目の前が真っ暗になるっていうか、誰も迎えに来ないような、そんな感じをはっきりと覚えているんだよね。その不安な感じがさ、演劇をやっていると、役になりきってると、すぅっと消えるんだよ」
「う、うん?」
「だから、今も演劇を続けているんだと思う」

「なあ、どう思う?」
 飲み会のあと、駅と向かう道の途中で僕は新田を捕まえて聞いた。
「何が?」
 新田はすぐに聞き返してくるが、酔いが回っているのは一目でわかるほど赤い顔をしていた。秋口の肌寒い風が僕らを撫でる。
「劇のでき具合。どう思う?」
にやにやしていた赤い顔を真顔の赤い顔に直して新田は「どう思うって」と呟き僕を見る。土曜の夜の街は人が多かった。僕を見ながら歩いていた新田は仕事帰り風のスーツ姿の男にぶつかりそうになって、慌ててよけた。
「どう思うって、そりゃ」前を向いて歩きながら新田は言う。「まあまあなんじゃないか。みんな気合い入ってるし、悪くないよ。でも、だからこそ、どうしていいかわからなくなっているけどな」
「え?」
「なんか完成度を高めるっていうかさ、これから劇をどうよくしていいかわからないんだよな、正直」
「おいおい」
「いや、わかっているよ。こんなこと演出が言っていいわけないよな。でもさ、劇に対して迷っているわけでもなくて、自信がないわけでもないんだ。どう手を加えたら今以上によくなるかわからない」
「どういうこと?」
「俺の限界なのかもなあ。いつもと同じように時間のない中でやっているのに、焦りがないっていうか、変に余裕があるっていうか、変な感じなんだよな。まあ、今回お前ら主役二人が、いい感じなのも大きいとは思うけど」
 そんな頼りないことを言う新田を横目で見ていると、駅についてしまった。改札のあたりでみんなが溜まっていた。
「切符、買うだろ」と僕が新田に問うと頷いたので、二人で切符販売機の前に並ぶ。
「なあ、伸一郎はどうして演劇続けているんだ?」
 財布を取り出した時に、さきほど僕が杏子にした質問がそのまま新田の口から出てきて、僕は戸惑い、どう答えていいかわからず、黙っていた。正直に、さきほど杏子に一方的に語ったように話せず、また他の答えを見つけ出すことはできなかった。試すような新田の目を見返すことしかできなかった。
「お前は?」逆に聞き返すと、新田は不貞腐れたような顔をして、目を逸らし、「知らねえよ」とぼそっと答えた。
「なんだよ、それ」
「とにかく、来週は通し稽古だ。くだらねえことは考えないで、集中しような」と自分から切り出した話を逸らした上に、強引なまとめ方をする。買った切符を持ってさっさと改札へ向かう背中を見ながら、こいつも不安なのかな、と勝手に考える。

 僕が高校一年生のときあたりから、MDプレイヤーが普及し始めた。僕らはCDを買うのではなく、誰かが買ったCDやレンタルショップで借りてきたCDをMDに録音するようになり、よほど欲しいCDではないと買わないようになった。そうなってくると、アーティストを友人の間で分担するようになった。当時、僕の担当はクロノスだった。シングルCDは別としてアルバムCDはすべて買っていた。現在モノクローグしか聞かないように、高校一年生の僕は流行に遅れないように気をつけてヒットチャートの曲を追いかけていた以外はクロノスしか聞かなかった。
 クロノスはデビュー三年目から売れ始めた。人気ドラマの主題歌に選ばれたのがきっかけだった。僕も売れ始めたころから聞き始めた。友人の間ではデビュー後三年間の曲は評価は低く、誰も聞こうとしなかった。世間の見方も同じようでCDショップにも在庫は常に少なかった。
 僕は好きになったものはとことん好きになるタイプで、過去のアルバムもMDではなくCDで欲しかった。学校でバイトが禁止されていたので、親からもらう少ない小遣いでやりくりしながら買うには時間がとにかくかかった。
 ある日、CD一枚買う余裕ができた僕は学校の帰りにCDショップに寄った。次に買うCDは決めていた。クロノスのセカンドアルバムで最もセールス記録が悪かったものだったが、以前視聴したときに気に入った曲があったもので、ずっと欲しい一枚だった。。意気込んでショップに入ると、うちの高校の制服を着た女子が真剣にクロノスのCDを選んでいた。僕は売れなかった時期のクロノスのCDを買うところを見られたくなくて、少し離れた場所から「早くいなくなってくれないかな」と他のCDを選ぶふりをして、ちらちらと見ていた。しばらくすると意を決したのか、一枚のCDを持ってその子はレジへ向かった。女の子が去った後の棚にほとんど駆け寄って、僕は目当てのCDを引き抜こうとしたが、なかった。前日まではあったのに、確かにあったのに、なかった。はっとして、レジへと目を向けると、その子が店員に渡しているとCDが、僕の欲しかったCDに見えた。僕が呆然と見ている中、僕に見られていることに気づいてないその子は、悠然とCDの入ったビニール袋を持って、ショップの自動ドアをくぐって行った。
 結局、僕はその日、クロノスの他のCDを買った。
 二年生に上がってクラス替えがあり、見慣れた顔ぶれとは別れを告げて、あまり知らない顔ぶれに囲まれて、名前が「安部伸一郎」というせいで居心地の悪い一番前の席に座ることになった。後ろから無数の視線が刺さってくる気がした。毎度のことだが、これだけは学生時代にどうしても慣れなかった。クラスで最初の号令も僕の仕事だった。
 担任の先生が入ってきて、当たり前という顔で「じゃあ、今日のところは、とりあえず安部君に当番をお願いします」と言った。僕は初めて会う人のなかで、ぎこちなく「起立! 礼! 着席!」と言わざるをおえなかった。毎度思うのだが、僕の合図で知らない人たちが動くのは不思議な気分になる。無事に着席がして胸を撫で下ろしていると、担任が「とりあえず、しばらくはこの席で過ごします。当番は二人一組で、席が隣同士で回していきましょう。なので、今日のもう一人の当番は神崎さんでお願いしますね」と言った。このクラスになって、それまで前面黒板のほうしか見ていなかった僕は初めて隣を見ると、隣に座っていた女の子と目が合った。どこか見覚えがあると思ったら、CDショップで僕からクロノスのCDを奪った女の子だった。思わず「あっ」と言ってしまって、クラスの注目を浴びて、僕は笑い物になった。
 休み時間になって自己紹介した。彼女は聞いてもいないのに、自分が演劇部に所属していることを一方的に告げ、何か部活に所属しているか尋ねてきた。僕は、いわいる帰宅部だったので、正直にそう告げた。
 次の日、彼女は僕にこう言った。
「ねえ、一緒に演劇をやらない?」

「ねえ、他のアルバム聴いていい?」
 美奈の声で僕は我に返った。高校の無機質だが温か味のある教室から、自分の部屋と戻ってきた。
「いいよ。何聴くの?」と言ったあとで急にクロノスのセカンドアルバムが聴きたくなった。
「ちょっと待って。クロノス聴こう」
「え、CD持ってるの?」
「うん。昔のなら。確か、棚の下のほうに……」
 僕はソファから立ち、CDが置いてある棚を漁り始める。棚の下の段は二重になっていて、前と奥にCDがずらっと並んでいる。思ったとおり奥のほうにクロノスのCDは発売順に奇麗に並んでいた。そこからセカンドアルバムを取り出して、プレイヤーにかける。聴くまでは思い出したこともない懐かしい前奏が耳に入ってくる。
「クロノス、聴くんだ。初めて知った」
 知らない僕をまたひとつ知った美奈が探るような目で僕を見上げていた。
「昔、好きだったんだ。聴くのは何年ぶりだろう。思い出せないぐらい聴いてないや」
「ふーん、しかも、これ聴いたことないかも。かなり昔じゃない?」
「うん。セカンドアルバムで、ほとんど売れなかったやつ」
「クロノスにも、そんな時代があったんだ。モノクローグもいつか売れる日がくるかな」
「わからないけど、そうなったらライブのチケット取りにくくなるな」
「あっそれは嫌だなあ」
「だよな」
「あれ?」
「うん?」
 トイレに行こうとしていたところに美奈が急に声をあげたので、僕は美奈のほうを見た。
「ねえ、あのさ、この曲って、ちょっとモノクローグの、あの曲に似てない?」
「あの曲?」
「ほら、『It is time for a change』に」
「え? どこが?」
 そのモノクローグの曲はお気に入りの曲だった。全編英語の歌詞で、でも英語の発音なんかまったく気にしてなくて、なりふり構わず叫んでいるような曲だ。その潔さが、好きだった。
「このサビに入るところのメロディ。そっくりじゃない?」
「そうかなあ」
 僕はそう思って聴いてみるが、美奈が言うようには感じなかった。クロノスの曲よりも尿意が勝って、トイレに急いだ。

 厭味なくらいに晴れた空のもと、公演当日を迎えた僕らの劇団のムードは最悪だった。劇場は豊島区の国道から少し入った路地の中にあって、ここに劇場があることを知らない人から見れば素通りしてしまうような、古くて忘れられたような小劇場だった。設備もあまりよくなく、小劇場だからと覚悟はしていたが、楽屋も病的に狭く換気も悪かったので暑苦しかった。
 朝一番でみんなで劇場入りして照明や大道具の指示のもとに舞台を作り、今は音響が音をチェックしている。僕ら役者は楽屋で並んでいそいそとメイクを始めた。基本的な部分は自分でやり、最終的な仕上げは他の役者や他のスタッフにやってもらう。隣りの杏子から、周囲のすべてを恨むような高濃度の怒りの空気を感じているが、僕を含め、他の役者は無視していた。
 僕は一週間前の通し稽古を思い出す。
 通し稽古を終えて、汗を拭きながら飲み物を飲んでいると、新田と杏子が言い合いを始めた。
「何よ! 『まあまあ』って。自分の劇でしょ。何かもっと言うことあるんじゃない? あなた、本気でやっているの?」
 よく通る杏子の怒声が響き渡った。その場にいた誰もが発信源のほうを向いた。
「うるさいな。思ったとおりのことを言っただけだろ」
「なに、それ。演出なら、もっとしっかりしてよ!」
「俺だって、しっかりしてぇよ! できねえんだよ」
「はあ?」
「もっと言ってやりたいけど、俺にはお前らをどう伸ばしていいかわからないし、なんか俺が考えているものを今お前らに伝えても、劇がよくなるどころか悪くなるような気がしてるんだよ。だから、今日の稽古は『まあまあ』なんだよ」
「なによ、それ? わけわかんない」
「俺だってわかんねぇよ!」
「……もういいわ。本番は勝手にやるから」
「そうしてくれ」
 そう言って杏子は練習用に借りたホールを出て行き、取り残された新田を僕らは助けを求めるように見ることしかできなかった。けれど一番助けを求めているのは新田だと誰もがわかっていた。
 今朝杏子は時間通りに来たし、新田ももちろん来た。二人は一言も交わさないまま、今に至る。他のメンバーはその険悪な空気に怯えるしかなかった。
 半ば覚悟していたが、もうダメかもしれない。もう僕らの劇団は終わりかもしれない。この劇団がなくなったら、僕は演劇をやめるだろう。もうわざわざ他の伝手を辿ってまで演劇を続けようとするパワーもモチベーションも残されていない気がした。
 そうなると、これは最後の公演になるのだろうか。
 一気に不安になる。迷子になって取り残されて、誰も迎えに来なかったおもちゃ売り場を思い出す。
 演劇をやめたら、それはそれで問題が起きる。仕事のストレスをどうやって発散するのか。美奈との関係も変わってくる。僕らに先に進まない理由がなくなる。
 そもそも、劇団がこんな不安定な状態で公演など打てるのだろうか。あと数時間後には、芝居をやるのだ。僕らにできるのだろうか。本番の前にここまで自分の気持ちが下がったことは今までなかった。それは他のみんなも同じだろう。杏子一人を除いて。
 杏子だけが、違った。宣言通りに、勝手に、やるのだろう。
 一度溜息をついたときに、杏子に、視線で人を殺せると信じているような睨まれ方をして以来、どんなに溜息をしたくてもできなくなっていた。他の役者の面々は同じようだ。ちらっと確認すると、それぞれ感情を溜め込んで青ざめている。
 そこへ美奈が来た。
 手に差し入れの缶コーヒーを持って現れた。楽屋の扉を開けてすぐに空気を感じたのか「こんにちは」と弱々しく言うには言ったが、中に足を進めることを躊躇っている。
「美奈、わあ、ありがとう」と杏子が最初に飛びつく。美奈の手を取って中へ招き入れた。狭い楽屋は、もはや足の踏み場がない。
 杏子に続いて美奈にどうにか寄ると、缶コーヒーが大量に入った袋を受け取って、適当に床に置いて、一本取り出し、美奈に渡し、さらに自分用に一本取った。メイクが終わったことをいいことに抜け出すことにする。
「ちょっと外出てくる。美奈、行こう」
「え。うん、わかった。杏子、またね」
 出て行こうとする僕らを杏子は相変わらずな目で睨みつけてきたが、無視した。他の役者たちも僕を非難するような目で見てきたが、もちろん無視した。
 二人で劇場の外に出て、缶コーヒーを開ける。やはり今日の空は快晴だった。日差しが無駄に強い。
「なに、あの雰囲気? びっくりした」
「俺もだよ」
「どうしたの?」
 美奈が困惑した目で僕を見てきた。
 どう答えようか頭の中で整理しているうちに、ちゃんと答えるのが面倒になった。
「もうダメかもしれない」
「え?」
「俺らは、もう演劇ができないかも」
「なにそれ」
「多分、限界なんだ」
 そう新田は限界だ。杏子はまだ限界ではないのかもしれない。
 それでは、僕は?
「演劇を辞めるってこと?」
 美奈にそう聞かれるのは、重要な決断を迫られている気がした。「私と結婚する?」と聞かれているのと等しいように思われた。
「わからない」と呟いた。美奈には届かなかったらしく「え?」と聞き返してくる。
「たぶん」
「うん?」
「辞めると思う」
「う、うん」
 僕は黙ってコーヒーを飲んだ。
 正直、昔と違って今は演劇を続ける理由もなければ、続けない理由も見当たらなかった。だから劇団の消滅は、大きな理由になる。なってしまう。
 美奈は僕が演劇を辞めるかもしれないということに関して、何も感想はないようだった。僕が演劇を辞めるということを美奈が望んでいたのは確かだと思う。ただ実際に辞められると、どうしていいかわからないのだろう。
「いいの?」
 ようやく出た美奈の言葉に僕は答えられなかった。コーヒーを飲もうとしても、底が尽きていた。僕は地面にそれを置く。
「伸一郎!」
 僕が返事に窮していると、劇場の入り口から、新田が顔を出して僕を呼んだ。
「どうした?」
「ちょっといいか」
 何か言いたそうな顔で新田が美奈を見るので、察して美奈は「私、外そうか?」と言った。二秒ほど迷って僕は美奈を見つめたが、頷いて見せた。美奈が一度目を瞑った。
 美奈は新田の横を通って、劇場へと入って行った。その背中を目で追っていたら、新田と目が合った。新田はようやく僕に歩み寄ってくる。
 新田とは通し稽古のあとから、まともに話してなかった。新田はどうだかわからないが、僕は話すことを避けていた。今新田に、妙な甘えや弱さを見せられたら、僕はとてもではないが舞台には上がれない。身体が震えた。
「新田、お前さ」と言ってみたが、続ける言葉が出てこなかった。
「伸一郎、俺、今回で劇を辞めようと思うんだ」
思わず「ああ」という声が漏れていた。
「わかってくれるのか?」
 どうやら新田は僕の「ああ」を同意の言葉と受け取ったらしく、驚きと喜びの混じった顔をする。僕は否定しようという気持ちさえ起きなかった。
「どうして辞めるんだよ?」
 新田の目は見ずに、地面に置いてある缶コーヒーを見ながら尋ねた。
「俺らってもう26歳だよな」
「ああ」
「昔夢中になった漫画とかアニメとかゲームの主人公ってだいたい18歳から22歳ぐらいだったよな。いつの間にか、あっさりと追い越していたんだよな」
「それがどうしたんだよ?」
「なんか急に冷めちゃってさ」
 新田の話は理解ができなかった。前後が繋がっていなかった。これは新田の癖で、演出として役者やスタッフに指示するときも、繋がらないときがあって、それは関係性を無視した意外性があって僕は好きだったが、これは最悪だ。
「前にもちょっと言ったけどさ、限界なんだよ。もう。演劇を楽しめなくなっている。モチベが上がらないしさ。演出って楽しかったけど、もう楽しめないんだよな。かといって役者とか裏方とかやろうっていうのもなんだかなあって感じだし。パワーが切れたんだ。大人しくサラリーマンだけやって、そこそこ頑張って稼いで、出世して、結婚でもして、ゆるやかに暮らすよ。だからさ、これが最後の公演になると思うんだ。俺が関わった最後の演劇。わかんねぇけど、何もしてやれないけど、お前には頑張ってもらいたくてさ」
 新田が僕を置き去りにして、どこか身勝手な遠い世界に行ってしまった。
 なんだよ、それ。
 何なんだよ、それ。

 開演まで一時間を切った。開場までは三十分もない。
 杏子も新田と話したらしく、油に火を注がれて、切れていた。
「なに、あの甘ったれは! とっとと消えろ!」
 吐き捨てように叫ぶ。かれこれ一時間は怒りが収まっていない。
 僕は黙って、耳にイヤホンを差した。ipodを再生させ、耳を音楽で満たす。モノクローグの「It is time for a change」を流す。ドラムを叩く音から始まって、ベースとギターが加わり、疾走感を生み出す。発音を気にしない姿勢で英語の歌詞をがむしゃらにヴォーカルが歌い始めた。
 いつも公演前はこうする。この曲を聴く。
 モノクローグには、綺麗な発音で歌う全編英語歌詞の曲もある。でもこの曲はまったく気にしてない。なりふりなど構っていられない。なりふりなど構っていて、好きな歌、歌えるのか。そんなメッセージを勝手に感じていて、そして僕は思う。
 なりふりなんて構っていられるか。構っていたら、舞台なんて上がれるか。
 全部、忘れてやろう。新田のことも、美奈のことも、杏子の怒りも。演劇を続けられるとか、続けられないとか。仕事とか、夢とか、どうして演劇をやっているのか。すべて忘れてやろう。
 ただ、自分のことに、自分がこれから上がる舞台だけに集中しよう。
 シャウトに近い歌声が鼓膜を震わせているだけなのに、耳に差したイヤホンから源となる何かが注入され、全身に力が漲るような、そんな感覚に陥る。そんな感覚に持ち上げられる。
 目を閉じて、楽屋の椅子に座り、二回連続で再生した。
 よし、行こう。
 襲いかかる現実に恐れず目を開けると、気持ちはフラットになっていた。見たくないことは見なくていい。考えたくないことは考えなくていい。ipodの電源を切って、静かに立ち上る。
 新田と杏子が一触即発状態なので、いつも公演前に劇団全員でやる気合い入れの円陣はないようだ。それは寂しいことだが、仕方ない。
 僕は舞台袖で待機した。

 公演が終わった直後、楽屋で軽く汗を拭いてから、客席に向かった。いつも来てくれる何人かの友人にお礼を言って回り、軽く近況などを言い合う。こんなときは誰でも笑顔だ。杏子も、新田も。
 公演自体はうまくいった。出来はよかったと思う。杏子はノッていたし、僕だってそうだった。今日の演技には自信があったし、杏子との息も合っていた。楽屋で2人で手をたたき合った。劇団は不安定だったが、公演自体はうまくいった。
 見に来てくれた中学の時からの友人と話をしていると、新田が寄って来た。僕らは視線を合わせると、頷き合った。僕は「これでいいんだろ」という意味を込めて、新田はおそらく「すまない」という意味を込めて。
「ありがとうな」
 新田はそれだけを言って立ち去って行った。僕は何も言わずに、新田の背中を見つめた。公演の二週間前に改札で見たときの背中と重なり、自分が迷子になったときの感覚がまたすっと僕の中で湧き上がる。ずっと無理をしていた男の背中だった。今は、僕も杏子も彼とは腹を割って話せないだろう。学生時代には、そこには何もなかった。今は透明だけど、僕らを隔てるものができてしまった。いつかふと消える瞬間まで、僕らはちゃんと話せないだろう。
 苦いな。
 友人との話に戻ろうとしたとき、視界の中の新田にどこからか杏子が近づく。その場にいた劇団の誰もに緊張が走ったのがわかった。みんなそれぞれ誰か自分の知人と話しながらも、新田に近づく杏子を意識しているのが感じられた。
 杏子を止めなくちゃ。
 僕は急いで杏子へ向かう。
 杏子がどんな顔をしているのか、彼女の斜め後ろからでは髪に隠れて見えなかった。
「新田」
 騒がしい場内なのに、それほど大きくなかったのに、杏子の声がはっきりと耳に届いた。
 新田が振り返る。杏子を確認して、一瞬にして、顔がひきつるのが見えた。
「ありがとう」
 杏子の声がただ響いた。
 僕は立ち止まった。
「なんでだよ?」
 新田が杏子に問う。顔はひきつったままだった。
「今回は最悪だったけど、今も殴りたいぐらいムカついているけど、でも、大学のときから、新田とはずっと劇をやってきて楽しかったし、たくさん思い出があるし、感謝しているし、きっと少し先の私は新田を許しているし、むしろ『一緒に劇をやってくれて、ありがとう』って言いたくなっていると思うから。でも、今しか言えそうにないからさ。しばらくは会わないし。会っても、きっと言えない。照れて。だから、今の怒りに任せて、どうにでもなれって感じで、だから、今、ありがとう」
「なんだよ、それ」
 新田はようやく少し笑って、踵を返して劇場の出口へと向かう。
「劇場のバラシまでには戻ってきなさいよ」
「わかってるよ」
 杏子の言葉に新田は振り返らずに答えた。その背中には僕は迷子になったときとは違う涙が出そうになった。
 気付くと隣に美奈がいた。
「杏子って変わらないよね」
「そうだな」
 美奈の言葉に同意して、頷いてから、気になって、正直に聞いてみた。
「俺って変わったかな?」
「え?」
 きょとんとした目で美奈が僕を見返してくる。
「別に変わってないんじゃない?」
 その言葉に自信があるわけでも、ないわけでもないようだった。それは僕が変わろうが変わっていなかろうが、関係ないと言ってくれているようだった。
「そうか」
 美奈から目をそらす。
 迷子になっても、誰も迎えに来なくても、もしかしたら、もう大丈夫なのかもしれない。
「伸一郎は演劇、どうするの? 続けるの?」
「どうしようかなあ」
 何も考えずに言った言葉だったが、今の自分の心の中を表している言葉だった。
 辞める理由はできてしまった。劇団が不安定になったから。新田が辞めたから。続ける理由はやはりなかった。ただ特に続ける理由もなく、続けてきたのだ。惰性だったわけではないはずだ。「It is time for a change」を聴いてなりふり構わず、自分で答えを見つける必要があるひとつのことに集中するのは心地よかったと、今公演を終えて思う。
「うーん、どうしようかなあ」
「なによ、それ」
「その質問の回答って、先送りにしていい?」
「別に大丈夫でしょ」
 そう言った美奈の声には妙に安心した響きが混じっていた。
「あっ安部君」
 声をかけられて振り向くと、制作の由美子がいた。
「おっ、お疲れさま。あっ、まだ制作は仕事残っているっけ?」
「お疲れ様。まあ、もう後片付けぐらいよ。でさ、安部君。この人、来ていたみたいだけど」
「ん?」
 由美子から差し出されたのは、コメントシートだった。見に来てくれたお客さんに劇の感想や劇団のメンバーにメッセージを書いてもらうために入場時に渡すもので、思いがけずに嬉しい言葉を見つけたりすると、とても励みになる。
「どれどれ」
 受け取ったコメントシートの記入者の名前を見たときに、心臓が、止まった気が、した。
 そこには神崎美音とあった。
 そのまま目線を下にずらして、コメントを見る。短い文だったが、字は見覚えのある歪み方をしていた。
 気付くと僕は走り出していた。
「ちょっと、伸一郎?」
後ろから美奈の声が聞こえたが、僕は止まらなかった。
嘘だろ。
疑いの感情しか自分にはなかった。
それと同じくらいの衝動が勢い余っていた。
嘘だろ。嘘だろ。嘘だろ。
劇場を出て、続く路地を走り、繋がっている国道ま

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