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弱い文脈を発信し続ける~渡邉康太郎著「CONTEXT DESIGN」を読んで~

あなたは何かを好きになるときはどんな時ですか?

生きていれば、何かを好きになる瞬間が訪れる。
その出会いは突然なのだろうか?

私はいろんなものが好きだ。
本が好きだし、お酒が好きだし、音楽好きだし、人が好きだ。
本が好きと言っても、すごく好きな本とそうでもない本がある。
好きなもののなかでも、「すごく好きなものたち」。
自分はこの「すごく好きなものたち」を初めから好きだったのだろうか。
出会った、その瞬間から、好きだったのだろうか。
そうではない気がする。
では、いつ、どうやって、こんなにも好きになったのだろう?

そのことについて深く考えるきっかけをくれた本について、話したい。

そして結論から先に言わせてもらうと、私がすごく好きになるものの多くは、最初はちょっとした、ゆるい形で入ってきてることに気づいた。これをこれから話す本の中で語られる定義とは違うが、「弱い文脈」と自分は呼ぶことにする。「弱い文脈」から入ってきたものが、徐々に自分のなかで強くなっていき、「強い文脈」となるのだ。「ゆるい好き」から「強い好き」へ、時を経て変貌する。

最初は知人から暇だからかしてもらった本だった。気づくと、かしてくれた人よりもその本にはまってしまった。こんな経験ないだろうか?

知人から無作為にかしてもらったときは「弱い文脈」だった。自分にとっては大したことないことだった。ただその本を読むと面白さに気づき、夢中になった。気づくと、その本の著者の本を全部自分で買って読んでいた。この段階では自分にとってその著者の本を必ず読むというのは「強い文脈」となっている。

このことについて、人が何かを好きになることについて、考えてみたい。

「CONTEXT DESIGN」という本

Takramの渡邉康太郎さんが書いた「CONTEXT DESIGN」を読んだ。
非常に参考になる本であり、読んでいる最中から、思考が巡っていき、とにかく整理したくなった。
この本を読んでいて、頭から離れなかったキーワードは「弱い文脈」。
そこから上記のような思考が巡り出した。
では、まずはこの本はどんな本なのか。

著者の渡邉康太郎さんとは?

Takramという会社の人らしいが、Takramが何をやっている会社なのか私はわかっていない。私がこの人を知ったきっかけは「超相対性理論」というpodcast番組だ。毎週水曜日に更新され、3人のパーソナリティーがいる。渡邉康太郎さんと株式会社学びデザインの荒木博行さん、そしてコテン代表の深井龍之介さんだ。私はコテンラジオというpodcast番組が好きで、そこからこの番組にたどり着いた。

3人が、誰もが考えてみたいテーマについて、深く深くキャッチボールしながら潜っていくのが本当に面白い。その中でも渡邉康太郎さんは話を整理したり、角度を変えてみたりすることや、そして何よりも言語化が巧みで聞いていると唸ってしまう。
そんな彼の著書が本屋に売っていたので、ふと手に取ってみた。
そして読み始めると、夢中で読んでしまった。

コンテクストデザインとは?

コンテクストデザインとは何なのか。
聴いてるpodcast番組でも渡邉康太郎さんはコンテクストデザイナーという肩書を出す。
それは一体何なのか。ずっと気になっていた。
ずっとぼんやりと「文脈を作ること」だと感じてはいた。
遠くはなかったが、少し違った。
そして今回、この本を読んですっきりした。
誤読を恐れずに言わせてもらうと、「強い文脈から外れたところで弱い文脈を作り出し、その文脈が個人のなかで強い文脈になるように促すこと」なのだと思う。
正確な定義は本には書いてある。
けれども、この本にはこうも書いてある

その作品について真に語りたい欲求があるとき、人は誤読を恐れない。そこでは他者による作品と自身による解釈は一体化する。この「語り」によって、単なる即時的「消費」を越えて、読み手は作品とあらたな関係を結ぶ。そして、その瞬間に読み手は書き手に入れ替わる。結果生じるのは作品との主体的な関りと多義的な解釈だ。作者が作品に込めたメッセージやテーマ=「強い文脈」をきっかけに、読み手一人ひとりの解釈や読み解き=「弱い文脈」が主役になる。
「コンテストデザイン」渡邉康太郎著、発行:Takram

よって、今や私は誤読を恐れない。
そしてこの本に書かれている、文脈の強弱について想いを巡らせたい。

「弱い文脈」が「強い文脈」になる

文脈の強弱について考えてみると、面白い。
この本のなかでは、「強い文脈」とは誤読の余地がないものとして定義づけされている。否定されにくく、普遍的な意味を持つものであると。
逆に「弱い文脈」は、個人的な解釈や個人的なエピソードに結びつくものであるとされる。誤読の可能性があるし、単なる思い込みということもあり得るのだと思う。
ようは「弱い文脈」というのは個人的なものであろう。

ここで、あえて進んで自分は誤読を重ねていきたい。
この話を聞いていて、思い浮かんだのは、自分が何かを好きなるときだ。
例えば宮本輝という作家が好きだが、初めて彼の作品に触れたのは、大学受験勉強中に解いていた現代文の問題の題材だった。一部分だけ切り取られたテキスト。その続きが、なんとなく気になった。作者名と作品名をぼんやり覚えて、ブックオフにいくと、その本はあった。買ってみて読み出すと、はまってしまった。そして宮本輝の作品を数冊立て続けに読んでしまった。
このとき、初めて宮本輝の作品に触れたときは、自分にとって大切な文脈ではなかった。ただの問題集に出てきただけだった。だが、その後、触れるうちにやがて強い文脈となっていく。この文脈は自分とは離れがたいものになっていく。
(当時、小説家を目指していた自分にとって宮本輝の「星々の悲しみ」という作品は、こんな小説が生み出すことができたら、自分は満足できるに違いと強く感じていた)

こんな風に自分にとって好きになるものの多くは、ゆるく自分へと入ってくる。
きっかけは些細なこと。
その些細なことが、大きな好きになる可能性がある。
些細なことだからこそ、強い要請ではないからこそ、好きになるのかもしれない。

もちろん些細なことのままで終わることもある。

「弱い文脈」を拾い続ける、発信し続ける

誤読に誤読を重ねて、自分がしたい思考をした結果、完全に「CONTEXT DESIGN」で語られている文脈の強弱とは違った解釈になるが、(むしろ、文脈という言葉をトリガーにしただけだが)、自分にとって「弱い文脈」というのが大切なのだということがわかった。

人が何気なく紹介されたものに、どはまりするかもしれない。
なんとなく見かけた本を買ったら、どはまりするかもしれない。
たまたま入ったお店で流れたいた知らなかった音楽に、どはまりするかもしれない。
そんな「弱い文脈」をこれからたくさん拾っていこうと思った。

そして自分自身も誰かの「弱い文脈」になっていこうと思った。
私は人に何かを薦めるのが好きだ。
本にしろ、映画にしろ、音楽にしろ、お店にしろ、誰かと話しているとつい薦めてしまっているときがある。
やっているpodcast番組「文学ラジオ空飛び猫たち」も、きっとその延長な気がする。
自分が好きになったものを誰かが好きになってくれると嬉しいのだ。思えば、これは自分にとっては「強い文脈」かもしれない。でもこれは誰かにとっては「弱い文脈」だ。
いつか誰かの「強い文脈」になることを期待して、自分は「弱い文脈」を発信し続けている気がする。


今回「CONTEXT DESIGN」を読んで感じたことを書いてみた。
ただ「好きになること」について語りたかっただけなのかもしれない。
でもまた思考を巡らせていき「好きになること」について考えてみたいと思う。


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