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It is time for a change side B

 ふと目が覚めて、目を開けるよりも先に耳にぽこぽこという熱帯魚の水槽の循環器の音が入ってきて、私はここが自分の部屋ではないことを知る。目を開けると、忠司の寝顔があった。私の頭は彼の左腕に寄り添っている。ベッドから天井を見ると白く明るかった。部屋の電気は消えていたが、水槽の照明灯が点いたままなのだ。忠司を起こさないように、気をつけて静かに起き上がり、ベッドの端に腰かけて、枕元に置かれた小さなデジタル時計を見ると、深夜一時を回っていた。二時間ほど睡眠を摂った計算になる。
 眠れそうになかった。テーブルの上、手の届く場所にテレビのリモコンがあったので、つけてみる。そしてすぐに音を消音にする。テレビが点く低い音しか部屋には響かなかった。
 面白い番組はないかとチャンネルを回しても、心を惹かれるものは何もなかった。ちょうどCMを流しているチャンネルで止めて、何も考えずに眺めていると、クロノスの新曲のCMが流れた。消音にしているので、どんな曲かはまったくわからないが、ヴォーカルの峰岸徹が雲ひとつない空の下の草原で歌っているPVを見ていると、弟はこのCDを買ったのかな、と考える。
 クロノスはおそらく今日本で一番売れている音楽アーティストだ。私が高校生のときに売れ始めたので、もう十年近く、日本の音楽界に鎮座していることになる。ポップスといわれているぐらいに、泡のように浮かんでは消えていくミュージシャンが多いなか、不動の位置を築き上げている。
 弟が好きだったのでよく聴いていた。そういえば、高校のときに弟の誕生日に、クロノスのCDを買ってあげた。そしたら、あまり人気のないときのクロノスのCDだったらしく、文句を言われた。せっかく買ってあげたのに何様のつもりだ、と憤慨し、それ以来弟には何かプレゼントをあげたことはない。それまで毎年バレンタインには義理チョコをあげていたのだが、それもなしにした。
 私は無防備な忠司の寝顔を見る。
「気を悪くしないでね」
 以前、そう断って、大学時代のサークルの先輩で忠司と同期にあたる人に言われたことがある。
「忠司ってすっごいいい人で優しくて、限りなく理想に近いのかもしれないけど、一緒にいると、なんだか、怖くなる時があるのね。うまく言えないんだけど、忠司って、上品というか気品があるというか、やっぱり表現できないんだけど、問題なくいい家庭で自然に育ってきた人間で、そのくせ嫌みなところもなくて、だから余計に、一緒にいると自分の下品なところが見えてきちゃうんだよね。私だって決して、下品なわけじゃないと思うんだけど、一緒にいるとそう思っちゃうの」
 忠司は確かに寝顔まで気品に溢れているような気がする。
 私が目をテレビに向き直した直後に忠司がベッドの中で動く気配があった。おそらく目を覚ました。あと三秒ですっと起きあがり、彼は私を背中から抱くだろう。
 3、2、1、0。頭の中の秒読みきっかりに忠司の腕の中に私は収まった。瞬間、ぐっと忠司が抱き寄せて集めたように不安になる。心が、おそらく罪悪感から、震えた。身体まで震えないように気をつけると、強張った。
 昔は忠司の腕に包まれると、もうこれ以外はいらないという安心感と柔らかい感情でいっぱいになったものだが、最近はその残滓しか感じられない。
 いわいる、これがマリッジブルーというやつだろうか。
「どうしたの? 眠れない?」
 忠司が囁く。寝起きのいつもとは違う、調律があってないようなかすれた彼の声が好きだ。
「いや、まあ、そうなんだけど。起こした? ごめんね」
「大丈夫。明日だって昼に行いけばいいから。正直、今夜は早く寝すぎたと思った」
「疲れているんじゃないの? 今週きつかったって言ってなかった?」
「そうだけど、少し寝たら平気になったよ。美音こそ今週の仕事はハードだったんじゃないの?」
「うーん、どうだろう。ハードだったけど、いつものことだから」
 私は今大きくも小さくもない業界六番手ぐらいの中堅の食品会社の商品開発部門に勤めている。今手がけているプロジェクトがあって、責任者を任されていて、海外の食品会社との交渉もあり、悪戦苦闘している。しかし、ここまで来るのに1年かかったのだ。プロジェクトはもちろんのこと、自分にも甘えも妥協も許されない。予定ではあと二か月と少しで製品化まで持っていける。
 忠司は大手電機メーカーの営業をしている。今月は成績が芳しくないらしく、今週はいつもより気合いを入れて働いたらしく、バテていた。
「何度も聞くけどさ」
「うん」
「仕事、いいのか?」
 これで何度目だろう。忠司はこの質問を口にするとき、必ず声が強張る。そこに潜んでいるのはなんだろうか。罪悪感か、喜びか。
「いいって言ってるじゃない」
 その質問に対する私の答え方もいつも同じだった。「どうってことない」という調子で答える。
「なら、いいけど」
「うん。いいの」
 結婚するにあたって、仕事を辞めることには、正直なところ抵抗があった。現実的な面で忠司だけの収入で暮らしていけるかという不安もあるが、私自身が仕事を好きなところが大きい。でも、この抵抗感は一切、忠司には漏らしていない。口だけではなく、態度でもだ。
 忠司の実家に挨拶に行って、初めて両親と会い、夕食を御馳走になったときに、私の目の前に座っていた忠司の母親が言い放った。
「美音さんは、お仕事はいつお辞めになられるの?」
 その時、私はまっすぐに見つめてくる母親の目に射抜かれて、困惑した。忠司とは結婚しても共働きでいくことで落ち着いていたのに、あっさりと平伏しそうになった。
「ちょ、お母さん、突然何を」
 忠司が口を出そうとするが、母親はそれを手で制止した。
「私は美音さんに聞いているの」
 横に座っている忠司に目を向けると、忠司は自分の前に座っている父親に助けを求めるように視線を向けていて、つられて私も忠司の父親に目を向けると、母親と同じような視線で父親にも射抜かれた。
 なるほど。
 こういうご両親なのか。
「えっと」と言った時には、もう決めていた。「一応、動いている仕事がありますので、落ち着いたら、上司と相談して決めますので、今の段階で、いつとは、はっきりとは」
 きっぱりとした私の言葉を聞いて、ご両親はお互い視線を交わして、まったく同じ動作で私を優しそうな目で見て頷いた。とても満足そうだった。
 その日、忠司の実家からの帰り道で忠司と話し、私は仕事を辞めることに決めた。忠司は「いいのか」と何度も聞き、後半はしきりに「ごめんな」を繰り返していた。「うちの人間って考え方が古いんだよ。本当に。アホだと思う。だから、気にしなくていいから、仕事したいんだったら、しなよ」忠司はそう言ってくれたが、私が「いいって。どうせ、いつかは辞めることになるんだし」と言うと「そうか」とあっさり引き下がった。私がどれだけ仕事を頑張っているのか知っているのか、と問いたかったが、辞めた。
 実情は、会社に、上司に、辞める意思があることを言えずにいる。それどころか、結婚のこともなかなか言い出せずにいる。自分が携わっている仕事は大事な局面を迎えていて、とてもではないが、そこに「結婚」というのは入り込む余地のない議題だった。
 そのような事情があり、明日は忠司の実家に行くことになっているのだが、気が重い。しかし、それを忠司に悟られたくはなく、私は明日持っていくお土産をしっかりと持ってきていた。「YOKU MOKU」のチョコレートだ。
 テレビからふと視線を熱帯魚の水槽に向けると、ネオンテトラたちがきれいに、限られた自由の中で優雅に泳いでいる。
「ねえ、今日って熱帯魚にエサあげた?」
「あっいけね」
 忠司は私から離れて立ち上がる。体温が、その温もりが離れて、私はすぐにそれが恋しくなるが、それはただの本能かもしれない。私の体温は行き場を失って、流れ始めた。

 埼玉のベッドタウンにある森本家は綺麗な庭を持った家で、中も広々としていて掃除が行き届いている。そこに昼前に着いて、忠司とそのご両親と私とで母親が作ってくれた食事を摂っていると、話は私の両親と揃って食事がしたいということに流れた。
 一度だけ私の両親と忠司の両親は渋谷のフレンチレストランで会食を済ませていたが、それだけでは足りないようだ。
 私と忠司は顔を見合せた。
「わかりました」
 私が言って日程を調整するのが面倒だと思う。いや、この件に関しても、気が重くなる気がした。「後で実家に電話します」
 母親が作ってくれた和風のじゃことかぶが入ったパスタを食べながら、どうやったらこんなレシピが手に入るのだろうと疑問に思ったので、聞いてみた。
「最近では、ネットを見て作っているの。面白いわよ。意外な組み合わせのものがあったりして」
「そうですか」
 頷きながら、オレンジが入ったサラダも食べる。どうやってドレッシングを作ったのかわからないが、ライムが効いていて、目が覚めるほど美味しくて、その美味は私に動けなくなるようなプレッシャーを与える。パソコンにメモを持ってかじりついて「パスタ」や「サラダ」とネットで検索している自分の姿が浮かんできて、食品会社に勤めているのに、なぜ料理をしてこなかったのかを胸でそっと嘆いた。
 食事が済むとコーヒーが出てきた。食事の前にコーヒーメーカーを動かしていたようだった。熱すぎないコーヒーを美味しくいただきながら、私たちは他愛もないことを話しあって、笑ったり難しい顔したりした。頃合いを見計らって、私が食器洗いを申し出ると、にこにこと忠司の母親は笑ってくれた。
 何か一通りの儀式をこなしたような気分になり、帰り道に私だけが疲れていた。忠司と電車に揺られていると、これから新宿で観る予定の映画がとても億劫に感じられた。
 電車の中で忠司が思い出したように言った。
「そういや、マンションなんだけど」
「え?」
「いいのが見つかったんだ。今日映画はやめて見に行かないか」
「そう」
 結婚の予定は一年後だが、そろそろ一緒に暮らそうという話になっていて、物件は忠司に任せていた。申し訳ないのだけれど、忠司にそう言われるまですっかり忘れていた。
「どこの物件なの?」
「中野。駅から遠いけど、広さと価格がちょうどいい。不動産屋に言えばすぐに鍵かしてくれるからさ。新宿まですぐだし、映画はそのあとでもいいでしょ」
「そうだね」
 断る理由はどこにもなかった。

 部屋に入って一周したときに思ったことは「五階ってやっぱり高いんだなあ」ということだった。もちろん、この高さが未経験ではない。会社での自分が所属する部署があるフロアは七階である。けれども、窓の外は見ることはあまりなく、パソコンと上司の顔を窺うのみだ。日常的にこの高さに身を置いたことはない。
 忠司は得意そうに、部屋を案内した。
 2LDKの物件は確かに住みやすそうだった。お風呂も清潔だったし、キッチンもそこそこに広い。値段も、思ったよりは安かった。私も今住んでいるマンションは自分で見つけたが、そのときの経験から考えても、優良な物件に思えた。一人ひとつ部屋を使って、リビングで食事をしたり、映画を観たり、音楽を聴いたりする。容易に想像がついた。ついたが、それはやはりこの階の高さと同様に、自分にとっては、浮いたものだった。
「どう?」
 忠司が聞いてくる。
「いいんじゃない。ここで。でも大丈夫なの? いい物件みたいだし、取られちゃってるんじゃないの?」
「大丈夫だよ。実はもう押さえてある。いつ引っ越そうか?」
「え?」
 急な話だった。
「とりあえず、俺が入るよ。今月であのマンションは引き払うことになっているから。美音は今住んでいるところの契約もあるだろうし、ゆっくりでいいよ」
「え、ちょっと待って。いつ決めたの?」
「この物件を見たとき。即決。美音がいうように、ぐずぐずしてたら、他の人に取られちゃいそうだったから。相談しなくて悪かった。でも、いいだろ?」
「う、うん」
 私は曖昧に答えて、五階の窓越しに外を見る。新宿のビル郡が見えた。
「夜景を見るにはちょっと低いけど、割と綺麗そうじゃないか? 何か、不満があるなら言ってくれよ」
「ないけど、ちょっとびっくりして」
「相談しなかったのは、悪かった。まあ、本当はびっくりさせたかったのが本音なんだけど」
 忠司は無邪気に笑う。そういう彼の表情は本当に安心させてくれる。私も「もう」とか言いながら、忠司を肘で小突く。
 そのとき、いきなり床が抜けて落ちていくような不安が私を襲った。
 もしかしたら、私は忠司が可愛いと思う彼女を演じているだけではないのか。忠司が好ましいと思う恋人を演じているだけではないのか。私は本当は全然可愛くはなくて、忠司に好きになってもらう要素などない女なのではないか。ある夏忠司が運転する車で旅行に行った。高速に乗っているときに、当たり前だけど、白線が三つの車線をわけていて、どの白線も同じようにカーブしたり、どこまでも伸びたりしていた。その白線を見たときに、私と忠司も同じだと思った。忠司という白線が引かれていて、私はそれと同じように違いなく伸びてカーブする。隣の白線に合わせて、どこまでも。そのときの感覚はもう忘れ去ったものだったが、急に、それこそ、山の中をうねりながら走る高速の白線の映像と一緒に、ぐっと胸に迫ってきた。
 忠司がベランダに出るのを見て、私もついて行った。横に立って、恐る恐る景色を目を細めて見つめる忠司の顔を見ると、この気品がある男に綺麗に寄り添っていくために、この何年間か、ファッションや趣味を選んできた気がした。

 久し振りに、二か月振りに実家に帰ると、相変わらずな家族がいた。練馬にある実家は私が生まれる昔から建っている一軒家で、老朽化が進んでいたが、まだリフォームの話は出ていなく、歩き回るたびにみしみし言うし、埃も舞う。森本家の家とは大違いだった。確かに、私の実家は下品とまではいかないが、気品はない。
 何も言わずに玄関から入っていく。母は台所で忙しそうにしていた。私が帰ると行ったから張り切っているのだろうか。
「お母さん、ただいまー」
「あら、もう来たの?」
 ことさら驚いた風でもなく、振り返って言う。
「うん。お父さんは?」
「あれ、さっきまでそこでテレビ見てたんだけど」
 言われてテレビがあるリビングを覗くと、ぬけがらのようにテレビだけが点いて、休日のお昼番組にありがちなエンターテイメントを特集する番組が喧しい声を響かせている。
「まあ、いいや。お父さんに話した?」
「うん。結構ノリ気みたい。お父さん、森本君のこと気に入っているみたいだから」
 森本家に食事を呼ばれた日の夜に、実家に電話してまた食事の席を設けたい旨を伝えてあった。そのときに最近実家に寄ってないことを咎められて、今日顔を出すことになった。今私が住んでいるのは高円寺で、勤めている会社も新宿だし、別にこの実家から通勤できなくはないのだが、大学卒業と同時に一人暮らしを始めた。もう社会人だから自立したいからというのは建前で、大学のときに忠司が付き合い始めのころ、レンタカーでこの家の前まで迎えに来てくれた。私は口にも出さなかったし、忠司との話題にも上がらなかったが、老朽化した家はやはり恥ずかしかった。引っ越して一人暮らしをしたところで、私の実家の存在は変わらないのだが、それでもどうしてもこの家に住んでいる私のイメージを忠司から消し去りたかった。
 私はリビングに行って、テレビに向かい合わせに置いてあるソファに腰を下ろして、リモコンを手に取った。チャンネルを変えるが、予想とおり面白そうな番組は何一つやっていなかった。テレビ番組に興味を失ってから、ずいぶん経つ。一通りチャンネルを回していると、ドタドタと階段から人が下りてくる音が響いた。このテンポは間違いなく弟だ。
 ドアのほうに目を向けていると思ったとおりに弟が入ってきた。三つ下の弟は今年23歳になり、今年大学を卒業して就職して名前も知らないような会社でSEをやっている。こいつも社会人か、と考えると、自分がもう三年も社会人をやっている事実に愕然とする。
 目が合った我が弟、雄二は珍しいものでも見るような顔をする。どうやら今日私がくることを知らされてなかったらしい。
「姉ちゃん、来てたんだ」
「来ちゃ悪い?」
「悪くないけどさ」
 言いながら、雄二は私の隣に腰掛ける。昔は二人でこうしてよくチャンネル権を争いながら、テレビを見ていた。
「仕事はどうよ?」
 社会人の先輩らしく、不祥な弟に聞いてみた。
「なんだよ、姉ちゃんまで、母さんと同じようなこと聞くのかよ」と漏らしたので、申し訳なくなって素直に「ごめん」と謝った。私も入社と同時に一人暮らししたせいもあってか、毎日父と母が代わる代わる私に電話を寄越してきては、「会社はどうだ? 大丈夫か?」「ご飯はちゃんと食べているの?」などと聞いて来た。そのときの有難さよりも煩わしさが勝ったことを思い出して、弟に同情した。
「お父さんとお母さん、うるさい?」
「親父は何も言わないけど、母さんはうるさい。この前なんかネクタイ買ってきてさ。俺、SEだからほとんど私服で仕事しているのに、いらねーし、だせーし」
 呆れたように言う雄二に私は笑った。
 実家は楽でいい。
「そういや、雄二、クロノスの新曲買った?」
「ん、もちろん買ったよ。何、聴きたいの?」
「ん、別に。この前CMで見てちょっと気になりはしたけど」
「ふーん、あれ、まあまあって感じだよ。売れているけど。そういや、姉ちゃん、俺が中学の時に、クロノスのセカンドアルバム買ってくれたじゃん」
セカンドアルバムだったが忘れたが、買ってあげたのに不条理なまでダメ出しをされた記憶はずっとあるので「うん」と答えた。
「買ってもらったときは、よくないなあって思ったんだけど、改めて聴くと、いいんだよね。何気に今一番聴いているよ」
「え、嘘。あんなにボロクソに言っていたのに?」
「あー、若気の至りってやつだよ。あんときは、あんなにぎゃーぎゃー言ってごめん」
 我が弟も殊勝になったものだ。これは卒業祝いぐらいあげてもよかったか。
「姉ちゃん、最近何聴いているの?」
「んー、前とあんまり変わってないよ。何かオススメがあったらかして」
「わかった。後で焼いたやつでよければ、やる」
「ありがと」
 そんなやりとりをしていると、父が戻ってきた。トイレにでも行っていたのだろうか。
「おっ美音、来たな。森本君とはうまくやってるか?」
「やってますよー、円満です」
 笑いながら答えてると、母の「ご飯できたよー」とそんなに大きくないのによく通る声が私たち三人の間を抜けて行った。
 台所のある部屋で四人でテーブルを囲んで食事をするのは、正月以来だった。メニューは焼うどんとトマトとレタスときゅうりだけのサラダとコンソメスープだった。ドレッシングは徳用のボトルに入った和風のものでテーブルの真ん中にタワーのように置いてある。統一感はなかったが、とても懐かしい気持ちになる。決して口には出さないが。
 森本家に比べると我が神崎家の食卓はこんなものだ。食後のコーヒーなんてなく、欲しければ自分でお湯を沸かしてインスタントコーヒーを溶かすしかない。
 ぼんやりとこの家に森本家の人々が来ることがあるのだろうか、と考える。現実にそれは起こることなのだろうが、起こってもそれはテレビの中での出来事のように遠くに感じられた。
「そういえば、美音」
 みんなが食事を終えて、母が洗い物をしながら、まだ机に座ってぼーっとしている私に言った。
「ん?」
「また来てたわよ」
「何が?」
「封筒。その棚のところに置いてあるから」
「棚?」言われて棚を見ると、棚の上に封筒がいくつも積み重なっていた。ほとんどが携帯電話や公共料金の請求書のものだった。けれども、その中でひとつだけ私宛のものがあって「ああ」と思い出す。裏返すとやはり差出人は「劇団LOSTMAN 安部伸一郎」となってきた。字はどう見ても私の知っている伸一郎のものとはかけ離れていて、おそらく制作担当の劇団員が書いたのだろう。女性らしさのある少し丸い文字で書かれた「安部伸一郎」は滑稽だった。
 高校のときに一緒に演劇をやって、そしていわいる彼氏彼女の関係になり、熱にうなされるように初めて手をつないでキスをして行き着くところまでいってしまった相手である伸一郎とは大学進学を前に別れて、別々の大学に進学したのだが、彼は大学に入っても演劇を続けていたらしく、大学時代から公演の招待状を送ってくる。
「毎度、毎度、ご丁寧なことで」私は苦笑いする。
「その人、あれでしょ。美音が高校のとき、付き合っていた演劇部の人でしょ。まだ続けているのね」
「続けているって言っても、半分趣味みたいなもんじゃない。演劇部の後輩にも何人か仕事しながらやってるみたいだけど、完全に趣味ね」
「趣味でもすごいじゃない。あなたは大学では、何をしてたっけ?」
「テニスよ、テニス。それで先輩だった忠司と出会ったんだじゃない」
「そうだったわね。でもテニスってありきたりじゃない。演劇って、格好よくて、演劇に夢中になっていたときの美音は好きだったわ」
「そうですか。今の私は嫌いなの?」
「違うけど、あのときのあなたはパワーに溢れていて好きだったなあってこと」
「なにそれ?」
 私の言葉に母は答えなかった。
 封筒を開けてみると、劇のチラシと招待状とチケットが一枚入っていた。招待状は劇団が作ったものなのか、コピー用紙に決まり切った形で文字が並び、ようは「是非お越しください」と言っている。私はチラシの裏表を見るが、伸一郎の名前はあったが彼の顔写真はなかった。そこでどんな顔になっているか見てみたかった気持があることに気づいた。
 そもそもどんな顔をしていたかよく思い出せない。出てくるには出てくるが、ぼんやりとしている。卒業アルバムや演劇部の写真を引っ張ってくれば、一発なのだろうが、そんなことに自分の昔の部屋を引っかき回す労力を使いたくはなかった。
 伸一郎で思い出すことは、二つだ。

 まずは声。
高校二年生に上がった時に、クラス替えがあり、新しいクラスで私は運悪く最前列の席になってしまった。そのとき隣にいたのが、安部伸一郎だった。自分の運の悪さを呪ったが、「隣の安部君はかなりの確率で最前列になるのだなあ」と思うと、自分の今回の運の悪さなんて小さいものだと考えたのを覚えている。
入ってきた担任は当たり前のように伸一郎に当番を命じた。新しいクラスで一番最初の号令。みんなは意識してなかったようだったが、伸一郎は緊張していたように見えた。
担任の命に頷いた伸一郎が号令をかけた。「起立! 礼! 着席!」と言った。私は最初の「起立!」で立ち上がった時に、はっとして、次の「礼!」ではみんなとワンテンポ遅れてお辞儀をすることになり、「着席!」では慌てたせいで、お尻が痛くなるほど勢いよく座ることになった。
今聴いた伸一郎の声を、自分は反芻していた。
 とてもいい声だった。良く通るし、声量もありそうだった。当時演劇部では人が足りなくて、やりたい台本ができないかもしれない危機に直面していた。男性の役者が一人足りなかったのだ。
 担任が今度は伸一郎の隣に座る私にペアでの当番を命じてきた。そのおかげで私は隣の信一郎を見ることができた。目が合った。一瞬で舞台映えしそうな顔だと判断した。そしてなぜか伸一郎は私を見て「あっ」と、そのよく通る声で漏らし、クラスを笑わせた。このような間の悪さも劇ではひとつのエッセンスになると私は考えた。
 ぜひ、演劇部に勧誘しよう。
 私はたった2、3分のうちにそう決めた。
 休み時間にどのような言葉で口説こうか考えていたが、実際に休み時間になってまず自己紹介をすると、何か部活に入っていたらどうしようかと思って、そこを確認した。いわいる、帰宅部だった。
 思い切って誘ってみた。
「ねえ、一緒に演劇をやらない?」
「演劇?」
 伸一郎はびっくりしていた。いきなり過ぎたかな。そこで冷静になった。いきなり過ぎだった。
 口説こうと考えていたことが、セリフや流れがまったく出てこなかった。舞台の上だったら、こんなことないのに!
 困っていると、口説こうとしている伸一郎から助け舟が来た。
「とりあえず、見学に行っていい?」

 もう一つは「俺が時間を止める」発言。
 結局、見学に来た伸一郎は瞬く間に、演劇部の面々の歓迎を受け、流れに流されてあっさりと入部し、そのよく通る声と根気強い努力の甲斐があって、うちの看板役者に育って行った。
 そして私たちが三年生の夏のときに、引退前の最後の大会に励んでいたときのことだった。
 私はその時演出を担当していた。最後だからやってみたかった。でも私には演出の才能はなく、役者に伝えたいことも伝えられず、出来上がっていく劇は、ピントがどんどんずれていき、悔しさだけが私のなかに溜まっていった。当時、他の部員には黙って付き合っていた伸一郎に、ある日、弱音を言ってしまった。今回主役の伸一郎にだけは弱音を言わないようにしようと決めていたのに、電話をしていたのがまずかった。電話はいつだって距離感を狂わせる。
 何を言ったかは覚えていない。ただひたすら私は「ごめん」を繰り返していた。その「ごめん」は私の中から何も運び出さず、逆に言えば言うほど、私の中に違う「ごめん」を持ってきた。「演劇誘っておいて、最後に、こんなんでごめんね」「ごめんね、しか言えなくてごめんね」「好きになって、ごめんね」それらの「ごめん」を私は出すことができず、貯え続けた。悔しくて、悔して、どうにかなりそうだった。ああ、泣いてしまう、そう思った時だった。嗚咽に近いものを私が「ごめんね」の間に混ぜ始めたときに伸一郎は言った。
『ちょっと待てよ』
「え?」
『今、泣きそうだろ?』
 そんなことを言われると、余計に涙が出そうになった。
『ちょっとだけ待ってくれよ。泣くのは、ちょっとだけ待ってくれ』
「う、うん」
『俺、昔さ、本当に子供の時に、おもちゃ売り場で迷子になったことがあるんだ。母さんとはぐれちゃってさ、一人で孤独で、不安で不安で、よくわかんなくなって、泣いたことがあるんだ。そのときのことって、周りが真っ暗になるような感じをよく覚えているんだ』
「うん」
 何を話し始めているのかわからなかったが、私は伸一郎の話に耳を傾けることで、流れ出るものを、流れていこうとうするものを必死に抑えていた。
『最近、思うんだけど、泣いた時のことって、人間っていつまでも覚えているじゃないかな。焼きついたように。泣くってことは思考が止まるってことだろ。思考が止まるってことはさ、その瞬間はその人に取って時間が止まってしまったのも同じで、いつまでも残るんじゃないかな』
「うん」
『だからさ、美音は今泣いちゃだめだ。今泣いたら、今の美音の悔しさがいつまでも残る』
「うん」
『今はやせ我慢でもなんでもいいから、待っていろよ。本番には、悔し涙なんで出させないから。嬉し涙を出させるから。それで最高の、最高の瞬間で、美音の時間を止めてやるから。俺が止めてやるから』
 その論理がわからないまま、私はただただ「うん、うん」と頷いていた。伸一郎が私のことを考えてくれるのが嬉しかった。でも、役者に、こうやって励まされている自分は、嬉しさ以上に悔しかった。けれども私は泣かなかった。伸一郎の言葉を守った。
 本番当日の劇は、完成度は低かった。ただ伸一郎は堂々としていた。それまでのどの稽古よりも、いい表情で、いい動きで、観客を楽しませていた。伸一郎につられて他の役者もいつもよりもいい動きをしていた。私は、舞台袖で見ていて、泣いてしまった。
 大会の結果は、良くはなかった。優勝も準優勝もできなかった。けれども伸一郎は主演男優賞に選ばれた。授賞式でもらったトロフィーを私に向けて、一人の役者として、おそらく恋人としても笑顔で掲げている伸一郎を見たときに、私は更に泣いた。目に溢れた涙で伸一郎の顔がぼやけるほどに。
 信一郎の言っていることは確かだった。あの授賞式から何年も絶った今でも、あのときのことは覚えている。あのとき、私の時間は止まったのだ。

 あともうひとつ。伸一郎と別れた時のことだ。
 あまり思い出そうとはしない記憶だが、機会があったときぐらいちゃんと思い出してやろう。
 伸一郎のことは好きだったが、自分勝手に、私は彼に対してコンプレックスを抱いてしまった。救ってくれたのに、そのことが、私が彼にとって重荷なのではないかと思ってしまい、その思考のループはとどまることを知らなかったのだ。自分で自分が邪魔になってしまったのだ。きっと今だったら違っただろう。でも高校生の私と伸一郎は出会ってしまったのだ。
 理由はどうしたか、私は彼に別れを告げた。
 不当に彼を傷つけた。
 優しい人の優しい愛を見殺しにした。
 確かクロノスのクリスマスソングが流れていたときだった。ミリオンヒットになったその曲は、年が明けても季節外れさを自慢するように街で流れていた。その曲が傷つきやすくなった私に突き刺さったが、涙は流さなかった。せっかく彼がちゃんと止めてくれた時間をどうして私がまた止めなくてはいけないのか。

 実は大学一年で招待状をもらったときに、伸一郎の劇を観にいった。私自身は高校最後の公演で演出をやって、うまくできなかった思いから、大学では演劇はやらないことに決めていた。伸一郎と別れた私は気まずくて、でもどういう演技をやっているか気になって好奇心は殺すことができなくて、足を運んでしまった。観に来たことを知られたくなくて、招待券は使わずに、正規の値段を払って劇場に入った。
 そのときに生き生きとしていた伸一郎を見て、きっと私と別れてよかったのかもしれないな、と冷たく思った。自分でもその冷たさにはびっくりした。
 別れてからまだ半年か経っていなかった。伸一郎に対して私にはまだ余熱のようなものが残っていた。好意か、罪悪感か、他の何か。私には判断することも思考することもできずに、劇が終わると、鈍い頭を引き連れてまっすぐに家と帰った。
 
 会社で、週初めの全体会議で私が責任を持っているプロジェクトのスケジュールを確認ということで全員に告げていると、直属の課長が申し訳なさそうに言った。
「神崎君、あのね、向こうの会社がね」と始まって告げられたことは、最悪の事実だった。イタリアの取引をしていた会社が倒産したのだ。そのイタリアの会社は小さいが、一切他国には輸出せず自国のみで販売しているチェリージャムの生産工場を取り扱っている会社であり、私たちが企画している商品はそのチェリージャムを使うからこそ、話題を作れる予定であった。今、そのチェリージャムの流通の権利をどの会社が買い取るかの予想がつかず、競争も激しいことが予想され難航するだろうとのことだった。これまで交渉にどれだけ時間がかかったというのだ。淡々とスケジュールを話していた五分前までの自分はもういなかった。
 プロジェクトチームで集まって、今後どうするか議論したが、誰一人として気持ちがついてきてはいなかった。
 どう話しても結局は流れがどうなるかわかってからではないと動きようがないということになった。他の食品会社と繋がりが強い流通会社に権利が渡ったら、絶望的だったがその可能性を示唆するものはいなかった。
 私のプロジェクトチームはとりあえずのやることを失ってしまった。手持無沙汰に会社にいても仕方ないので、今日のところは久しぶりにみんな定時にあがった。
 携帯に忠司からメールが入っていた。
「今日、夕飯どうする? 俺、今日は8時には帰れそうだから、作っておこうか?」
 もう中野の新しいマンションに住んでいる忠司は当たり前のように毎日私をそのマンションに呼ぶ。呼ぶというのはおかしいか。もうそこは私と忠司のマンションなのだ。
 私は今週末にそのマンションに引っ越す予定だった。
 私はメールの返信を考える。
「ごめん。今日は仕事で遅くなりそうだから、自分のマンションに帰る」
 それだけ打って送信する。すぐに返信があった。
「わかった。あんまり根詰めすぎるなよ」
 文字を目に入れて、携帯を畳んだ。
 私は、そのまま帰らず一人で飲み屋に行き、ビールやら焼酎やら飲んで、バーに行ってウイスキーを飲んで、泥酔して自分のマンションに帰った。どれだけ飲んだかは覚えていない。ただ自分の部屋に着くと、部屋に入る前まではなんともなかったのに、急に胃が暴れ出して、胃の中のものをトイレに吐き続け、それも尽きると、胃液を吐き続けた。
 あと二か月だと思っていた。
 このプロジェクトが落ち着いたら、結婚のことを上司に切り出そうと思っていた。
 権利が動いて、そこからまた交渉が始まって、それで、どれくらい時間がかかるのだろう。
 忠司になんと言ったらいいのだろう。
 森本家の人々になんと言ったらいいのだろう。
 床にへたり込みながら、思考がぐるぐる回り、泣いたら止まるのかなと思ったが、泣きそうで泣けなかった。涙とは不便なものだ。
 次の朝いつもの通りの時間に起きたが、動けなかった。アルコールのせいではない。それは昨夜すべて吐き出した。気力が出なかったのだ。ベッドに横になって天井を見上げていると、会社にはいなくてはいけない時間になった。
 どうにか起き上がり、携帯を掴むと会社に電話をかけると、出たのは課長だった。体調不良を理由に午前休を申し出ると、「今日は休め」と言われた。「有給、全然使ってないだろう」力なく「はい」と頷くと「大丈夫だ、なんとかなる」と言われた。それにも力なく「はい」と答えた。「しっかり休めよ」課長はそう言って切った。
 荷づくりなどやることはたくさんあったが、気分は一切乗ってくれなかった。
 とにかく何か飲まなくてはいけない。起きあがって冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターは切らしていて、グレープフルーツジュースしかなかった。ジュースをコップに注ぎながら思った。
 いい機会かもしれない。
 いっそのこと、会社を辞めてしまおうかな。
 グレープフルーツジュースを飲み下すと、胃には酸味の刺激が強かったらしく、焼けるように痛んだ。

 厭味なくらいに晴れた土曜日に、引っ越しが行われた。荷づくりしたものは忠司がレンタルしてきたハイエースにすべて積み込まれて、助手席までも占領し、私は電車で中野のアパートまで行くことになった。
「一回で済んだな」運転席に乗り込んだ忠司が言う。
「そうだね」
「じゃあ、向こうで、たぶん俺のが先に着くと思うから、荷物下ろしているから」
「わかった」
 私は忠司が運転する車を見送って、もう一度自分が三年間住んだ部屋を見たくて、階段を上がった。
 私の部屋は二階にある。玄関のドアを開けると、見慣れた空間は空っぽになっていた。その他人行儀さに一瞬恐怖を覚えた。
 何もなくった。
 ベッドもテレビも冷蔵庫も本棚もCDラックもテーブルもソファもパソコンも、何もかも。冷蔵庫やテレビなど二つあっても困るものは捨てた。
 部屋の真ん中まで歩くと、意外な広さに驚く。この広さが気に入って借りたはずなのに、自分のもので埋めた空間が、完全に広さを忘れさせていた。
 こうやって私は神崎美音から森本美音になっていくのかな。
 こうやってすっからかんして、次の場所で森本のものを受け入れて、空いている空間を埋めて、すっかり森本美音になってしまうのだ。
 それでいいのかな。
 そうしたら、私は高速の白線のように必死で寄り添う必要はなくなる。それが自然なことになるのだから。呼吸をするように自然にできるだろう。
 何か忘れ物がないかチェックをしなきゃ。何も残されてないことを三回確認した後に鍵を閉めて、部屋を出た。住み慣れたマンションを背にして、歩き慣れた道を駅まで進む。
 駅までの途中、喉が渇いたので自販機でミネラルウォーターを買った。カバンから財布を取り出したときに、押し込まれた封筒が一緒に出てきて、地面に落ちた。実家でカバンに入れたままだったのだ。拾い上げて、何とはなしに封筒の中身を取り出してみた。チラシを広げると、今日が公演日だった。
 とりあえず、ミネラルウォーターを買った。
 一口飲んだ。
 神崎美音だったときのものは、そう残されてないのかもしれない。
 ふとそう思った。
 まだ自分は森本美音ではなく、神崎美音であるのに、そう思った。
 見上げると、雲ひとつない空がやけに高かった。

 劇場に入ると、緊張した。自由席だったので、一番後ろの端の席に座った。
 劇場に来ること自体が久しぶりだったので、妙に懐かしかった。昔は自分もこういう空間を作り出していたことが、信じられなかった。
 身内が多いらしく、客席は賑やかだった。「今何してるの?」や「仕事の調子はどう?」などの会話が飛び交っている。肩身が狭かった。
 忠司には、電話で「急用ができた」と告げた。当然抗議してきたが、「ごめん」と言って半ば強引に電話を切り、サイレントマナーモードにして、着信があっても動じないようにした。劇場に入って、携帯を確認したところ、着歴が「森本忠司」で埋まっていた。申し訳なさを感じながらも、放っておいた。
 やがて開演の時間を迎えたのか、定番のブザー音がなり、客席のライトが消され、暗闇がすっと降りてくる。
 私は息を吸い込む。動悸が激しくなっているのがわかった。
 次に、光がついたときには、伸一郎が舞台にいるかもしれない。
 ただそれだけのことなのに、怖くて仕方なく、怖いもの見たさに支配されている自分もいた。
 ゆっくりと緩やかな音楽が流れてきて、徐々にボリュームが上がる。そしてふっとスポットライトが舞台の中央に落ちた。そこには俯いている男がいた。顔が見えなかったが直観でわかった。
 男は顔を上げる。
「どうしてこんなことになったのだろうか」
 呟きに近い声はよく通って、私の耳から入り、どこか懐かしい部分を刺激した。

 劇はそう長くはなく一時間半ほどで終わった。
 伸一郎は主演だった。
 それが高校最後の公演とかぶったこともあったが、何よりもあのときのような堂々さを伸一郎は発散していた。高校の時と変わっていなかった。必死で、なりふりなんて構っていなくて、ただ自分を信じていた。私にはそう見えた。
 私の好きだった声が次々届く。
 デジャブのように、高校のときの伸一郎と重なって、感情が、蘇ってくる。

『俺が止めてやるから』
 
 あのとき、止められた私の時間が目の前に迫ってきた。
 あの不安、あの悔しさ、あの嬉しさ。私がちゃんとそこには残っていた。幼くて自分勝手だった私が残っていた。
 手で口と鼻を封じた。嗚咽が漏れそうだった。目には涙が溢れて、あのときと同じように視界が滲んだ。
 何も考えれなくなった。
 また私の時間は再び、あのときで止まった。

 劇が終わると、客席のライトが点く。私は早く立ち去らなきゃ、と思った。おそらくこういう劇団は公演終了後役者が客席に出てくる。
 コメントシートに何も書かずに出て行こうとしたが、迷ってしまった。迷ったということは何か書きたいことがあるということだった。私は一度息を吸って吐くと、思ったままに短く記入して、劇場の出口でシート回収に現れた劇団員に渡した。渡された劇団は「本日はありがとうございました!」と深々と頭を下げた。私も昔はああやって気持ち良く頭を下げたなあ、とくすぐったくなった。
 コメントシートには、こう書いた。

『あなたの声が好きでした。これからもきっと好きです。
 また時間を止められました。
 また来ます。
 もしよかったら、また誘ってください』

 帰り道、携帯を開くと一定の時間を置いて忠司から着信が入っていた。劇場から出て、国道を駅へと歩きながら、忠司の携帯をコールすると、ワンコールもしないうちに出た。
『おい、どこにいるんだよ?』
 珍しく焦っている忠司の声が耳に心地よかった。
「ごめん。高校の時の知り合いの劇が今日だって思い出したの」
『なんだよ、それ。そう言えよな。いろいろ心配したじゃないか』
「いろいろって?」
『帰ってくるかなあ、とか。荷物はこっちにあるから大丈夫だと思ったけど、なんかお前の荷物を運び入れていうちにしさ、アルバムとか昔の写真が詰まった段ボールを見つけてさ、勝手に見て悪かったけど、あー俺って昔の美音を全然知らないんだなあって思ったら、急に不安になった。どこかに行って、もう帰ってこないかと思ったよ』
「大丈夫、今から帰るから。ごめんね、私の荷物なのに一人でやらせて」
『本当だよ』
 そう言う忠司の口調は少しすねていて、いつもにはない子供らしさがあった。
『わからないけどさ』
「うん?」
『たまに、自分は美音の望む理想の男を演じてるじゃないかって思うときがあるんだ』
「え?」
『いや、わからないと思うけど、なんかさ、美音がきっとこうして欲しいんだろうなあって思うときがあって、そういうのを優先しちゃうんだよな。でもさ、今日、さっきまで連絡がつかなくて、きっと美音は連絡して欲しくないだろうなあって思いながらも、ひたすら電話かけたりしちゃってさ。ああ、俺って嫌な男だなって思っていたんだけど、途中で開き直っちゃってさ。もういいやって。もういいから、電話したいからしちゃえって。わからないけど、そういう俺を美音は嫌うかもしれない。でも、それは仕方ないと思って。嫌だったら言ってくれよ。多分、これからそんな俺ばかり顔を出すような気がする』
 忠司の話を聞きながら私は、どうしてだろう、変に納得していた。
 忠司の白線も私に合わせて伸びたりカーブしたりしているつもりだったのだ。私たちは何をしていたのだろう。お互いがお互いに合わせているつもりで、進んできたのだ。
「うん、わかるって」
『わかるのか?』
「うん」
『そっか。まあ、後は美音が俺を嫌いにならないように祈るだけだな』
「なに、その他力本願は?」
『仕方ないだろ』
「私も、忠司と同じだと思う」
『え?』
「同じで合わせて来たんだと思う」
『じゃあ、今日からなしにしよう。一緒に暮らし始める日から、合わせるのをなしにするっていうのも変だけど』
「そうだね」
 言いながら、私はまた視界が滲んでいることに気づいた。涙腺が弱くなったのかな。
 ただ私の涙が忠司のために残っているのが嬉しかった。私の時間を止めてくれる人が、私の傍にいてくれることが嬉しかった。
『どうした?』
 私の嗚咽が漏れたのか、忠司が心配そうに聞いてくる。残された涙に余計に拍車をかけそうだった。
「なんでもない。30分ぐらいで帰ると思うから待っていて」
『うん。わかった。気をつけてな』
「うん。じゃあ、またすぐに」
『うん、すぐにな』
 電話を切ると、駅に着いていた。涙を綺麗に拭いて改札を抜けて、ホームに立つ。太陽が少し傾き始めて世界をうすくオレンジに染め始めていた。
 今日来てよかったなあ、と心底思った。
 アナウンスが間もなく電車が来ることを告げる。早く帰らなくちゃと思う。
「美音!」
 そのとき聞き覚えのある、よく通る声が耳に入ってきた。声のほうを向くと、駅の改札のところに伸一郎が立っていた。肩で息をしている。走ってきたのだろう。
「今日は来てくれてありがとう!」
 私の好きだった声が響く。
 私はなんて言っていいかわからず、立ち尽くした。
「本当にありがとう! 嬉しかった! また招待するから、必ず招待するから、来てくれよな!」
 伸一郎は迷いなく、次もきっと私が来ることを確信しているように、叫んだ。
 私は息を吸い込んだ。
「こちらこそ、ありがとう! また、来ます!」
 叫び返した直後に、電車がホームに走りこんできて、視界が遮られた。しかし、その直前に顔を崩して笑った伸一郎の顔が綺麗に私の目に焼きついた。
 電車のドアが開く。私はゆっくりと乗る。
 時間は止まった。
 結婚のことも、仕事のことも、家族付き合いのことも、今は私の中ですべてが止まっている。
 どこへ流れていこう。
 時間が止まった今なら、どこに何を流し、そして自分がどう流れていくか決められる気がした。
 とりあえず、忠司のところに向かうことだけを考えて私はカバンからipodを取り出し、イヤホンを耳に差して弟にもらったCDの中で一番気に入ったモノクローグの「It is time for a change」を流し始めた。

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