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Twitterを見てウズベキスタンに行ったら、中央アジアの虜になった話

突然タイムラインに現れた青いモスクの写真は、渡航を決めるには十分すぎるほどの魅力を放っていた。

2018年のゴールデンウィークにウズベキスタンを訪問した記録。

やたらと薄い地球の歩き方

Twitterで見かけた4枚の写真に魅了され、勢いで航空券を購入した。

2018年4月27日、ゴールデンウィーク前日の僕はじわじわと湧き上がってくる後悔の念を無視できないでいた。なにゆえ貴重な長期休暇をよく分からない国で過ごさなければならないのか。どうやら英語もロクに通じないらしい。そもそも、“~スタン”とつく国々には漠然とした負のイメージがある。情勢は安定しているのだろうか?

海外といえばヨーロッパの有名な観光地しか訪れたことのなかった当時の僕は、ウズベキスタンの圧倒的な情報の少なさに怯えた。

首都はタシケント、通貨はスム。いずれも初耳だ。為替レートには公定レートと闇レートの二つがあるらしい。闇レート、そんなものはこれまでの旅行では聞いたことがない。“闇”と名前がつくからには、お互いの生死をかけた両替ということだろうか。なんと恐ろしいことだ。

とりあえず地球の歩き方を買ってみたものの、周辺の国々と共に「中央アジア」として1冊にまとめられており、旅行の全てを託すには心許ない薄さだ。

今更行き先を変えるなんてできないし、それなりの金額を払っている以上キャンセルもなしだ。もっと冷静に考えた上で予約すべきだったと大いに反省しつつ、関西国際空港を出発した。

ヒヴァ

フライトの中で旅程を組み、ヒヴァ、サマルカンドを回ることとした。

ウズベキスタンの玄関口であるタシケント国際空港を出ると、白タクの運転手がたむろしている。ホテルに行くため、適当な運転手と料金交渉をするが相場がいまいちわからない。少々ぼったくられたような気もするが、ひとまず無事に到着したのでよしとする。

翌朝にはタシケントを発ち、ヒヴァの北東に位置するウルゲンチまで飛行機での移動だ。乗客の半数程度を日本人が占めている。数ヶ月前にビザが不要になったのを機に、日本中の旅好きが集結したのだろうか。全員、いかにも旅慣れしていそうなオーラを纏っている。

ウルゲンチから1つ目の目的地であるヒヴァに向かうにあたり、空港で知り合った日本人の男女2人組とともに白タクをシェアすることになった。はちゃめちゃにぼったくられたような気もするが、ひとまず目的地に着いたのでよしとする。同乗している2人にウズベキスタンに来た理由を尋ねてみると、僕と同じツイートに影響されたからだという。Twitterは偉大だ。

二重の城壁に囲まれたヒヴァの町のうち、特に内側の城壁に囲まれたエリアはイチャン・カラと呼ばれ、多数のモスクやメドレセ、ミナレットなどの遺跡が残されている。観光客にとってヒヴァとはこのイチャン・カラを指すが、半日もあれば十分見て回ることができる程度の広さしかないため、何度も同じ人たちとすれ違うことになる。

もしウズベキスタンへの渡航を検討している方がいるならなら、ヒヴァを1日観光した後、隣国トルクメニスタンまで足を伸ばして地獄の門を見るのも良いだろう。

2日間をヒヴァで過ごした僕は、ウズベキスタンを舞台とするRPGを順調に攻略していた。食事は抜群に美味しい上、物価も安い。闇の両替も生きて終えることができた。

何より、現地の人々がやたらとフレンドリーなのが良い。日本人と分かると、口々に「おしん、おしん」と話しかけてくる。帰国後に知ったことだが、ウズベキスタンではおしんが何度も再放送され人気らしい。

渡航前に抱いていた不安は全くの杞憂であった。


サマルカンド

ウルゲンチ駅発の寝台列車に乗り、青の都市として有名なサマルカンドにやってきた。ホテルにチェックインし、アミール・ティムール廟からレギスタン広場を巡る。

…………。


数時間後、気がつくとサマルカンドの日本語学校で教鞭をとっていた。

筆者(写真中央)。なんで?

日本語学校の生徒にレギスタン広場で話しかけられ、何も考えずについて行った結果である。どうやら普段から観光客に話しかけ、日本語の練習をしているらしい。簡単な日常会話をしつつ文法上の誤りを指摘したり、漢字を教えたりして過ごした。数人の学生と食事を共にし、日本語で観光案内をしてもらった上、宿泊先まで車で送ってもらった。至れり尽くせりである。

翌日、一通りの名所を巡り終えて、ハズラティ・ヒズル・モスクからレギスタン広場に向かって歩いていると、「ヒヴァで一緒のとこ泊まってたよね」と一人の日本人女性が声をかけてきた。

いくらヒヴァからサマルカンドというルートが定番とはいえ、700kmも離れた都市で再会するとはなかなかの偶然だ。せっかくなので一緒に観光することになり、パーティは2人になった。

シャーヒズィンダ廟群を見てからレギスタン広場へ戻ると、同室のドミトリーに宿泊している日本人男性二人組を見つける。パーティは4人になった。

4人で夕飯の相談をしながら徘徊していると、見覚えのある日本人二人組がウズベク人に取り囲まれている。近づいてみると、ウルゲンチからヒヴァまでのタクシーをシェアした二人組ではないか。周囲を取り囲んでいるのは昨日訪問したのとはまた別の日本語学校に通う学生らしい。パーティは日本人6人+ウズベク人学生9人の計15人になった。このパーティであれば白タクの運転手など簡単に蹴散らすことができるだろう。なんと心強いことか。

このときの集合写真が残っている。サマルカンドのシンボルであるレギスタン広場の前で撮影したものだ。何度見ても疑問符が浮かぶ、ステキに不思議な思い出の一枚だ。

ウズベク人学生3人と日本人6人で夕飯を共にする。シャシリクとナンをたらふく食べながら様々な話題に花を咲かせた。日本語を学ぶ理由、将来の夢、これまでの旅行歴、オススメの国情報、ウズベク語講座etc。ゴールデンウィークの旅行先に中央アジアを選ぶ人間の集まりである、話が合わないはずがない。宴はナンが腹に収まらなくなるまで続いた。

翌朝、特に旅程の決まっていなかった日本人4人と学生3人でレギスタン広場に集合した。まさか異国の地で知らない人たちと待ち合わせをすることになろうとは。昨晩の宴は幻ではなかったらしい。

学生に導かれるまま、彼らの通う日本語学校や知らない人の結婚式を見学した。丸一日観光し、昨晩に続き十分すぎる量のプロフやナンを食べた。

帰国

サマルカンドから高速鉄道を利用してタシケントまで戻る。タシケントでもいくつかの出会いがあったが、ここでは省略することにする。

ナヴォイ劇場、チョルスー・バザールを巡り、帰国の途についた。


おわりに

衝動買いした航空券で訪れたウズベキスタンは、様々な人との出会いによって史上最も充実した旅となった。

サマルカンドでシャシリクをたらふく食べた夜、日本で工学を学びたいと熱く語っていたウズベク人学生は今、東京でアルバイトをしながら勉強をしているらしい。

果たして日本という国は、東京という街は、海外からやってくる学生たちの期待に応えることができているのだろうか。


2019年8月、僕がウズベキスタンを訪れるきっかけとなった写真を投稿した方のウイグル旅行記を読んだ。読み進めるうちに、サマルカンドで感じた高揚がふつふつと蘇ってくる。

僕もまた中央アジアの魔力に取り憑かれてしまったらしい。



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