見出し画像

【自己紹介】超照れ屋な子どもだった私が、社長として越後雪室屋など数々の企業をブランディングし続ける理由。

はじめまして、関本大輔(せきもとだいすけ)と申します。

現在は新潟を拠点にしたデザイン会社、株式会社アドハウスパブリックの社長をやっています。

アドハウスパブリックでは、グラフィックデザインや映像デザイン、他にもイベントや内装など、デザインで表現する仕事に幅広く対応しています。

特に力を入れているのが企業のブランディングです。

簡単に言うとすべての企業とすべての人が、自分らしく輝く社会をつくるという想いでやっています。

その企業の魅力の一本筋を作ってデザイン等で表現し、ファンを増やしていきます。

また、企業内部の研修や社員同士のベクトルを合わせるためのワークショップも開催。企業の内側からブランディングの土台を作ることにも力を入れています。

最近では、全国各地でブランディングに関するセミナーの講師をする機会も増えてきました。私のブランディングに関する考え方や、会社での取り組み事例について、多くの人に知ってもらうことは非常に嬉しいです。

これからnoteを通じて、デザインやブランディングに関する様々な情報を発信していく予定です。

今回はnoteの一回目として、私の自己紹介をします。

超照れ屋で繊細。そんな子ども時代の自分を変えた運命の出会い。

私は新潟市の沼垂という地域で生まれました。沼に垂れると書いて「ぬったり」と呼びます。家族構成は、父・母・姉二人・私の五人。

今でこそ社長をしたりセミナーをやったりしていますが、小さい頃は超照れ屋で繊細、ひと目を気にする子どもでした。

そんなおとなしい子どもが、小学校三年生の時、転機を迎えます!自宅のテレビで放送されたカンフー映画を見たことをきっかけに、ジャッキー・チェンの大ファンになりました。ジャッキー・チェンに少しでも近づくため、少林寺拳法を習い始めます。

少林寺拳法で賞を取ったり、友だちにも「かっこいい!」と言われたりして、そこから急に変わりました。友だちも増えて、自分のポジションをつかむことができた感じです。

私の人生には、自分の世界を変えてくれた人が何人かいます。ジャッキー・チェンは最初に世界を変えてくれた人でした。

少林寺拳法の他には、何かものを作ることが好きな子どもでした。

小学校の時、当時は貴重なパソコンでプログラミングに夢中になったり、専門学校時代には粘土人形でアニメーションを作ったりしました。

父親がすでにデザイン関係の会社を経営していて、職場にも良く連れて行ってもらいました。自由に色々なことをさせてもらってましたが、「多分、自分が会社を継ぐのかな」と薄々感じていました。

画像1

※小さい頃の私と父親

その後、専門学校までは新潟で過ごし、就職で上京することになります。

仕事はやっぱりデザイン関係。その時はとらばーゆなどリクルート系の冊子を作る会社で働いていました。

就職したのは良いのですが、とにかくすごい激務!週の4日は徹夜する毎日。

1年くらい東京で働いて疲れ果てた頃、急に父親が亡くなりました。

父親が経営していた会社をたたむ話も出ましたが、「自分が継ごう」と決意。新卒で入社した会社に退職届を提出し、父親が経営していた会社に入社しました。それが現在のアドハウスパブリックです。私が24歳だった頃の出来事です。

あるコンサルタントに言われた、自分が持っている二つの能力。

父親の会社では主に版下(印刷する時の製版を行う元となる原稿)を扱っていました。

私が新潟に戻ってきたのは、ちょうどDTPが流行り始めた頃。版下はなくなる仕事だと言われていました。

このままではいけないと思い、デザインの仕事も少しずつ取るようになります。私もまだ25歳で「親父さんが亡くなって若い跡継ぎが頑張っている」と周りの人もよく仕事を回してくれました。

しかし、父親の会社に入ったのは良いものの、経営が全く分かりません。お金のことも何もかもわからなかったです。

あの時は本当に大変で、このままでは社員も雇えなくなるくらいでした。

どうしようと思っていた時、あるコンサルタントの方と出会います。この出会いはジャッキー・チェンと同じ、人生の転機となる出会いでした。

そのコンサルタントの方に、

あなたには二つの能力がある。一つは人を感動させる能力、もう一つは人の才能をコピーする能力

と言われました。

言葉の持つ力って大きいですね。私はこの言葉を言っていただいて、俄然やる気が出てきました!

やる気が出てきたからなのか、そこから一気に会社が良くなっていきました。

その頃は他の人がやらないような、大変な仕事の話も引き受けていました。それを「何とか楽しく仕事できないか?」と創意工夫を重ねてきたことが、今のブランディングにも繋がってます。

会社の経営は徐々に良くなっていきました。しかし、このまま新潟で仕事をしても自分の力が向上しないと感じるようになりました。その頃、東京に新しい活路を見出そうと、東京支店開設のためまた上京することにしました。

それが28歳頃です。

過去お世話になっていた先輩を頼って上京したのですが、最初は仕事がほとんどありませんでした。

そんな私の元に、良いニュースが飛び込んで来ました。

あのTSUTAYAさんがアートディレクターを募集している、しかも一週間後に採用しないといけないと焦っているというのです。

ダメ元で行ってみたら、なんと採用されました!

当時、アート部門のスタッフはみんなつまらなそうに仕事していました。私は「もっと楽しく仕事してほしい、自分がムードメーカーになろう」と頑張りました。

結果、最初はビデオレンタルの仕事だけでしたが、音楽や書籍、Tカードのデザインと仕事が増えていきます。売上も約1年で12倍になりました。

それ以来、TSUTAYAさんとは20年近くもお付き合いさせてもらっています。

東京での仕事がうまく行き始めた頃、新潟の本社もデザインの賞を取るなど飛躍していました。ただ、赤字が続き社内の雰囲気が良くないため、立て直しに新潟へ戻ることになりました。36歳の頃です。

会社がここ5年で一番良い状態に!それには社員の変化があったから。

ブランディングという言葉を使い始めたのは、新潟に戻って来てからです。

越後雪室屋の仕事を始めた2012年頃から、本格的に使うようになりました。

越後雪室屋のブランディングが成功して、様々なメディアに取り上げていただきました。その結果、「アドハウスパブリックは食品ブランディングが得意」と評判になり、そこから様々な依頼が舞い込んできました。

ここ最近では、食品に限らず様々な企業のブランディングを手掛けるようになっています。

現在、アドハウスパブリックの社員は26名。新潟の他にも東京の東十条に事務所があり、東京では6名が働いています。

画像2

※新潟本社にて、社員の集合写真

基本的にデザイナーが多い職場です。30代が一番多く、下は22歳から上は61歳まで、様々な年齢のスタッフが頑張ってくれています。

今、社内の雰囲気はとても良いです。ここ5年で本当に良くなってきました。

もちろん、決して売り上げなどの目標数値がすべて達成されているわけではありません。しかし、以前は社員の受け身姿勢が目立っていましたが、今は積極的に意見を言ってくれるようになりました。目標がしっかり定まっているからでしょう。

社員一人一人のキャラクターは違いますが、お互いの良いところを出し合い、一つの目標に向かって頑張るという、良好な関係性が出来上がっています。

「自分だけでなく周囲も笑顔でいてほしい」そう思う私なりの考え。

これから会社が目指す具体的な目標数値は定まっています。しかし、今はとにかく、社員の生活を豊かにしたい気持ちが強いですね。安心・安定の環境でプライベートを充実させながら、思いっきり仕事もしてほしいです。生活と仕事が安定して、日々社員が幸せを感じられるような会社を作りたいです。

今、社員は26名ですが、もっと大きい会社になればそれでも良いですし、今の従業員数くらいのままでも良いです。とにかく、私たちが考えている哲学を分かってもらえる人が増えれば良いですね。

自分も社員も幸せで、死ぬまで笑顔でいる状態が理想です。不安なことがあると、笑顔にはなれません。笑顔でいるには、やはり売上もしっかり上げて、健康のままでいることが必要です。家族や社員やお客様など周囲も笑顔のままでいないと、自分も笑顔になれないですよね?

最期の時まで、大好きなワインを飲んで笑っていられれば幸せですね。周りの人もみんな幸せで笑顔、その状態で120歳まで生きたいです。

世の中に幸せで笑顔の人が増えるよう、これからもブランディングを広めていきます。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?