この苦しみに意味はあるのか。この生に意味はあるのか。【読書note #3】
「私はなぜ、生きているのだろうか?」
特に代わり映えの無い毎日に退屈していると、突然こんな問いが頭をよぎることがある。
答えのない、意味のない問いだとわかっていても、ふと考えてしまう「生きる意味」。
今回読んだ本には、そんな「永遠の問い」に対して1つの答えが、大きなメッセージが掲げられているように思える。
■ 歴史的名著を読む
ヴィクトル・フランクルが著した『夜と霧』では、ナチスドイツの強制収容所に収容された精神科医である筆者が、自身の壮絶な体験を振り返りながら、いつ死んでもおかしくないという極限状態において、人の心理はどうなってしまうのか、ということについて語られている。
そして、そんな収容所生活での人間の心理状態を考える中で、筆者は「生きる意味」についての考えを我々に訴えかける。
■ あるときは左に、またあるときは右に、しかしたいていは左に
筆者の強制収容所でのエピソードにこんなものがある。
収容所に着き、被収容者は一列に並べられ、親衛隊の将校の前を歩くよう命じられる。
そして将校は、被収容者の前で小さく右手の人差し指を左右に動かす。
このとき、およそ9割の人は左側、「入浴施設」と書かれた焼却炉へ連れて行かれたという。
移送された人々のほとんどは、到着して間もなく死の宣告を受けたのだ。
■ 「ほかの誰にも決して奪われないもの」
淘汰を目の当たりにした被収容者たちは、自分の死が、もう目の前にあるということを突き付けられた。
そして被収容者は段々と未来への目的を失い、墜落していった。
筆者はそんな強制収容所の人々の心理状態を2種類に分類した。
一方は、極限状態に陥ってもなお人間らしさを保ち続け、精神の自由を見失わなかった人々。
もう一方は、人間らしさを放棄して、感情を失い、外的な環境に屈するだけの「被収容者」になり下がった人々。
ほとんどが後者であったという。
反対に、ごく少数であれ、極限状態の中でも自分を見失わない人がいた。
では、最終的に彼らの心理状態を分けたのはなにか。
それは、外的な環境ではなく、内的なよりどころだった。
■ 生きる意味
内的なよりどころを失った被収容者たちは、生きる目的を見出せず、自分が存在する意味を失い、励ましを拒絶した。
こんな彼らの言葉に対して、筆者はこう答えた。
私たちが生きることに生きる意味を問うのではなく、生きることが私たちに生きる意味を問いかけているのだ。
この発想の転換、コペルニクス的転回こそ重要であると筆者は語る。
■ 外的環境に屈しない生き方
新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため、様々なイベントが中止、延期となった。
「こんなことになったのは、誰のせいなのか?」
テレビは朝早くから、コロナ禍での政治責任問題や、街中の様子などを取り上げ、このどうしようもない鬱憤を晴らすように報じている。
この「思うようにいかない」生活を、すべて環境のせいにしてしまっていないだろうか?
人間は、たとえ死が身近に迫っていたとしても、環境に屈せずに自ら考え、感情を失わず、「人間らしさ」を保ち続けることができる。
だから、運命がどんな苦しみをもたらしたとしても、たった一度、ふたつとない何かをなしとげる可能性は残されている。
何かのせい、誰かのせいにするのではなく、思うようにいかないことで、とことん「苦しみ尽くす」ことこそ、なにかをなしとげることなのだ。
■ 生きることを意味で満たす
この本を読んで、私は「生きる意味」についての考えが変わった。
私たちは、生きる意味を問い続けるのではなく、ただ「生きる」ことによって、この永遠の問いに答え続けなければならない。
いま、わたしの生が、絶えず問いかけている。
「わたしの生きる意味とは何か?」
朝早く起きて、歯を磨くこと。
満員電車に押しつぶされながら、メールをチェックすること。
近くのコンビニで、健康的なランチを買うこと。
溜め息をつきながら、急いで沸かしたぬるめの湯船につかること。
一瞬一瞬で、私はその問いに答えている。
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