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BAND☆やろう是 第七章 会議2

 気がつくと目の前にいたはずの智さんと大ちゃんの姿はなく、僕を挟んでの両端の二人は相変わらず異世界を彷徨っている様子であった。
 なにやらキャッシャーの方からボソボソと話し声が聞こえるのだが、必要な事意外立ち入らない性分である僕は敢えて触れないようにした。それよりも今回のミーティングの議題であり自分自身に課せられている曲名をこの一人の時間に考えてしまおうと冷静に思ったのだ。
 既に冷えつつある親子丼を適当に口の中にかっ込んで食器を横に少しずらして歌詞カードを三枚並べた。そして頭の中でそれぞれの曲のオケを鳴らし、目で追いながら鼻歌混じりに歌っていた。
 智さんの作る歌詞に改めて深く触れてみると、どの曲も比較的ストレートな表現が多く、イメージがリアルに捉えられる印象を受けた。よって世界観も頭の中で簡単に作り出すことができ、曲の象徴である曲名も何となくは形にする事ができた。
 スタンダードなビートロックを脳内再生させながら指で机を叩きながらリズムを刻んでいた。気がつくとノリに乗っている自分がいる事に気がついた。

『いい感じだ…。この調子ならいい名前が付けられて皆に喜んでもらえる!』

 素直にそう思えた。気分は最高潮に達し、心地よく、そして嬉しくて堪らなかった。
 とりあえず残りの親子丼を平らげようと丼に手を伸ばした瞬間、キャッシャーの方から大ちゃんの怒号が飛び交ってきて愕いた。何やら必死に止めようとする智さんの声も聞こえてきて心に不安が過ぎった。
 内容までははっきりとは聞こえてこないのだが、どうやら店のスタッフと揉めているらしい。
 一瞬自分も止めに行った方がいいのではと思ったのだが、内容さえも分からない自分が行っても余計に困惑を招く恐れがある。とりあえずは様子を伺おうと思い、改めて丼を手に取った。腹が減っては戦はできぬと昔の人も言っていたではないか。
 耳はあちらに傾けつつも親子丼の残りを貪り、次は漬物に箸を伸ばした。
 白菜のお新香と沢庵が10切れ、そして大根の葉を塩もみしたような漬物が皿に盛られていて順々に少しずつ食してみた。決して塩辛く無く、素材の味とうまく調和できている味わいだと高校生の素人舌の僕にでも分かるくらいであった。平たく言うと「美味い」の一言に尽きる。
 何やら聞こえてくる叫び声などそっちのけで暫くこの漬物に心奪われていた。『多分うちの親には作れない代物だろうなぁ…。』と思えた瞬間、どこか残念な気持ちになってしまった。
 想いのままに箸を進ませ、気がつくとてんこ盛りにされていたはずの漬物の盛り合わせが無くなっていた。最後に丼に注がれている味噌汁に口を付けた。
 完全に冷めてしまっているのだが、カツオ出汁の風味が口いっぱいに広がり、合わせ味噌といい具合に混ざり合っている。具材はワカメ、豆腐、ネギとオーソドックスなのだがそれがまた味噌汁本来の味わいを引き立たせている感じがして僕は十分に堪能していた。
 最後の一滴まで残さず飲み干して、ご満悦に食器を置いて周りを見渡すと先程まで聞こえてきていた怒鳴り声は無かった。
 とりあえず食事も終えて落ち着きを取り戻した僕は、もう一度歌詞を見ながら先程考えた曲名と内容がどこか食い違わないかを見直そうと思い、歌詞カードを取ろうとすると両サイドから何やらガチャガチャと音がしている事に気がついてふと周りを見渡してみると、先程まで異次元に旅立っていたはずの二人がいつの間にか意識を取り戻していたらしく、自分が注文したメニューを一心不乱に食い散らかしていた。
 先程歌詞を見ていた時はまだ旅の途中だったのは確認したのだが、何の気配も無く、しかも二人同時に復活を遂げていたのに激しく愕いたと同時に『こいつらは一体何者なのか?』という不可思議な気持ちも沸いていた。
 あんなにメニュー内容に抗議していたイータダも、メインがオール葉っぱだろうが何だろうが一度口にすると美味いと感じたのだろう。いつ噛んでいるのか分からないほどのすごいスピードでおかずや米を口に放り込んでいる。トースも負けず劣らずであった。
 複雑な想いが相互する中、何とか気持ちを落ち着かせようとコップを手に取ったが、空になっている事に気がつき、やかんに手を伸ばしたがやけに軽い。どうやらお茶はそこをついているようである。
 それでも何とか気持ちを取り戻そうときつく目を瞑り、何も考えないように努めた。幾度に無く深呼吸を繰り返して心拍数を抑えようとしていると前の方からがたっと音がした。そして箸と食器が当たるような音が聞こえてきた。
 多分智さん達が帰って来て自分達のメニューを食しているのだろうと初めは思っていたのだが、先程聞いたような激しい音であり、冷静に考えると果たして智さん達がそんな食べ方をするのだろうか?と感じて目を開いてみると、そこには大ちゃんの席に座り、彼が注文したメニューに箸を伸ばしているイータダの姿があった。
 そのありえない姿に言葉を無くした僕は呆気に捉われていると、ふと視線が合っている事に気がついた。彼はてへっと無邪気な笑顔を浮かべて口に人差し指をつけ僕に内緒サインをし、そしてまた食べ始めた。
 その大胆且つ傲慢なイータダの態度に僕の思考は完全に停止し、止める事さえできず見つめていると奥の方から声が聞こえてきて、智さんと大ちゃんが肩を並べて戻ってきた。何かを成し遂げた様子でどこか爽やかに笑い合っている二人だが、ボックスの前にたどり着くと同時に笑い声が消えた。そんな彼らの姿も気がつかず、美味そうに肉を頬張るイータダ。
 大ちゃんは般若のような表情を浮かべてイータダの後ろに立った。
「イータダ君…。何をやっているんだい?」
 表情と裏腹に深く落ち着いた口調が、ただその情景を見ているだけの僕にさえ恐怖を思わした。
 そんな緊迫した空気も一寸も感じないのか。いや、もしかしたら誰が自分に話しかけているのさえ気づいていないだけなのかもしれない…。
 相変わらず目を閉じたまま肉と油を口に頬張らせながら上機嫌に答えた。
「いや、あれでさぁ!大ちゃんいつもこのメニューに手こずっているのをあっしは見てたんでさぁ。彼もどこかに行っちまってるって事で、見えねぇ手助けをして差し上げてる訳でしてねぇ。」
 そう言ってはもう一度肉を口に放り込んだ。
「まぁ、本当の事をいうとあっしが頼んだ料理が物足りなかった訳でしてね?こう目の前に獲物が置かれているとどうしても我慢できなかった訳でさぁ!あっしの気持ちも旦那にも分かっていただきたく…。」
 イータダは口一杯に頬張らせて声のした方へ笑顔を向けると一瞬にして顔を凍てつかせた。
「で、何やってんの?」
「い、いや…。その…。て、手助けを…。」
 赤らめた表情がみるみるうちに青ざめていき、身体を硬直させたまま顔を俯かせたのだが口元だけはまだもぐもぐと動いていたのは真正面にいる僕しか知らない事なのだろう。
 そんなイータダの肩に大ちゃんは手を置いて呟いた。
「ん…?手助けがなんだって?」
 落ち着いた口調と怒りに満ちた表情が確実に相まってはおらず、その雰囲気がイータダを余計に恐怖に陥れているのだろう。それを物語るかのように大ちゃんの手を乗せた肩を諤々と震わせていた。
「て…手助け…自分の手で大ちゃんを助ける…。うん!手助け!!」
 イータダは渾身の笑みで大ちゃんの方に表情を向けた。しかし彼は表情に影を含ませながら微動もせずイータダを見つめていた。
「そうか…。手助けか…。」
 やっとそう呟いたと同時にゆらりと身体をうねらせた。只ならぬ雰囲気の大ちゃんに焦るイータダが誤魔化し紛れに作り笑いを浮かべていた。
「えっ…?だめぇ?」
「…。」
 イータダの言葉に受け答えもせず、まるでゾンビのような動きでイータダの横へと動いて行った。目の所を影で沈ませて、怒りの感情以外何も感じさせない。
「そうか…。言いたい事はそれだけかイータダ…。」
 もう一つ静かに呟くと次の瞬間、大ちゃんの拳は座ったままのイータダの鳩尾を力強く捉えていた。イータダの座っている位置からすると大ちゃんは左拳で殴った事になり利き手では無い分ダメージもそんなに見込めないと思ったのだが、よく見ると大ちゃんはイータダの鳩尾の裏側に当たる所の背中を右手で押さえて左拳を打っていたのだった。
「うう…。だい…ちゃ…ん…。」
 武闘派的技を繰り出してもやはり利き手では無い分思うほど効いていないのか、はたまた何気に鍛えていると思われる強靭な肉体を持つイータダがすごいのか…。無防備なわき腹を殴った僕の時みたいにまだ崩れ堕ちてはいない。
 イータダの呻き声を聞いてか聞かずか、大ちゃんは同じ体勢のまま目にも止まらぬ速さで、何発か分からないほど同じ所を殴り続けた。
「ぎ…ぎぎっ…。」
 この攻撃にはさすがのイータダも耐え切れなかったらしく,、まるで虫の鳴き声のような声を上げて泡を吹き出し、前のめりに崩れて堕ちようとした瞬間、まるでタンスからいらない物を引き出すかのようにすごい勢いでイータダの身体を引っ張った。その反動で彼の身体は廊下側へと倒れていく。僕はその峻烈を感じさせる行動に息をするのも忘れて見入っていた。
 冷気を敷くアスファルトの廊下に口元を泡まみれにさせ、仰向きに倒れているイータダをただ見下すように見つめる大ちゃんの姿がどこか同じ人間の高校生とは思えなかった。強いて言うなれば『悪鬼』そう感じざるを得ない。
 それともう一つふと考えた事なのだがイータダは今日よく腹を殴られて意識を飛ばし、あの世とこの世を行き来する個人的に忙しい日なのだとも思ったがこれは余談だ。
 しばらく緊迫した雰囲気が漂い、その場を騒然とさせていた。
 その場に見切りをつけたのか、誰に何も言われるわけでも無く智さんは自分が座っていた位置に戻り腰を下ろすと、自分の料理に口をつけ始めた。大ちゃんも自分の席に座ると何事も無かったかのように新しい割り箸を取って美味そうに料理に口をつけている。
 相当腹を空かせていたのだろう。すごい勢いで料理は口に吸い込まれていき、あっという間に二人とも完食させていた事に気がついて思わず愕いてしまった。
 さっきはあんなに形相を変えていた大ちゃんもどこか有難い表情を浮かべていて、先の出来事がまるで幻であったかのように思えたのだが、廊下に這い蹲っているイータダの姿を確認するとやはりリアルのものであった事は間違いなかった。
 そう言えばふとトースの事が気になった。
 あれから随分時は流れているので、まだ食事を終わらせていない事はないだろうと思い、横目で左方向を確認すると視界には映らない。まさか蒸発してしまったのかと焦って身体ごと向けると、完食してご満悦だったのか椅子に深くもたれかかり、涎を垂らしながら寝息を立てているトースの姿があった。
 先程の一連を目の当たりにしている僕としてみたら睡眠を決め込んでいる彼の神経に疑いさえ感じてしまうのだが、阿呆極まりない寝顔から出来事に携わっていない事を思わせた。
 最後に確認したのは食事にがっついている最中。いったい彼はいつ食事を終え、いつ眠りに誘われたのかはやはり皆無なのだが、もし彼がその場に居合わせていたのなら恐怖の余り身体全体を震わせて、またもや異世界に旅立つ派目になり、もしかするとショックで数日、否、数週間使い物にならない状態に陥る事と充分予測は立てられる。
 ライブも控えている訳で、今ばかりは彼の能天気さが幸となったのかもしれない。いわゆる知らぬが仏というやつである。
 僕は眠りに耽る彼を会議が終わるまで放置する事にした。
 皆が食事を終えた事を確認したかのように店のスタッフが食器を下げにやってきた。そんなに大きいとも思えないトレンチにお皿をうまい具合に積み上げながら手際よく机の上を片付けている。
 たまに智さんや大ちゃんと会話していて二人ともとても親しみのある表情を浮かべている。店のスタッフといつこんなフレンドリーな関係になる時間があったのか疑問に思ったがそこは僕の了見ではないと思い改めて敢えて触れない事にした。
 しばらくすると片付けも終わり『少しお持ちくださいませ。』と僕にも一言残してお皿を運んでいった。
 一体何を待つのか分からない。僕は呆然と智さんの方を見ると僕の視線に合わせて一つウインクをして意味あり気に微笑んでいる。ウインクの意味も笑顔の意味もよく分からないまま何となく大ちゃんの方を向いてみると、彼は既に僕の顔を見ていて微笑みながら一つ頷いた。
 釈然としない想いで心が凍結しそうになったのだがこれ以上自分を失わせたくは無い。とりあえず笑顔の二人からこれから起こりうる事はいけない事ではないとだけ自分に言い聞かせて薄く目を閉じて、下を俯いた。
 何やら前の二人は楽しそうに会話をしているのは聞こえてきているのだが、その会話に混じるまでの心の余裕は無い。既に僕の心の中は『後は野となれ、山となれ』状態であり、来る時を待つ事しか出来なかった。
 気がつくと何やら辺りが騒がしくなっている事に気がついて目を開いてみると、机の上に飲み放題専用グラスが人数分とコーラ・サイダー・ウーロン茶の三種類の飲み物を搭載したサーバーが普段食器を運ぶと思われるワゴンに乗せられて机の横に置かれていた。そして目の前の二人と楽しそうに会話しているスタッフの姿があった。
 自分の何となく予想していた出来事と大きく異なる事に戸惑い隠せず、三人の顔を順々に見回しているとスタッフが笑顔でこっち向いた。
「店主からのささやかなプレゼントでございます。遠慮なくお召し上がり下さい。」
 彼はグラスに手を差し伸べて大きく頷いた。
 そうは言われても『そうですか、ありがとうございます』とグラスを手に取る気分には到底ならない訳で、自分の中で感じている疑問点を率直にぶつける事にした。
「いや、スタッフさん、何に対してのプレゼントなんですか?状況が今一よく分からないんですが…。」
 スタッフは智さん達と視線を合わせ困った顔をしながら肩を竦めていた。そしてまた僕の方を見て万遍な笑顔を浮かべた。
「私、安藤と申します。以後よしなに。あなた達を翻弄させた為に店主からのささやかなお詫びのようなものでござい…。」
「あ、安藤さん。もう僕から話しますからお仕事に戻ってください。ありがとうございました。」
 何かに気を使ったのか、智さんはやんわりとした口調で言葉を制すと、安藤は誤魔化すように頭を掻いた。
「あ、歳の性か言葉が多すぎたようですな。では仕事に戻らせていただきます。ごゆっくりお寛ぎ下さいませ。」
 安藤はそう言って、またもや滑りながら部屋を出ていくと、ゆっくりと静寂が部屋を包んでいった。
「では店主の気持ちに甘えてドリンク頂こうか。」
 智さんがそう言うとそれぞれグラスを手に取り、好きな飲み物を注いだ。
 眠る奴、倒れている奴を除き、僕達は会談の続きをするべく姿勢を正して席を向き合った。

 まずは智さんから僕が気を失っていた間に起こった店主・安藤との一連についての事細かな解説を聞いた。
 独断偏見定食の名前に隠された謎。店主の殺伐とした雰囲気に翻弄された智さん達の苦渋なる想い。スタッフ安藤の謎めいた雰囲気と過去。大ちゃんの逆鱗。またもや店主の舌打ちの意味と策略劇。そして優しさ…。
 熱く語る彼の口調から短い間に起きた出来事の様々な想いを感じたと同時に、聞こえてきた大ちゃんの怒号の深層も掴む事ができた。
「大変やったんじゃなぁ…。ホンマお疲れ…。」
 僕は労うように心を込めて言うと大ちゃんは照れるように笑顔を浮かべた。
「いやぁ、自分があそこまで怒れる人間だったとは思わなかった。ホントびっくりだよ…。」
 そう呟きながらも彼は美味そうにコーラを飲んでいた。
 確かに大ちゃんも大変だったろうが、この話で一番心労したのはもちろんの事智さんであろう。
 話を聞くだけでは状況を完璧とまで把握しきれないのだが、智さんの語りに一度たりとも大ちゃんが口を挟む事がなかった事から話は忠実に再現されているのだろうとだけは思っていた。
 自分ならそんな時にどう行動するのかと考えてみたが、大ちゃん同様黙ってはいられないだろうし、寧ろ止める立場に入るだなんて考えられなかった。もはや脱帽の想いである。
 そんな智さんはどこか遠い目をしながらぼんやりとウーロン茶を嗜んでいた。
 これまでにバンドの会議は幾度無く行われていた訳で、他のメンバーがトランスする姿は毎回見ているのだが、彼がこんな様子になる事は滅多とない。何かを考える仕草をしてまた目を閉じてため息を吐き、ウーロン茶を嗜むという行動を何回か繰り返していた。
「智さん、一体どうしたの?」
 心配そうに声をかける大ちゃんをチラ見して、彼はまた視線を遠くに置いてため息を吐いた。そしてウーロン茶を一気に飲み干してサーバーにグラスを持っていきながら答えた。
「いや、一連を説明して幾分心は軽くなったんだけどさ…。今時計見たらこんな時間帯になっていたのかと思ってね。もう既に話し合いする時間はないよなぁ…。」
 僕は横のボックスの壁際にぶら下がっている時計を見てみると針は十九時三十分を少し回った所を差していた。
 普通なら皆、夜御飯を終えて風呂にでも浸かっている時間帯だろう。そう思うと確かに遅い時間である。
 入り口付近にある小窓から入る光は人工的なモノばかりで、夜の闇がすぐそこまで押し寄せてきている事を感じさせた。
 スタジオを終えたのが一八時。この店に入り一時間半余り経った今だが、様々な弊害により会議の内容はまったくと言って進んでいない現状であり、タイムリミットが迫っている僕達には痛手の他何物でもない。
 リーダーである智さんが嘆くのも無理はないと思った。大ちゃんも落胆を隠しきれないようだ。
「そうだね…。こんな時間だしそろそろ帰らなくちゃいけないね。もうあんまり時間がないのに今日のロスは正直痛いね…。」
 その言葉に二人とも肩を落して同時にため息を吐いた。
 その二人の姿を見て僕は思わず声を上げた。
「ちょっと待って!もう少し時間ある!?」
 いきなりの荒げた声に二人は愕いて僕の方に視線を向けたが今日の会談の内容が思いの他進まなかった性もあるのか怒りや落胆の思念は隠しきれていなかった。
「なに?なんかあんの?」
 大ちゃんは既に心が折れている様子でぶっきらぼうに言った。
「いや、智さんらが店主らとモメよる時にな、実は俺一人で曲名考えよったんよ…。」
 僕の言葉に大ちゃんはどう捉えていいのか分からない表情に変わった。
「えっ!?岡田さん実は俺らのモメ事聞いてたの!?」
「うん…。内容までは聞こえんかったんじゃけどな…。」
 大ちゃんは怒りを顕わにした声を上げた。
「なんで止めに来てくれなかったの!?」
 僕はなるだけ冷静を装い答えた。
「だってな?あの状況で俺行ったってなんかの役に立てたと思う?」
「うむ…。」
 彼は声を漏らし、腕を組んだ。
「バンド的にも時間ない訳じゃし、もしかしたら話し合う時間無いかもしれん思てさ、我慢して一人で考えよったんよ!」
 いきなり目の前でガタッと大きな音がした。
「岡田っ!!すごいじゃないか!!」
 智さんは愕いた顔で立ち上がって大声を上げた。
「岡田さん、意外と冷静なところあるんだね…。ちょっと見直したよ!」
 大ちゃんもそう言って、二人は共に万遍の笑みを浮かべて拍手を送ってくれた。しかし、その姿に僕は少し罪悪感に苛まれてしまった。
 僕の話す内容に決して間違いはない。しかし誰にも知られる事のない真実が存在している。
 僕が我に返った時、何やらボソボソと話声が遠くからしていたのは知っていた。それに気を止めず、智さんに課せられていた曲名を一人で考えるチャンスだと思い、真面目に内容を煮詰めていた事までは本当の話である。
 大分自分の中で内容の整理が付き、残りのメニューに手を伸ばした瞬間に大ちゃんの怒号が聞こえてきた。それすら気にも止めず漬物の味に心を奪われていたという真実…。
 揉め事の仲裁に行くのを我慢して曲名を必死に考えていたと言うのは真っ赤な嘘と言う事になる。
 現在に至るまでの煩わしい事が無事終結し、やっと会議の本題を話し合えると思いきや、タイムアップとなる事態はまさか夢にも思わず、何の考えもない突発的な言葉を放っただけであった。
 目の前の二人は痛く感動している姿から、口からの出任せは意外とまともな事を言ったのだとそこで初めて気がついた。
 惜しみない拍手と暖かな眼差しが圧し掛かる罪悪感をより深くしているようだった。しかし、僕は考えた。

『これは人を裏切る為についた嘘ではない。バンドの明日を想い、つかざるを得なかった嘘なのだ。致し方がなかったのだ…。』

 そう自分に強く言い聞かせて、一つ深く息を吐いた。そして目の前の二人に向けて満面の笑みを浮かべて見せたが、やはり自分についた嘘に対しての動揺は完全には隠しきれずまともに目を合わす事はできなかった。
「で、岡田。何かいい案は浮かんだのかね?」
 上機嫌な智さんの言葉で漸く僕はまともに前を見る事ができた。
 さっきまで立てっていたはずの智さんは椅子に深く腰かけて茶を啜っていた。大ちゃんはサーバーにグラスをやり、新たにコーラを注いでいる。その状況から会議の続行を確認する事に言葉は要らなかった。
 大ちゃんがコーラを注ぎ終えると僕も空になったグラスにサイダーを注ぎ、歌詞カードをいつも演奏されている順序通り右から並べて改めて二人の表情を確認した。いつもより神妙な面持ちを浮かべている事から、一分一秒たりとも既に無駄にはできない事を感じ取った。
「俺の考えた事を今から言うけど、今度は訳分からん方向に話持っていくのやめてな?」
「約束しよう!では、話を聞かせてくれ!」
 智さんは力強く言い、大ちゃんもその横で万遍の笑顔を浮かべながら相槌を繰り返していた。
 そうは表しているものの、僕の心はやはり釈然とする筈もなかった。しかしそんな事に捉われていても仕方がない事も重々承知している。
 僕は頭で内容を整理する様に語り始めた。
「えーっと。まずビートロック調の明るめの曲から。あ、それより俺が初めに言うた歌詞に対しての感想覚えとる?」
 二人は無言で頷いた。
「うん。夢を叶えたいって第一印象じゃきん、曲名も単純明快につけた方がええと思うんよ。その方が聞き側にもより分かりやすいかなと思ったんよなぁ。」
 智さんは低く声を唸らせながら腕を組んで何度も頷いていた。
「確かに岡田の言う通り、歌詞もスタンダードなら曲名もスタンダードにつけた方が分かりやすい。夢にちなんだ曲名…。」
「ホントに単純明快にDREAMでどう?」
 智さんの言葉の最後に重ねるように僕は言った。すると大ちゃんが嬉しそうにパチパチと手を叩いてはしゃぐように足をバタつかせた。
「DREAMいいじゃん!!分かりやすくてしっくりくるよ!!」
「うん!この曲は変に拘った曲名よりも単純な方がいいと思う…。よし!DREAMで決定だ!!」
 僕と大ちゃんを交互に見ながら智さんは嬉しそうに言うと僕に握手を求めてきた。
 こんな簡単に決まっていいものかと思って少し戸惑ったのだが、嬉しそうに顔を綻ばせている二人の表情を見ていると僕も嬉しくなり智さんの手を力強く握り締めた。
 しばらく熱い握手を交わし所定の位置に体を戻した。まだまだ話しは終わった訳ではない。
 喉の奥がカラカラに乾いている事に気がついてサイダーを一気に飲み干した。炭酸の刺激に思わずむせ返りそうになったのだが、激しく咳払いをしてそれを制すと本題に話を戻すように二曲目の歌詞カードを指差した。
「次の激しめの曲なんじゃけど、音楽の頂点を極めるって意味合いな歌詞じゃきんなぁ…。英語にしたらちょっと響きがバンド曲ぽくない感じするんよなぁ…。」
 お互いを交互に見ると、智さんは目を閉じたまま頬杖をつき、誰にも聞こえない声でブツブツと何かを唱えていた。大ちゃんは後頭部で掌を組ませながら椅子に深くもたれ掛かり口を尖らせていた。
「頂点かぁ…。TOP?THE PEAK?確かに英単語だとかっこ悪いね…。アニメの主題歌ならいいかもしんないけどね。ははっ…。」
 おどけた声でそう言いながら苦笑している。
 実は一人で煮詰めていた時にもこの事について深く考えていたのだが、一向にしっくりとくる曲名は思い浮かばず往生していた。皆の反応を伺おうと思って言ってみたのだが、大ちゃんから上げられた英単語を聞くところによるとやはり殺伐とした曲風に合っているものではないと改めて思った。
「やっぱりそうなるんよなぁ…。智さん、なんか案ないな?」
 彼はまだ何かを呟きながら瞳を閉じている。大ちゃんは智さんのこの状況に何も思っていない様子で美味そうにコーラを飲んでいた。
「頂点…。最高級…。」
 智さんが不意に呟いた。はっきり聞こえたのはその二つのワードだけでまた何か呟き続けた。それはまるで連想ゲームをしているかのようだと僕は思った。その彼の姿を僕達は食い入るように見つめていた。
「頂点…。」
 智さんはもう一度そう呟いてゆっくりと目を開けた。そして頬杖をついていた腕を机の下にしまい、口元だけ静かに笑わせながら僕達を交互に見つめた。そんな彼の瞳には激しい光が宿っていた。
「何か掴めたの!?」
 大ちゃんが嬉しそうに言うと、彼は涼しげな顔をして並々と注がれていたグラスを口に当てていた。いつもの通り一口だけ飲むと思いきや、一気に飲み干して力強くグラスを机に置く。
「あぁ…。やっとたどり着いたさ。もうこれしかない!!」
「何よ!?はよ教えてや!!」
 机を乗り出し叫び声に似た声で聞いた僕の姿を見てニヤリと笑みを浮かべていた。
「確かに英単語にしたら曲の雰囲気に合うとは言えないのは二人の会話であっただろう?そこで別の言語で考えていたんだよ。大ちゃんは知っているとは思うけど俺は生粋の車好きで、この名前の車が大好きなんだ。それにちなんでもあるけど、スペイン語で頂点って和訳する曲名をつける事にした。」
「あっ!そうか!その手があったかっ!かっこいいね!いいね、それ!」
 大ちゃんは即座に理解したようで曲名も分かっているらしい。その姿を見た智さんはご満悦の様子で今度はコーラをグラスに注いでは飲んでいた。
 一応学生の身ではあるので英単語は少しだけ分かっているつもりなのだが、他の言語となるとチンプンカンプンであり、車の事など微塵も興味がない僕には二人の会話が何の事やらさっぱり分からなかった。
「え?じゃけんはよ曲名教えてや…。」
「悪い、岡田は車の事興味ないんだね。それじゃ分かる筈もない。曲名はCIMA。車の名前では一度は聞いた事あるだろ?」
 僕は少し思い返していた。
 昔、父親が日産社製造の車を購入したと大層喜んでいて、確かその車の名前がCIMAだったような…。
 父親はこの車をとても気に入っていたようで、休みの日の朝になると、まるで宝物を手入れするかのようにピカピカになるまで磨いており、そんな父親の姿をいつまでも眺めているのが好きだった。たまに家族でドライブがてら旅行する事もあった気がする。
 いつしかこの車は違う物に買い換えられていたが、それはいつだったのかは思い出せない。しかし、当時父親のご自慢だったこの車を幼き僕はとても好きだった記憶を鮮明に思い出させた。
 淡い思い出に思わず涙しそうになった。しかし、ここで涙を見せると自らが確実に混沌とした空気を作り出してしまう。泣き出しそうな感情を蹴って、大げさに思うほどの笑顔を作って僕は言った。
「CIMA…。えんでないん!俺も気に入ったよ!」
「ありがとう!満場一致でこの曲名はCIMAで決定だっ!!」
 智さんは固く握った拳をつき出して声高に言った。その力ある声にまるで室温が上がったのかと感じるように辺りは高揚した。
 その場の空気に連動し、僕と大ちゃんは自然と拍手を打っていた。
 気をよくしたのか智さんはその場に立ち上がり、まるで政治家が選挙の時にしているように僕達に笑顔で手を振っている。それに相まって僕達の拍手もだんだんと高々な音に変わっていった。
 三人が盛り上がっているさながら、ふと我に返る自分がいた。それは先程智さんの一言が気になったからだ。
 彼は満場一致と言った。それは決して間違ってはいないのだが、この話し合いに参加できている状態である僕達の意見だけが一致している訳で、異世界に旅立っている残念な二人の承諾は得ていない。よってバンドメンバー全員による満場一致ではないという事になる。
 話し合いは今の所全て完了している訳ではないが、この会議の間に意識を取り戻すという事はないと思う。
 確かに会議の初めに智さんは僕に曲名を委ねると言った時、二人は『おぉ!!』とどよめいたのだが、これは二人の承諾を意味するものだったのか…。果たしてこの二人は既に決定した全ての事を素直に受け入れる事はできるのだろうかという想いが心の底に引っかかっていた。
 智さんに問いかけようかとも思ったのだが、やけにテンションの高い智さんに投げかける余地もなく、大ちゃんも全然気にかけている様子もない。
 話を順調に進ませているという空気が張り詰めていた。いつもには無い空気だった。
 二人の調子に合わせながらも僕は頭の中を巡らせていた。自分の中でどうしても納得できる見解を見出したかったからだ。そうしないと次のステップに繋げない、それが要領の効かない自分の悪い癖だとも分かっていた。
 二人の姿を引きつりそうな笑顔のまましばらく見据えていた。
 もしかすると気がついているのかもしれない。しかし既に余談さえ許されないこの状況下で参加不能なメンバーまで気にかけている場合ではないという暗いやり取りが二人の中で通じているのではないかと思った。
 このバンドにはとにかく時間が足りなさ過ぎるという見解を考えれば、強引に話を進める事も致し方ない事だと自分の考えを収めた。
「最後の曲名だけど…。」
 智さんが声を漏らしていた。この曲の内容で話が段々とおかしな方向に流れていったと改めて思い出した。今度は智さんの声かけに大ちゃんも顔色を変えていない様子である。
「改めて思い返してみたんだけど、この内容で人に曲名を委ねるって事が間違いだと思ったよ。今すぐには考えつかないけど、必ず次の練習日までには曲名を考えてくる。それでいいかな…?」
 彼は僕達の顔色を伺いながら済まなさそうに言った。どうやらこの曲の話題になるといつもに無くよそよそしくなると今始めて気がついた。先の話で彼は大ちゃんに痛い所を衝かれ、感情的になってしまっていたのだと今になればそう思う事ができる。
 もしかするとこれが俗に言う『惚れた弱み』というやつなのか。智さんの姿がやけに小さく感じ、こう言ってしまうと怒られそうなのだが、なんだか可愛く映った。
「それでいいと思うよ!つか、彼女に書いた曲なんだから当たり前なんじゃない?じっくりと考えなよ!」
 大ちゃんは智さんの肩に優しく手を置いた。僕もまったくの同意見で、智さんを見つめながら一度だけ深く頷いた。
「ありがとう…。ありがとう…。」
「いいって!頑張んなよ!」
 何度も小さな声で呟いては慰められるという情景がまるで青春映画のワンシーンを見ているような感覚に捉われた。それと同時に人を愛するという事がいかに大変な騒ぎだという事も勉強になり、自分にはまだ分かりかねる感情であるという事を確認できた。
 もしかすると僕が幼すぎるだけなのか…。やはり考えないようにしよう。
 しばらくは意気消沈していた智さんも次第に気を確かに持ち返してきたらしく、持参していたポケットティッシュを鞄から取り出して鼻をかんだ。そして一口コーラを飲んで咳払いをして真っ直ぐな瞳で遠くを見つめて深呼吸をしている。表情はいつもの聡明なものに戻っていた。
「曲名の話はひとまず完了という事になった。岡田の素晴らしい気転により迅速なスピードで話し合いを終える事ができた。本当にありがとう。」
 智さんの声と二人の熱い視線が僕に降り注ぎ、何だか恥ずかしくなって頭を掻いては照れ隠しをした。しかし、迅速なスピードで事が進んだのは僕のお蔭ではなく、二人の決定の速さであるものであると思ったのだが敢えて言葉にはしなかった。
「最後に、もう一つ話しておかなければならないことがある…。」
 真面目な表情をより深くして徐に智さんは言った。
「えっ!?他に今日何か話しする事あったっけ!?」
 大ちゃんさえも知らない話題らしく、愕いた表情で体ごと智さんの方を向けていた。既に皆のグラスにはドリンクは入っておらず、新たに注ごうともしていない。話し合いはお開きだと思っていたからだろう。
「この際、話しておいた方がいいと思ってね。それはこのバンドの名前の事についてだよ。」
 智さんのその言葉に僕も大ちゃんも唖然と見尽した。
 演奏も完璧な形に近づきつつある今、後付けのように曲名が決定し、そもそも志の代名詞であるバンド名の事を僕達はすっかり忘れていた。
 全ては急すぎるほどの展開がこのあべこべな順序を作り出したに他ならないと僕は思った。きっと大ちゃんも僕が今考えている事を思い、唖然としてしまっているのだろう。
 智さんは言葉を続けた。
「皆には悪いとは思ったのだが、このバンドの名前はリーダーである俺が独断で付けさせてもらう事にする。今回のライブ出演が決定した後に考えて考え抜いた言葉なんだ。これだけは悪いが譲れない。」
 別に悪い事ではないと正直僕は思った。
 もちろんバンドを結成するに至った出来事は智さんから始まっているという事は語るに足りない事であり、先程の話の続きではないが、寧ろ今この話題を出すタイミング事態が滑稽に思える程である。
「いやいや、智さんが決めるのが正論だと思うよ!智さんの言葉で俺達が集まれたのだから、智さんにこのバンド名を決めて欲しいのはメンバー皆思っている事だよ!なっ?岡田さん。」
「うん。俺もそう思とったよ!バンド名はよ聞きたいな!」
 もし、倒れている二人がこの場で話を聞いていたとしても僕達と同じように相槌を打つだろうと何故か思えた。
 僕は大ちゃんの言葉に深く頷きながら智さんを見た。
「ありがとう。俺は本当にいい仲間を持ったと思えたよ!バンド名はZEALと名づけよう思っている。意味は熱心な、とか熱中とかそういう意味合いなんだ。今の俺達にぴったりだとは思わないか?」
 智さんは本当に嬉しそうに僕達の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「zから始まるバンド名ってなんかかっこいいね。ZEAL…いいじゃん!」
 大ちゃんは腕組みをして笑顔を浮かべていた。
「うんうん!かっこいいやん!」
 僕も大ちゃんの言葉に連ねて言った。智さんは一口分だけウーロン茶をグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
「うん!最高の気分だ!こんな清々しくも美味く感じるウーロン茶は今まで味わった事がない!」
 まるでどこかのグルメリポーターのようなオーバーリアクションを見せ、それに愕いた僕達の表情と彼の視線が不意にぶつかった。
 三人は無言のまま時に流されていると、ふと腹の中から泡のようなものが沸々と湧き出てきているような感情に見舞われていた。そして、その溜まった泡が弾け飛んだかのように気がつくと三人の間で大爆笑が起こった。
 今日一日様々な試練がこのバンドに降りかかり、半ば困難を極め、諦めかけた時もあった。だが見事それらを振り払い、何とか今にたどり着くことができた。
 この声高な笑いはきっと勝利の雄叫びと比喩してもいいだろう。三人共に腹を抱えて笑い合っていた。
「んあ…。ふわぁあ…。ん?どしたん、みんな?」
 トースが目を覚ましたようだ。彼は本気で爆睡していたらしく、真っ赤にさせた目を必死に瞬かせながら大きなあくびをかいていた。
「おやおや、ZEALのトース君じゃないか…。おはよう!」
 智さんの言葉にきょとんとした表情を浮かべた。
「ZEAL…?なんすか、それ?」
 目覚めて幾分も経たないまま、いきなりそんな事言われても分かる筈もなく、トースは素面のまま真っ直ぐ見つめる事しかできないようだった。  
 もしかしたら彼に智さんなりの罰らしきモノを与えようとしているのかもしれないと少し思ってみたのだが、そんな智さんは意地悪そうな表情でトースの寝惚けた情けない反応を覗って楽しんでいるようにしか見えない。
 起きているのか死んでいるのか分からないほど虚ろになりつつあるトースに智さんは語りかけていた。
「改めておはよう。君が眠りこけている間に会議は終息を迎えようとしている。会議の初めに俺が言った通り、曲名は岡田がほぼ考えてくれて円滑に話し合いは進んだ。そしてZEALというのはこのバンドの名前だ。皆が懸命に頭を捻らせて考え抜いた結果付けられたのだ。そんな君は初めから会議に参加せずに何をやっていたのだ?」
 話が大分装飾されて語られていると思ったが敢えて言葉にはしなかった。多分これが彼に与える智さん流の罰なのだろう。
 少し陰湿に思えたのだが、先程僕も智さんと大ちゃんを欺いた事を思い出し思わず肩を竦めた。
 そんな僕の態度にも気が付かず、大ちゃんは語りの内容の微妙な違いに違和感を覚えた表情を丸出しにして智さんを見つめていた。その視線に気がついた彼はいつものウインクでサインを送ると大ちゃんは全てを悟ったかのように一つ頷いた。そして何事もなかったかのように目を閉じて俯いた。
「お、俺は…。」
 トースは虫の息のような声で呟いた。
「そう…。君は会議を放棄していた。間違いはないな?」
 智さんの言葉に泣き出しそうに表情をくしゃくしゃにしてトースは一つ頷いた。
「よって、決定した事の異論は認めない。全ては決定事項であるという事だけ認識してくれればいい。」
「えっ…?」
 愕いた様子でトースは顔を上げて目を真ん丸に見開いて智さんを見つめた。
「いいって事だ!今日は既に時間が足りない故、曲名は後々教える事する。それでいいな?」
「う、うぅ…。すいませんでした…。ありがとうございます…。あぁ…。」
 トースは机に顔を埋めて遂には泣き崩れてしまった。そんな姿を智さんは机越しから頭を撫でて慰めている。
 多分彼はかなり重い罰を与えられると思っていたのだろう。しかし、話を鵜呑みにする事だけで自分の行為が許されるという事に愕き、智さんが寛大に映った。涙の訳はその慈悲たる行為に感動してしまったのだと思う。
 僕は大ちゃんと視線を合わした。彼も何だかよく分からない表情で苦笑いを浮かべている。
 この茶番劇とも言えるやり取りをぼんやり見つめていると智さんの心の中を垣間見える事ができたような気がした。
 イータダもトースもあまり難しい事は考えない質である事は皆が皆知っての通りである。敢えて彼らの存在を気にせず話し合いを続けていたのは、後々こういう形で言い包められると初めから高を括っていたのかもしれない。
 こう考えると智さんという人間はとんでもない謀略家であり、心を寄せすぎると危険な存在である事は充分予想はできた。
 それはそうと、先程智さんが『時間が足りない』という言葉を発していた事を思い出して時計に目をやると、針は二十時を少し回った所を指しており、思わず周りを見渡した。
 厨房の方から何やらガチャガチャと食器が重なる音や水道から水がジャージャーと流され続けている音が聞こえてきており、どうやら閉店準備による清掃が始まっているようだった。
 確か丸々亭のオーダーストップは十九時で、閉店時間は二十時だった筈。
店員が何も言いに来ないのは僕達に対して配慮しているのだろう。その事に智さんが気づいていない訳もなく、相変わらず泣きじゃくるトースに少し困り始めている様子だった。
「トース、もういいから。泣くのを止めようか…?」
「うん…。ごべんねぇ…。」
 トースは喉を詰まらせながら袖で涙を拭うと、智さんから差し出されたティッシュでシュンと鼻をかんで笑顔を作った。
「ZEALかぁ…。意味は分からんけどかっこええね。気に入ったわ!」
 智さんの謀略にまんまと嵌ってくれた結果なのか、純粋に受け入れてくれると初めから思っていた結果通りなのかは分からないがどうやら話は丸く収まっていた。
 後は次の練習日に今日話し合って決定した曲名と、智さんの宿題であるバラードの曲名を再度発表するだけになった。
 意気揚々に智さんが声を上げた。
「よし!今日の会議は之にてお開きだ!いつまでも店主の行為に甘えられないからそろそろお店を出る事にしようか!」
 その声を合図に皆は机に出していた私物を片付け始めたと同時に、場を読んでいたかのように安藤がまたもや滑りながら現れて机の上にあるグラスとジュースサーバーを片付け始めた。
 サーバーの電源を素早く抜き、グラスを乗せたトレンチをサーバーの上に乗せて、すぐさまその場を立ち去ると思いきや、少し考える風な態度を取り始めた。片付けの段取りか何かを考えているのかと思い、しばらくは気にしないでいたのだが何やら様子がおかしい。
「あ 安藤さん。どうされたのですか?」
 堪らずに智さんが問いかけると、彼は困った表情を変えずに足元に視線を落して指を差した。
「ところで…。これ、どうなされますか?」
 安藤の指差す方向を見て一堂は愕然とした。
 そこには相も変わらず口元を泡だらけで白目を剥かせながら通路に這い蹲っているイータダの姿があった。
 時間が無い事と、トースとの出来事により完全に沈黙していた奴の事を一堂はすっかり忘れていたのだ。さすがの智さんもこれには困惑を隠せないでいる。
 どうなされますかと聞かれてもまさか放置して帰る訳にもいかない。蘇生させて連れて帰る他、選択肢はない訳ではあるが、事の成り行きが余りにもアバンギャルド過ぎて彼が意識を取り戻した後に揉め事が起きないという保障はない。幾ら無粋を働いた輩に対しての事としても、やり過ぎだと皆が同時に思っただろう。智さんが困るのも無理はなかった。
「うーん…。どうしたらいのか…。どうすればいいのか…。」
 独りごちている様子なのだが、声は明らかにこの状態を作り出した大ちゃんに向けられているものであった。そんな彼は悪ぶれる様子も無く、腕を組んで智さんを見つめている。
 ただ伸びているのではなく、もしかしたら既に息を引き取っているのではないかと思うほど微動もしないイータダの姿は、冷静に見ると危ない常態である。
 智さんは間を挟む大ちゃんを飛ぶように越えて、イータダの傍に座り込み、口元に手を当てた。そして両目を親指で開き、イータダの真上にある天井のライトをよく目に入るように頭の位置を微調整して暫くじっと覗き込んでいた。
「ふう…。どうやら死んでいないようだ。よかったよ…。」
 よく見ると智さんの額に脂汗が浮き出ていて、それを自然に自分の袖で拭き取っていた。その仕草に僕は何気に愕いた。
 彼はいつもエチケットに気を使っているようで、汗はハンカチで拭っていた筈なのだが、そこまで気が回らないほど気が動転していたのだろう。
 なんだか非常に珍しい絵を見た気がした。
 智さんは僕でもトースでもなく、真っ直ぐに大ちゃんの方を向いた。どこか開き直ったような表情であった。
「大ちゃん。イータダを蘇生させてくれないか?」
 その言葉に彼は何やら面倒臭そうに頭を掻いた。
「え?そいつ、そこらに捨てて帰ろうよ。第一、俺、被害者だよ?その報いじゃん!?」
 彼の言う事も一理あるから困った事になっている。ただ…過激すぎるのだ。
「確かに君の言っている事も分かるんだ。しかし、俺達は仲間じゃないのか?もし君が些細な間違いを犯したとして、俺に同じような事を言われた時、その後君は俺の事を信用する事ができるのかい?」
 大ちゃんは無言だった。
「許しあう気持ちも大切だと俺は思うんだ…。」
 そう呟きながら大ちゃんの傍に歩いていった。立ったままで彼を見下ろしている形になっているのだが嫌悪感なるものは微塵も立ててはいなかった。
 もしかすると大ちゃんは目を伏せてしまうのかと思ってしまったのだが、寧ろ真っ直ぐな瞳により強い光を宿し、智さんを見上げていた。彼の強い意思の表れだと思った。
 視線を交差させたまま二人は沈黙している。いや、もしかすると視線だけで会話しているのかもしれない。瞬きさえ忘れて、光を交差させ続けている。その切迫するやり取りに周りの空気さえ共鳴していた。
 そこに僕達が入る隙は微塵もない。ヒリヒリと伝わってくるプレッシャーを肌で感じる事しかできない。いつまでこの雰囲気に耐えなければならないのだろう…。そんな事を考える事でしか心を誤魔化す術は無かった。
 ぼんやりと二人を見つめているとふと交差させている眼光がだんだんと優しいモノに変わりつつある事に気がついた。
 そして肌に伝わってくるモノが止んだと感じた瞬間、大ちゃんが表情を決壊させた。
「ぶはっ!!!わかった、わかったよ!!智さんには負けたっ!!」
 いきなりの砕けた言葉に僕もトースも身体をビクつかせた。どうやら二人の暗闘は終結を迎えたらしい。
 大ちゃんは強張らせていた表情を緩めて、いつもの八重歯を見せて恥ずかしそうに笑顔を浮かべていた。そして智さんも表情を綻ばせて僕とトースに親指を立てて見せた。
「これ以上この店に迷惑をかけたくないから、早速頼むよ!」
「あいよっ!ちょっと待ってね!」
 大ちゃんはそう言うとイータダの傍に座り込み、まずは上半身を起した。
「岡田さん、前から肩を抑えてて!」
 突然のご指名に思わずキョトンとしてしまった。
「さぁ、早く!!」
 もう一度かけられた言葉で指名の名は僕である事を再認識して、焦りながらイータダの正面に回り込み両手で肩を抑えた。
「これでええん?」
「うん。そのままにしてて…。」
 小さな声でそう呟きながら、背中の方々を片方だけの掌で押さえて始めた。
 掌が鳩尾の裏側付近に差しかかった時に大ちゃんは目を瞑り、何かを探るかのように指だけを動かし位置を微調整している。時折手の甲を反対の指で軽く叩いては何かを確認しているようだった。
 幾度か同じ動作を繰り返して、遂にここぞという位置を探り当てたのか、大ちゃんは閉じていた目を開いて僕の目にゆっくりと語りかけた。
「岡田さん、今から俺はイータダに激しい気を送りつけて蘇生させる。俺が送りつけても前から抑えつけている岡田さんが気を緩めると失敗する事があるんだ。阿吽の呼吸ってヤツで感じて欲しい…。」
 大ちゃんの言葉がうまく理解できなかった。
 阿吽の呼吸ってヤツを計るのならば、一番共に過ごしている智さんを指名するのが自然の流れだろう。しかし、このバンドの中でも一番付き合いが浅い僕を何故か指名したのである。
 その事が不可解に感じてしょうがなかったのだが、今はそんな事を問いている場合ではないと大ちゃんの表情からも場の空気からもビシバシ伝わってきて、半ば強制的に諦めて僕は腹に力を込めた。
 イータダの肩をしっかりと抑え直すと、大ちゃんは僕の目を見て一つだけ頷き、目を閉じて深い呼吸をし始めた。
 大きく息を吸い続け、肺の中が一杯になると少し息を止める。そして大きく息を吐き続けてなくなるとまた一度息を止める。そんな呼吸法を繰り返している。
 僕もそっと目を閉じ、彼が今行っている事をまずは真似てみる事にした。
 大きい動作である為、目を閉じていても合わせるだけは容易だと思った。
「肩の力を抜いて…。見るんじゃなく、感じるんだ…。」
 ふと大ちゃんの声がした。しかし耳から聞こえてきたという訳ではない。まるで心に直接語りかけてきたという感覚であった。
 僕は身を委ねるように指先に意識を集中すると、今までは感じ取れなかったのだが、激しく動くイータダの鼓動が手に取るように分かる。そしてその先に激しく燃えるような熱い何かが存在していて、それが大ちゃんだという事も感じ取れた。
 何だか今までに感じたことのない感覚に見舞われていた。
 自らの心の中の微妙な乱れや、温度も掻き消されていく。まるで浄化されているようであった。初めて味わう感触だったが焦りや困惑は無く、不思議と馴染めていた自分がいた。
 不意に前にある熱い何かが激しく輝きだした。大ちゃんが気を高め始めたようだ。
 間にイータダを挟んでいると感じさせないほど熱く伝わってきた。いや、今は三人が一つの物体になっているのだ。大ちゃんの想いもイータダの漂う気持ちも悲しみも全て指先から心に流れてきている。
次の瞬間、激しく放っていた光がふと消えた。

『来る…。』

 そう思ったが別にイータダの身体を抑える力を強めようとは思わなかった。意識する訳ではなく目を開けて前を眺めると、大ちゃんの顔が見えた。
 何故か笑っていた。


 視界がぼやけていた。
 薄っすらと淡い光が揺れているのが見えただけで、他が何かは分からなかった。何やら遠くで声がしている気がして耳を澄まして聞いていると、何かが足音を立てて近づいてきているようだった。
 その足音と共に声も段々と近づいてくる。声が僕の耳に微かに届いた。
 
『岡田さ…ん。』

 近づいてくる足音の主は現実だと思った瞬間、血液の温度が蘇り、五感全てを取り戻す事ができた。
 淡く感じた光は白熱灯から発せられているらしく、目の前に広がる情景は天井だと気がつくまでにそれほどの時間は要さなかった。
「岡田さぁぁぁぁぁあん!!!」
 ふとトースらしき叫び声が聞こえて、身体を起こすと頭が割れるように痛い。頭を抱え込んで耐えようとしたが、上半身はもう一度地面に吸い込まれていった。
「やっぱり初めては心にも身体にも負担がでかかったみたいだねぇ…。」
 足元から大ちゃんの声が聞こえてきた。
 あれからどうなってこうなったのかを思い出そうとしてもどうにも思い出せない。
「あれ…?大ちゃん?俺、どうなったの…?」
 身体はまだ起こせそうにないが意識はしっかりとしていた。僕はそのまま足元の方にいると思われる大ちゃんに言った。
「あら?身体はダメだけど心は平気なんだね!?初めてにしてはグッジョブだ、岡田さん!」
 白熱灯を遮り、視界に大ちゃんの笑顔が現れた。続いてイータダの顔も飛び込んできて、間抜け面を浮かべて悠々とピースしていた。
 そういえば、こいつを蘇生させる為に指名されて、あれやこれやとしている内にこんな事になっているのだ。
 そうは思ってみたものの、不思議と苛立ちは沸いてこない。寧ろ心は晴れ渡る大空のように澄んでいた。
 背中に誰かの手が当てられて、ゆっくりと上半身を起こさせてくれた。
「岡田、よくやった…。本当によくやってくれた…。」
 その声で、当てられた手の主は智さんだと分かった。その横でトースが涙ぐんでいるのが見えた。
「うん…。本当によかった…。」
 僕は少し身体に疼く痛みがある事を感じた。後頭部にも激しい程ではないが物理的痛みがある事からどうやら吹き飛ばされて倒れていたのだと何となく認識した。
「岡田さん。お疲れ様でした。どうぞこれをお使い下さい。」
 背中の方から不意に声がしたので振り向いてみると、安藤が笑顔で何かを手渡してきた。突然だった為、何かを確認せずに受け取ると、掌全体に冷たい感覚が広がった。よく冷やされていたお絞りだった。
 一礼をして本能的に後頭部へと当ててもう一度安藤の方を見ると、彼の奥でタバコをくわえている店主の姿もあった。やはり不機嫌そうな表情を浮かべてはいるものの、先のような殺伐とした雰囲気は感じられず、モクモクと煙を上げているだけだった。
 一応店主にも一礼をして真正面に視線を戻すと大ちゃんが何か言いたそうな顔で僕を見ていたが、敢えて気にしないように傷を庇う振りをした。何となく僕に伝えたい事が理解できたからだ。
 何がどうなってこうなっているのかなんて僕には既にどうでもよい事で、敢えて言葉にする意味さえもない。
 それよりも今の時間が気になって時計を見ると、針は二十一時に差しかかろうとしていた。
 あれから一時間余り経過している事になり、一連の出来事から逆算してみると、軽く三十分は気を失っていたという事なる。
 時間の経過を思うと、ふと頭の中に今日起こった出来事が走馬灯のように回り始めた。何を考える訳でも思う訳でもなく、過ぎ行く記憶を他人事のように見つめていた。
 すると何故か無性に可笑しくなり、気がつくと僕は大声で笑っていた。
「あーっはっはっはっは!!!」
 突然笑い始めた僕の姿に一同の愕いた視線が集中した。それをも気にせずに笑い倒していると、愕いた視線が徐々に困惑の色に変わっていくのが何となく分かった。
 もしかすると気が触れたのかと思われているのかもしれない。何故ここまで笑い続けているのかが自分でも理解できないほどなのだ。
「岡田さん…。大丈夫か?」
 自分の相手に選んだ事に責任を感じているのか、それとも見るに見かねてなのだろうか。いち早く大ちゃんが声をかけてきた。それでも僕は笑いを止める事はできなかった。
「あーっはっはっ!!ごめんごめん!!ははっ!あー可笑しい!!あーっはっはっは!!」
 今の状態では手の施しようがない事を悟ったのか、一同はしばらく僕の様子を覗うという体勢に入った。
 その周りの反応で少し冷静さを取り戻せたが、笑う事は止める事はできなかった。しかし、何故今自分がこのような状態に陥っているのかという事に対しての分析はできるようになり、笑いながらも頭を巡らせた。
 今日一日の出来事。それは一生の内に体験した事のない出来事ばかりであった。
 調練の時、自らが進んでバンドの為に動いている事や、自分の意見を他人に何の躊躇いもなく言えている事に対しての自分に対しての驚き。
 歌詞とボーカリストの想いの関係と、音に対しての様々な価値観。
 バンドメンバーが一丸となって一つの物を作り上げていくという連帯感。そして音同士がバシッと重なり合った時の満足感と快感。
 会議になり、曲名の名づけ親になってくれと智さんから直に指名された時の戸惑い。話し合いが何故か想うように進まないもどかしさの中で今更ながら発覚されたメンバー内の新事実。
 今までに出会った事のないような人間が醸し出す殺伐とした雰囲気の弊害。なんとかそれを切り抜けた後の安堵感。
 そして与えられた優しさと人を慈しむ心…。
 とてつもない情報量がこの数時間の間に起こった。しかしそれは僕だけに起こっていた訳ではなく、メンバー全員に起こっていた事である。
 僕だけに起こった事。僕だけが感じた事…。
 考えていて、笑う事を止めていた自分にふと気がついた。周りは何も言わず、僕の様子を覗っている。
 考えに考え抜いた結果、やはりこの事が心に引っかかっているようだ。『CIMA』という名前を聞いた時に不意に思い出してしまった幼少期の頃の自分の事についてである。
 ふと思い出し、涙しそうになったがその場の雰囲気を壊さぬように気持ちを振り切ったが、心を探ればやはり侘しさや寂しさは残っている。
 個人的なセンチメンタルな気持ちはこのバンドで出す訳にもいかず、ただ笑い飛ばしていただけだと今ようやく気がつく事ができた。
 僕は気持ちを落ち着かせようと一つ息を吐いた。
「気持ちは治まったかい?」
智さんが言った。
「なんとかな…。なんか、ごめんな。色々あってな…。」
「いいのさ、気にする事はない。今日は皆色々あって思う事はそれぞれあると思う。」
 ステレオタイプな言い方だと思ったが敢えて気にしなかった。皆思う事があるのは本当の事である。
「で、あれから何が起こったのか知りたくないのかい?」
 大ちゃんが割って入るように戯けた声を出した。
 もしかするとその場の雰囲気を沈めない為に面白おかしく話そうとしているのかもしれないが、軋む身体は相変わらずであり後頭部も微妙に痛い。
 やはりこの事に関しての言葉はやはり必要ないと感じ、なんとか笑顔だけを浮かべ無言で顔を横に振ると、大ちゃんは気持ちを察したようにそれ以上何も言う事はなかった。
 その場に沈黙が訪れた時、店に流れされていた有線が消されている事に気がついてふと前を見てみると、五人同時に目線が合っていた。
 多分同じ事を考えていたのだろう。何となく可笑しくなり、皆声を上げて笑い合った。 
 安藤がわざとらしく皆の間を横切り、片付けを再度始めた。それが最後の閉店の合図だと思った。
「よし!今日は色々あったけどこのバンドにとってかけがえのない時間になった事だけは間違いない!お店の閉店時間も大幅に押させてしまって迷惑をかけてしまった。速やかに撤収しようか!」
 智さんの言葉でそれぞれ自分の座っていた所に置いてある荷物を持ち、キャッシャーへと向かっていった。
 いつの間にか安藤がキャッシャー台の向こう側でそれぞれの伝票を並べている最中で、皆が来ると同時にポーカーフェイスな笑顔を振りまいていた。
 智さんが先に会計を済ませて、僕もトースも順々に事を終えて智さんの横に立った。
 大ちゃんとイータダが何やら支払いについて揉めているようではあったが、智さんに何とか言い包められて大ちゃんは渋々とお金を出していた。
その姿がやけに可笑しくてトースと共に笑っていたら、さすがに睨まれてしまった。しかし笑う事を止めずにいると大ちゃんも照れながら笑顔になっていた。
 全ての会計が終了して、皆が店を出たと同時に店内の明りも消えた。大分閉店時間を押させてしまったのだからしょうがないと思い、なんだか申し訳ない気分になった。
 トースと僕以外、他のメンバーは見事にバラバラの場所に家がある為、自然とこの場所で解散するケースがいつもの通りである。
 それぞれ顔を合わせて『お疲れ様、お休み』と呟き家路を急いでいく。その姿を確認し、僕達だけになってからこの場所を離れている。
 いつもは自転車に乗って家路を急ぐのであるが、今日は自転車を押してゆっくりと帰る事した。
 街に闇が覆い被さり、何台ものカーライトが僕達の姿を浮き彫りにさせて通り過ぎていく。夜風は生暖かいが、そう不快に思わないのは心持穏やかな性なのだろうか…。
「トース…。」
「ん?」
「バンド誘ってくれて、ありがとな…。」
 トースからの言葉は続かなかったが笑っている事は横を確認しなくても分かった。
「でな、何か最近右手のスピードが早過ぎて止まって見えるようになったんじゃって!!」
 その突拍子のない会話展開に愕いて横を見ると、トースの顔はいつものヤらしい表情に変わっていた。
「止まっとるように見えるのに音だけシュシュシュシュいよるんじゃって!!すごない!?」
 何だかこの会話に全てが救われた気分になり、僕は万遍の笑みで頷いて見せた。
 これからはバンドの話はもちろん出てこなかった。

第七章 会議2おしまい   第八章 戦…前日につづく

 

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