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私的シン・エヴァンゲリオン所感 《無数にある不確定性な物語》

2021年3月8日公開の「シン・エヴァンゲリオン」を初日に見てきました。

アニメ=芸術とするならば、芸術(アニメ)は客体がどのように「知覚」するかが肝要であると思います。

様々な設定があるエヴァですが、私の知り得るエヴァと関係のない知識を繋げて、どのように知覚を得られたか書いてみました。長くなっちゃいました。

もちろん、ここから以下は【ネタバレ注意】です!





喪失の予感

「止められない喪失の予感」 
ーone last kiss/宇多田ヒカル

one last kissという題名をみて、誰もがミサトの「大人のキス」を思い出すだろうと思います。国連の銃撃戦を掻い潜り、シンジを「大人のキス」で送り出すあのシーン。

ミサトはその後どうなったか、ここで言う必要もないと思いますが、one last kissの歌詞に「止められない喪失の予感」をみて直感的に思いました。

またもや、すべてのリリンを徹底的に《分断》しつくして、喪失のみが残こってしまうのでは?シンジは本当に幸せになれるの?といった具合に。


第3村というコモン

林原 「まさかの畑仕事でしたね(笑)」 
ーシン・エヴァ/パンフレット

第3村では「相補性L結界浄化無効阻止装置」により、L結界から守られたニアサーの生き残りたちがみんなで元気よく暮らしていて、エヴァとしてはとても新鮮なシーンの数々でした。

特に、アヤナミレイ(仮)が様々な事象を内的要因に取り込んでいく様子は、まさに赤ん坊がみる世界がどのようにしてよりリアルに落とし込まれていくのか、実体験させられてるような気分になりました。畑仕事をするシーンはとても微笑ましいです。

裏死海文書によって得られた現代技術と比較して、この第3村が技術的に大幅に逆行して見えることについては、もちろんインパクトでの被害が激しいこともありますが、医者になったトウジの「どうにか医者もどきができている」という発言からも、わかることと思います。

小さなコモンとして成立しているその村は、現代人による国家批判から見える「小さい共同体」への回帰を反映しているようにも見えてきます。

ニアサーが全人類の希望じゃなかったかもしれないけど、ニアサーがあったからこそ生まれた命もあるのではないか。そしてこの第3村というコモンも、ニアサーがあって新しく出来上がったともいえるのではないか。

上記の第3村の描写からわかるように、あらゆる物事の側面は相対しているため、否定と肯定などの2元性は表裏一体に存在しており、逆説的ではありますが相互的になくてはならないものです。(片方が片方を支えている構図からも分かる通りです。)

否定と肯定のどちらの相対主義的立場をとるかどうかは、その人が晒されてきた外部の環境によると思います。その立場をとるだろう未来などを、予測することはほぼ不可能であることからもわかる通り、不確定性に満ちています。

自身が思う、あるべき姿や思想の模索、他人との距離感を推し量ることについて、その方法をただ単に肯定したり否定したりすることは、非常に簡単なことです。

しかしながら、私にとっての肯定の逆側(否定すべき側)を、一度飲み込んで再考することこそ、今必要なことだと感じます。

(相補的に)労働し、食事をし、理解をし、助け合う。誰もが思想を持つ中でも、それでも他人を拒絶することなく、受け入れ合う《分断》なき世界こそ、この第3村であるのではと感じました。


庵野「エヴァ」 / ホーキング「種の起源」

加持さんの意思がヴンダー内部に保管されているのが印象的でした。それらの種が、ヴンダーがファイナルインパクトで本格的に稼働する前に引き離され、宇宙空間を漂うこととなったシーンがありました。

まるで、ぷかぷかと浮きながら今だ見つけていない着地点を探して舞う、たんぽぽの種のようにも見えます。

物質を構成するための情報、遺伝子(DNA・染色体)が、宇宙空間を漂いながら、そこに詰めこまれている。

地球周回軌道上には乗っているため、これから起こることへの保険?として地球への回帰を期待してより安全な宇宙空間に打ち放ったのだとは思いますが、まさにこの行動こそが「人間の(すべての生命の)起源」では?と強く感じました。

スティーブンホーキング博士が語ることの中に、「DNAのような煩雑で精密な塩基配列を有した高分子は、地球の歴史をさかのぼってみても、DNAとして構築されるには時間的に足りない。」といったことを語っています。

かなり中略的な話の飛び方となりますが、DNAこそこの地球にもたらされた最初の種(起源)であるかもしれない、ということです。

地球に衝突した白き月の内部に保管されている、アダム、ロンギヌスの槍、裏死海文書の3つのうち、ロンギヌスの槍の形状が二重らせん構造をしたDNA、そしてそれが解けるさまに見えることも、それについての説明となるかもしれません。

DNAという母の訪れ、またはエヴァでは白き月の衝突やその後のファーストインパクトの原因にもなった黒き月の衝突は、より微小な不確定性の波にのってこの地球にたどり着いたものであり、現在の人や動物や植物を形成してきました。

そして、それと同じことをヴィレ(または海洋研究所)は実行し、あのラストシーンへと繋げていったのではないか。

庵野監督のエヴァ、ホーキングの考えるDNA。実はかなり親和性がある考え方なのかもしれないと思うのと同時に、《系譜》という意思を強く感じました。


アスカとフィニアスゲージ

アスカが眼帯を取って使徒となるシーンをみて、「フィニアスゲージ」という人を思い出しました。

フィニアス・ゲージは、米国の鉄道建築技術者の職長である。今日では、大きな鉄の棒が頭を完全に突き抜けて彼の左前頭葉の大部分を破損するという事故に見舞われながらも生還したこと、またその損傷が彼の友人たちをして「もはやゲージではない」と言わしめるほどの人格と行動の根本的な変化を及ぼしたことによって知られている。(Wikipedia)

相補性L結界浄化無効阻止装置がアスカの目から飛び出してきたときは、思わず身構えてしまいました。しかしながら、その様を見ることで、フィニアスゲージを想起するに至ったというわけです。

ゲージが、鉄道設計と構築工事の際の事件によって、大きい鉄の棒が左目のすぐ後ろを左前頭葉を貫通する形で損傷させられてしまった、かなり痛ましい事件です。

事故後、ゲージは負傷したにもかかわらず「どのように生きるかについて考えた」ということであり、その後の人生は以前に考えられていたよりもずっと機能的に動き、社会にもずっと上手く適応していたと言います。

幼少期のアスカの境遇や、ユーロ空軍エースとしての活躍、そして式波シリーズとしての仕組まれた模造品たち、それらが象徴するのは非現実的な社会性の具体化のように見えます。

ゲージは脳損傷後、10数年生きながらえました。その10数年は、以前の人格よりも増して社会性に富んでおり、奇跡的に「社会復帰」を実現しました。

アスカの死は、人類というコミュニティ(いっしょくたになって魂はなくなるようなコミュニティ)に参画することで、自分の社会的立場、または人としての自立を、かなり【湾曲した形】で実現したのではないだろうか。(そう思いたい…。ラスト以降でも生きてて…。)
※ごめんなさい、アスカは生きてますね。オリジナルではないけども、ケンスケの元にたどり着いている様子も描かれていました。

この湾曲した形には、死ぬことへの喜び、死への欲動、デストルドーを見出すことが出来るかもしれません。死ぬために生きている。試練としての病気が臨死体験であるのであれば、それを乗り越えていくことで、死のための生を全うする義務があるのではないかと思います。

「生きることと死ぬことの二元性に対して、果たしてそれは幸か不幸のどちらであるのか?」という命題を提示し、それに呼応した回答の導きめいたものが、含まれているのかもしれません。

ゲージの肖像。
「長年の仲間」と称した突き刺さった鉄の棒と共に。


エヴァは解釈するもの(シンは関係ないかも)

エヴァンゲリオンの醍醐味の1つに、考察班による巧みな論理的解釈を閲覧して楽しむことがあります。聖書の難解な思想や言葉が散りばめられているエヴァを完璧に理解するには、それなりの知識と出来事を組み立てて試行錯誤できる知恵がないと難しいものがあるでしょう。

しかしながら、考察班の知恵を頼っている人の大半はこう思っているのではないでしょうか。「分かった気でいたけど、結局エヴァってなんなんだ?」と。

単純な話、エヴァは完璧に理解する(できる)モノではないため、逆に言えば、独自の解釈で各々の出来事にストーリーを加えていくことができる話なのではないか、と思っています。(勿論設定は不変ですのでそこは理解しなければいけません。)

際限のない知的欲求は、物事を理解し、それを自分の頭脳にメモリーし、自由自在にアウトプットや活用ができるようになれば、満たされるものであると思います。(自分は少なくともそう。)

その欲求は駆り立てられた瞬間に、次の欲求へと繋がっていく。ある意味、最初の起点となる「理解」については、その後ずっと足をつかまれたまま、ラディカルな存在と化してしまうことが興味深いし注意すべき点でもあります。

最初に何を「理解」するかで、その欲求の道筋が決定されてしまうのではないか?それはエヴァの通奏低音に存在する、人類補完計画という人類にとっては何度目か分からないような不確定性に満ちた計画を否定しかねません。

学ぶ際には、広く浅く(そして徐々に深く)を意識することが、現世を適切に「知覚」する際に肝腎であるし、エヴァの考察も、妄信的な心を排除して、「理解」の幅を広げることで様々な視点から自分の腑に落とせるように解釈すべきであると思う。


ラストシーン/シンジの成長=◯◯の成長

ラストのマリとシンジのシーンでは、シンジの声に神木隆之介さんが起用されています。様々な作品でも声優として活躍する神木さんですが、その大人びた声に驚きました。1回聞いただけでは神木さんであるとは気付くことが出来ませんでした。

マリがシンジに対して目を覆って「だーれだ?」と言うやり取りは3回あったと思います。回数を重ねるごとに、シンジの心的成長を垣間見ることが出来ますよね。

神木さんは現在27歳。碇シンジは当時14歳であったと考えると、その年の差は13歳。何となく、その差について「どのような意味があるだろうか?」と考えてみると、13年前はちょうどエヴァ再構築(rebuild)の知らせがあり、新劇場版ヱヴァンゲリオン序の公開のタイミングでした。

私が度々思うのは、特にこのエヴァというアニメに対する見方の変化についてです。序と破は高校生として、Qは大学生として、そしてシンエヴァは中堅社会人として、各々の眼差しからエヴァを観察してきたことに、改めて気付かされます。

エヴァとの出会いと別れを今振り返ろうとしても、当時を鮮明に思い出せるような超人的な能力がないため、「こうだったかもしれない」と想像をフル回転させるしかないのですが、少なくとも言えるのは、その長い年月が私を変化させてきた張本人であることを、何となく察するに至るのです。

その察しを明確に感じ取ることができる理由として、私自身がエヴァに抱く感想の変遷そのものである、と言い換えることができるのではないか。

そのような私自身の長い年月を、神木さんの年齢とシンジの境遇に照らし合わせたら、シンジがやけに大人っぽくなったように見えることも、私自身のことのように頷くことができるのではないか。

「高校生の時から始まった新劇場版」という視点は超個人的なものであるため、新劇場版が始まった時点からの遡り方で、新たなシンジの各々の投影のされ方は異なるものになるのは間違いありません。人の解釈とその解釈の帰結する場所は、人の数だけ存在するのですね。加持さんもそのように言っていました。

シンジの成長と、私の長い年月とを掛け合わせると、「シンジの成長=私の成長」と、ふとした瞬間重なった。重なりはじめると、「成長した自分自身」に気づくことができた。だからこそ、ラストシーンの日常風景に共感し、感動したのだと思います。

実写映像(宇部新川駅)の中、マリに手を引かれて階段を駆け上がるシンジは、マリという新劇の新規要素による手招きによって、エヴァアニメというある意味虚構の世界からリアリティへの誘いを受け取り、そして出発することができたのではないか。

そう受け取って腑に落とし込むことができたとき、私たちのリアルの世界の見え方や在り方も、思いもよらない何かに変貌するのかもしれません。


人間原理としての希望のエヴァ

人間原理とは、「宇宙の存在や理論を人間の存在から語る方法原理」のことです。物理定数が支配する宇宙では、その定数に狂いがあった場合、地球やその他恒星、人類などの生命体は、まったく存在していなかっただろうと言われます。

全ての始まりは、今存在しているすべてを、その時点で全て抱合しているということとなります。だとしたら、今観測できる宇宙(この世界)は私たち人類が存在できるようなデザインになっていなくてはならず、人類が存在しない宇宙は観測することも不可能である、ということです。

シンジやアスカなどの、エヴァに登場する人間が葛藤を観察したり感じたりできることは、すなわち、シンジやアスカそのものがちゃんと存在しているという事実他なりません。

シンジを代表に、ATフィールドで形成された他人ばかりのこの世界では、孤独や苦しみ、悲しみを抱えて生きている人が確かにいます。その葛藤に押しつぶされそうになっても、その葛藤を感じることをあなた自身が観測できるということは、確かにあなたはここに存在しているのだと言えます。その存在を観測して初めて、「あなたが世界に必要不可欠である」という、私自身の純粋な役割を悟ることができるのではないでしょうか。

エヴァはパラレルでループで、円環としてどこかに接続された物語です。エヴァ内でパラレルやループをしてるのか?それとも、あなたの意思と接続されて、エヴァが創られていくのか?もはやオリジナルのエヴァなどは存在しないのです。

「幸せ」という不確定なものを、自分の負の感情で殺して、心の奥底の牢屋に閉じ込めることをしないために、閉じこもった自分を観察して、確かに存在していることを実感して生きていきたいものです。
(シンエヴァの舞台装置などのシーンからも分かる通り、極めて冷静に、そして客観的に、自分自身を観測して、存在して良い理由を探していますよね。)

ラストシーンでみた、いろいろな幸せの形(マリとシンジ、レイとカヲル)を、少しでも自分と照らし合わせて観察することで、自分の生きる意味と希望を純粋に受け取って生きていってほしい。このようなメッセージ性を感じずにはいられません。

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