教師とは何か 教師とは誰か 『勉強の哲学』/千葉雅也
最近、勉強の哲学という本を読んで、考えさせられることがあった。
それは、「教師」について。
義務教育期間のころ、当時仲の良かった先生のことを思いだすたびに、教師とは一体なんだったのか、と考えることがある。
その疑問はかなりポジティブなものだ。
教師というか、先生というか、◯◯さんというか、その個人というか、おそらく思い出される教師というのは、教師の枠を超えた、個人的なキャラクターに裏打ちされている。
それは、ある《こだわり》に関した、宣教師とも言える存在、なのかもしれない。
私が高校生のときの数学科のA先生の授業は、生徒全員に分け隔てないもので、非常に献身的だったことを思い出す。
授業の枠を超えて、業務外での指導もお世話になった方だった。早朝にチャート式(数学の参考書)を携えながら、数学科室へ訪問すれば、今行うべき作業を放っておいてでも、親身になって教えてくれた。
その時、私は、A先生はなぜそこまで私のわがままに親身になって付き合ってくれていたのか、分かっていなかったと思う(今も分からないかもしれない)。
おそらく、A先生は、私だけに親身になっていたわけではないだろう。しかし、その教師を思い出す理由が、そうじゃないと思いたい私のエゴなのだ、と少々自己満足的に考えてしまう所以なのかもしれない、そんな私自身に気づく。
A先生が教えてくれたことは、《数学》ではなく《私自身》だった。だから、そうやって、たまに思い出しながら、懐かしいような寂しいような気持ちに浸るのかもしれない。
「お前には、頑張ってもらいたい。」
A先生に言われたこの一言は、どんな先生から言われるよりも心に響くものだった。
それは、A先生自身の信念や拘りを、至近距離で、直に感じ取っていたから他ならない。
そんな一言に裏打ちされるように、私自身の行動は、循環した。そして、毎日早朝に、数学を教えてもらう日々が続いたのだ。
人が人に教わって残るものは、おそらく《信念》や《こだわり》そのものだ。
そして、それらの概念を成す中身は、その人にとっての、どんな汚れやエゴも混じらないような、純度100%のその人自身だ。
言い換えれば、それは、最も美しい上位概念。
学校という場には、各々の教科に対して、ある種の狂気的な信念やマゾ的な嗜好をもった、上位概念としての「教師」が存在している。
学校は、イコール閉鎖的な社会だ、比喩されることも多い。しかし、それ以上に、多面的な《こだわり》と、その中での多様性が保有された、豊かなガラパゴス諸島のようにも見える。
義務教育期間にいる未成年達は、閉鎖的で豊かな《こだわり》が保有されたガラパゴス諸島に、正当な権利として、ウロウロできるということだ。
今更ながら、物凄く恵まれた環境で、思う存分に自分探しができるような、贅沢な期間だったのだな、と思う。
自分探しとは、いわば「こだわりを発掘すること」だ。文系、理系に分かれて、大学へ進学し、それによってこだわりを発掘していくこととは、少し違う。それよりもさらに上の、上位概念のことだ。
私の場合は、ガラパゴス諸島で様々な上位概念に触れることができた期間の中で、A先生の《こだわり》に共感して、それに応じるように循環を繰り返した。
(実は、G先生という英語科の教師にも同じような行動をしていたけれども。)
成人し、社会人になり、新たな世界を知る先に、その教えの力は発揮される。
確固たる唯一の知識を得るために、ではなく、知識の根拠を探り、その根拠からさまざまな事象を探究すること。
ある根拠に関したさまざまな事象を、深く、より深く、しかしながら適度な深さで、物事を知る。
そのためには、ある《こだわり》が必要だ。その《こだわり》を教えてくれるのが、教師なのだと思う。
そして、その教師とは、もはや教壇に立つ大人だけではなかった。安易に根拠を追求する社会において、学校というのは、自分を自分たらしめるのに十分すぎるほどの、共同体だったのだ。
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